第2章 魔女の目覚め③
瑞穂と靖男の死から二ヶ月後。
帰宅で込み合う新宿駅の雑踏を、幾度も人にぶつかりそうになりながらも、寺山佳代子は、スマホの画面に魅入られながら歩いていた。
そして、とうとうぶつかってしまった。
「馬鹿野郎、こんな人込みの中で、携帯なんかをいじりながら歩いてんじゃねえ」
謝りもせず通り過ぎようとする加代子の背中に、怒声が突き刺さった。
加代子が振り返ると、柄の悪そうな中年の男が、凄まじい形相で加代子を睨んでいる。
「うるさいわね。あんたこそ、前を見て歩いてるんだったら避けなさいよ」
まさか、逆ギレされるとは思ってなかったのだろう。
男は、呆気に取られた顔をした。
次に、何かに怯えたような顔になり、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
加代子が熱中しているのは、「トゥルーフレンズ」という、ここ一ヶ月で急速に会員数を増やしてきたSNSのツールだ。
SNSとは、平たく言えば、インターネットを通じた交流会だ。
ソフトをインストールして会員登録さえすれば、世界中の誰とでも繋がることができる。
その種類は、様々ある。
トゥルーフレンズが急激に会員数を増やしてきた背景には、二つの機能があった。
ひとつは、自分が好きな歌手や俳優や声優などの声が設定できる機能。
その声で、相手からのメッセージを、甘く囁くように読み上げてくれる。
もうひとつは、気に喰わないメッセージをカットしていくうちに、どんどん学習していき、使えば使う程、自分の気に入らないメッセージが自動的にカットされる機能。
これらにより、悩みや相談事を書き込めば、不快な言葉を一切聞くことなく、自分の求める答えだけが、まるで恋人に慰められているかのように、耳に入ってくる。
ネットで不特定多数の人たちに相談を投げかける人々は、大半は本当に悩んだり困ったりしている人たちだが、自分が思っている通りの答えを求めている人も多々いる。
そういった人たちは、たとえ正論であろうと、耳に痛い意見は受け入れない。
自分の正しさを証明し、安堵したいだけなのだ。
トゥルーフレンズは、そういった人たちの心理を、うまく突いていた。
そして、トゥルーフレンズはフリーソフト、いわゆる無料のソフトだ。
使用料もいらないし、課金する仕組みも一切ない。
入力も音声できるようになっており、画面操作は、最初の設定くらいで済ますことができる。
広告の類も一切ないので、非常にシンプルな画面構成になっている。
このソフトが出回ってから、わずか一ヶ月足らずの間に、会員数は全世界で十億人近いと言われている。
まさに、驚異的な数字だ。
不思議なことに、これだけヒットしているにも係わらず、誰が作成したのかわかっていない。
フリーだと当然だと思われるかもしれないが、一般的に著名なフリーソフトは、大抵は作成者がわかっているものだ。
ここまでヒットしておいて、一切の広告も載せず、名乗り出る者もいない。
これは、常識では考えられないことだ。
加代子は、子供の頃から、無口で暗い性格だった。
そのため、いつも目立たない存在で、友達もいたためしがない。
これまで、楽しいことなんてこれっぽっちもなかったが、それを良しとしたことなんて、一度もない。
人並みに、友達も恋人もほしかった。
学校の中でも、登下校中でも、連れだってワイワイと楽しそうにしている同級生たちを、いつも羨望の眼差しで見つめていた。
それは、社会人になっても、変わることはなかった。
一生叶わぬ夢。
諦めの境地に達したとき、トゥルーフレンズが現れて、加代子を救ってくれた。
トゥルーフレンズのお蔭で、加代子の世界が一変したのだ。
トゥルーフレンズの中では、加代子は奔放に振舞えた。
明るく社交的で友達も多い、加代子の理想とする女性になれた。
現実の厳しい世界より、たとえ偽りの世界であっても、甘い夢を見させてくれる方に傾倒するのは、人間の本能と言って良いのかもしれない。
それを、弱さや現実逃避だと非難するのは容易いが、非難する人間にも、弱いところはあるものだ。
加代子は、トゥルーフレンズに嵌る前から、歩行中でも電車の中でも、所構わずスマホに見入っていた。
その頃は、そういった行為が危ないという認識は持っていたので、周りに注意はしていた。
それでも、幾度か人にぶつかりそうになったことがある。
その度に、舌打ちされたり睨まれたりした。
凄い剣幕で怒鳴られ、殴られかけたこともある。
その度に加代子は、小さな声で「すみません」と謝って、その場を逃げるように、そそくさと立ち去ったものだ。
それが、トゥルーフレンズを始めてからの加代子は、まったく人が変わってしまった。
理由はわからないが、特にここ数日というもの、加代子はキレやすくなっていた。
人にぶつかろうがどうしようがお構いなしにスマホに熱中し、ぶつかった相手からどんなに文句を言われようと、謝るどころか、今のように平然と言い返す始末だった。
不思議なことに、加代子の方が悪いのに、加代子が言い返すと、どんな相手でも逃げるように去っていった。
言い返したときの加代子の目が、狂気を帯びているからだとは、加代子自身は少しも気付いていなかった。
ホームの端で電車を待つ間も、いつものようにトゥルーフレンズに熱中していた。
間もなく電車が到着とのアナウンスが流れた。
「加代子さん、僕の胸に飛び込んでおいで」
加代子の耳に、大好きな俳優の、甘い囁きが聞こえた。
「なにも、恐れることはないよ。さあ、勇気を出して、僕の胸に飛び込むんだ」
加代子の目に、憧れの人が両手を拡げて、自分に向かって微笑んでいる姿が映った。
その誘惑に、加代子は抗うことはできなかった。
うっとりとした顔をして一歩前に踏み出し、思い切りよく両手を拡げて、愛する人の胸に飛び込むように、線路に飛び込んだ。
その刹那、電車がホームに入ってきた。
「キャー」
「人が飛び込んだぞ」
「人が轢かれた」
周囲から、悲鳴や叫び声が上がり、新宿駅は騒然とした。