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青の底に還る夏

どれぐらい落ちていただろうか。

光を何も通さない。滝に沿って真っ逆さまに落ちている感覚に耐え忍ぶ。

その強い流れに流されている間も、凍えるほどの寒さに耐えなければならない。


ぽちゃんと音がした。


広大な空間に落ちた音が、反響するたびに小さくなって、やがて消えた。

ファンファンと反響し、俺の場所まで戻ってくる。


湿った空気が肌に貼りつき、この場所に俺がいることを確かめているみたいだった。


ここは、先ほどの暗い墨のような世界とは異なる。


海面には仄暗く青い光が底から湧き立ち、海底をも照らしている。

蛍烏賊の群れが放つ青い光が、俺の動きに合わせて揺れる。


その光が天井に反射し、美しい水紋を描いている。

その姿はゆらめいて、意思を持っている。


美しい世界だ。

この世のあらゆる人々が求める、安寧そのものだ。

雫が滴り落ち、反響する。

俺の僅かに残った熱が、ここに居たくないと暴れる。


胎児が母の腹を蹴る、あの感覚だ。俺の中の熱が、ここを拒んでいる。

この空気は冷たいが、骨の髄まで沁みなかった。

ただ何故か、心地いい。


パシャ、と布が水を切る音が聞こえた。

その方向に顔を向けると、汐がそこに立っていた。

慌てて近寄る。

ようやく、その手を掴むことができた。


「おい!汐!」


肩に手を当て、こちらへ向かせる。

だが、その顔には生気がなかった。死者が、眼前に立っていた。

芯まで冷え切って、もはや温度すら感じない。

その底なしの温度が、俺の手のひらから流れ込んでくる。


「俺だ、湊だ。お前の幼馴染だよ。わかるか?」


体を揺さぶっても返事がない。

温度のない彫刻が、ただそこに立っている。


「汐……俺のこと、思い出して……」


涙が溢れ出る。

こんな状況なのに、笑みが引き攣って止まらない。

笑いたいわけじゃないのに、ただ悲しいのに。

静かに汐を抱きしめる。

この二人だけの世界で、ただ静かに。

あの美しかった絹布は海水に浸かり、模様が抜け落ちていた。

透けた布越しに、体温のない白さが見えた。


ただ帰りたい。

ここは、俺たちのいた世界じゃない。

生ぬるい、けど熱い涙が頬からこぼれ落ちる。

その涙が汐の頬に転がり落ちる。


吐く息が白く染まる。


途端に、太鼓が鳴った。

胸の奥から、あの鼓動が始まった。


その熱は汐の心臓に伝っていく。


体温を取り戻していった。

紫になっていた唇は、瑞々しい赤色に。

白くまっさらだった肌は、火照り朱を差した。

頬や首筋が火照り、汗をかいた人間臭さを醸し出す。

石のように固かった体が、次第に柔らかくなる。

そして、虚ろだった目に火が戻る。


「湊……?」


その声を聞いたのはいつぶりだろう。

ついさっき聞いた声だ。でも、数年ぶりにも感じた。

それほど孤独で、途方もない時間だった。



絹布越しの肌が暖かい熱を持って脈打っている。

生きている。


汐の手を取る。

さっき掴んだ時は、氷の塊だった。


今は違う。

じんわりと、熱が返ってくる。

汐も俺の手を握り返した。

お互いの手のひらに汗が滲んでいた。

生きている人間の、汗だった。



ふと、海面に目をやると、そこには見たことのない光景があった。

荒れ狂う波、叩きつける雨、折れた帆柱。

俺たちが乗っていた船だと、わかった。

天井を見上げると、そこには穏やかな海が広がっていた。

波一つない、青い海。光が差し込んで、魚が泳いでいる。

どちらが本物かわからなかった。

どちらも本物だった。


胸の熱が、汐の熱と重なった瞬間。

世界が、ひっくり返った。

天井の海が床になり、足元の海が空になった。

濁流が二人を引き剥がそうとする。

汐の手首を掴む。離さない。

汐も俺の手首を掴んでいた。

暗闇が広がる。

でも、手だけはわかった。


塩水が喉を逆流した。

激しく咳き込む、止まらない。

遠くで声がする。


「こっちだ!息を吹き返したぞ!」


雨の音がした。本物の雨だった。

体が重い。砂が手のひらに食い込む。

砂浜だ。


立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。

毛布がかかっていた。誰かがかけてくれたらしい。


声がした方向へ視線を向ける。

汐が隣で横たわっていた。

服が違う。あの白い装束ではなく、船に乗る前に着ていた服だ。

シャツが引き裂かれ、胸元には赤く擦り傷があった。

内出血による青あざが、皮膚の下で滲んでいた。

救急隊員が慌ただしく動いている。声が飛び交っている。何を言っているのかよく聞き取れない。


二人で、船に乗っていた。

そうだ。そうだった。

雨で目が霞んでいるのか、よく見えない。

目を閉じて安らかに眠っているんじゃないかという不安が脳裏をよぎる。


だが、俺の手の下に、汐の手があった。

それだけで、息ができた。


汐の手を見る。

俺の手は少しふやけていて、擦り傷がある。


だが、汐の掌は違った。

爪の間に砂が入り込み、爪からは血が滲んでいた。

指はふやけきり、斑点状の模様が浮き出ている。

手首の内側には、誰かに強く掴まれた痕があった。




だが、それでいい。


これが、俺たちの生きている世界だとわかるから。



そっと、汐の手を握る。


それに答えるように指先が、ぴくりと動いた。





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