息を潜めて
汗でにじんだ服を脱ぎ、それで体中の汗を拭く。
靴を脱ぎ、素足で土を撫でる。
足裏に小石が刺さって痛い。
すべて脱いだあとは、絹布の服を着る。
うっすらと透ける透かしのような模様。
羽織るだけでも、背筋に悍ましい冷気が触れる。
俺の熱を吸い取り、生気を味わっている。
見慣れない白に包まれる自分が海面に映る。
波打つ水面だと、自分が写っているそれだと気づけない。
顔を隠す当て布には、水引が描かれていた。
だが、結び紐はすべて逆向きで、縁を断っていた。
白布には紅で模様が描かれていた。その紅は、橋の朱色によく似ている。
提灯を広げる。
すると途端に身が怖気る冷気を発した。
光は赤いのに、その灯りは死者を誘ってる。
肌は冷たさに軋み、吐く息は温度を失う。
ふーと息を静かに吐き。呼吸を整える。
大きく息を吸い込み、呼吸を止める。
朱い橋に向かって歩く、木の板が足に触れる。
何も起こらない。
この方法が正しいのだと思った。
先に進む。
心臓の奥から太鼓の鼓動が鳴り響く。
雷の渦がうねり、熱を持つ。
身体中が暑い。一歩一歩踏みしめるほど、このもどかしさは強くなっていく。
汗が浮き出る。
この肉体は、俺の記憶によって引き留められている。
虹彩が光り、視界にノイズが走る。
橋が軋む。俺の存在を拒むように、引き攣る音を立てる。
絹布が擦れ、海のさざめく音にかき消される。
絹布も、提灯も冷気を放っている。
俺の体の熱気を鎮め、橋を欺く。
だが、唐突に目の前の橋が引き延ばされ、島との距離を離された。
自分の目がおかしくなったのだろうか。
だが、今更だ。
汐のことを追いかけようとしたのに、橋の前まで追い返されたんだ。
橋が意思を持っていてもおかしくない。
もう一度、深呼吸をする。
今度は目を閉じよう。
大丈夫だ。
自身の体の輪郭さえも、わからないようにすればいい。
今はこの冷気に身を委ねる。
呼吸をもっと、ほとんど息をしていないほどか細く。
冷気に触れていただけだったこの体が、冷気を取り込んで自身の熱を溶かす。
だが、体が押し除けられる感覚はない。
体の熱が徐々に冷めていき、芯にまでその手を伸ばそうとしていた。
そこで俺は目を開けた。
そこには、島があった。
振り返ると、橋はまだそこにあった。
だが、向こう岸が見えなかった。霧ではない。ただ、なかった。
体に霜焼けの痛みが滲む。
冷気にやられたからだろうか。
朱い橋を渡り終え、荒い岩肌に足を下ろす。
そこは、波の満ち引きに当てられ削られている。
提灯を手放し、当て布も外す。
砂一つもない島。
黒い岩石の島の上には、木々がひしめき合い、自分の居場所を奪い合う。
木々の根っこは岩石にめり込んでおり、その先端は白く枯れていた。
だがそれ以上に、暗闇に目が入る。
孤島の根元には、縦に裂けた小さな洞口があった。
遠目には人一人が通れる程度にしか見えない。
だが、近づくにつれ、それが錯覚だったことを思い知る。
奥は暗く、底が見えない。巨大な獣が口を開けて待ち構えていた。
その暗闇に吸い込まれるように足を踏み入れた。
奥へ進むほど、海面はおいでと誘うように波打つ。
陽光が水底まで届かず、天井の岩肌だけを撫で上げる。
波紋が広がるたび、濡れた洞窟の壁面に、得体の知れない光の鱗が這うように煌めいた。
海水は酷く冷たいが、同時に生ぬるさを感じる。
寒いが熱い。
高熱の夜に感じる、あの悪寒だ。
波が押し寄せるたび、洞窟の奥から低い唸り声のような音が響く。
潮が引くと、それも静まる。
そばの濡れた岩のひだに光が反射し、ぬらぬらとした艶を見せた。
ゴォォと反響した唸りがする。
暗くて先が見えない。
潮が満ち引きする。
この暑苦しい肉体を今すぐ脱ぎ捨てたいと思う、この衝動をなんとか鎮めながら。俺は汐の後を追う。
足首までしか浸かっていなかった海水は、今では股下まで浸かってしまった。
足を止める。
引き返すなら今だ。
橋はまだあの場所にある。装束を脱いで、元の服を拾えば、もとの村に戻れるかもしれない。
だが、その「もとの村」というのが何なのか、もう俺にはわからない。
バスが来ない島。夜が来ない空。俺の名前を呼ぶ声だけがあった、あの場所に。
海水が満ちるたびに洞窟全体がわずかに震える。
岩が動いたわけではない。
だが確かに、脈打っていた。生き物の腹の中を歩いていた。
顔を上げる。このままこの洞窟の中に飲み込まれてしまうんじゃないか。
そう思っていると、海面に濃い赤が揺れているのが見えた。
引き攣る体に鞭を打ち、岩に手を当てながら進む。
手を伸ばし、それを掬い上げる。暖かかった。この冷たい水の中で、まだ温度が残っていた。
汐が身につけていた、赤い紐だった。
汐の温度が、ここにある。
それだけで、足が前に出た。
なぜこれがここに。
だが、これがここにあるなら。汐はこの先にいる。
足の裏に、鈍い衝撃があった。水面が地面を覆い、その正体を隠している。
その何かを探るため、顔を水面に潜らせる。
目を開けたまま、潜る。
塩が目に染みる。それでも見た。
暗い水底に、船が横たわっていた。
船底には藻が絡みつき、甲板の板は腐って剥がれかけている。だが船体の輪郭は残っていて、それが船だとはっきりわかった。
浮き輪が、ロープが、ランプが。どれも海底に縫い付けられたように沈んでいる。
本来なら海面を漂うはずの古い草履まで、等しく底にあった。
浮くものが、ここでは沈む。
背筋が凍った。このまま洞窟に飲み込まれて、元の世界に戻れなくなる予感がした。
死にたくない。
まだ、生き切っていない。
こんな不気味な世界に取り残されたくない。
でもそれ以上に。
汐を一人にできない。
大破した船を足蹴りにして、海を裂いていく。
水位がどんどん増し、今では胸元まで競り上がった。
陽光はとっくに消え失せ、あたりには光の一つもない。
汐の名前を、声に出さずに何度も繰り返す。
そうしないと、この暗闇の中で汐がどんな顔をしていたか、忘れてしまいそうだった。
だ自身の熱が海に溶け出し、今は自分から冷気を発している。
汐の腕に触れた時の、あの底抜けの冷たさだ。
だが、胸の奥にはまだ太鼓囃子の振動が、熱を発して生きていると伝えてくれる。
「汐!」
呼ばないと、汐が俺を忘れてしまう気がした。
一歩踏み込んだ瞬間、足裏から地面が消えた。
空気を踏み抜いた感覚。
次の瞬間には、生ぬるい海が全身を掴み込んでいた。
水流が足首に絡みつき、引いていく。
ゴポ、と。
洞窟の奥で、何か巨大なものが呼吸した。
次の瞬間、堰き止められていた何かが解放された。海水が渦を巻き、周囲ごと飲み込まれていった。




