第7章 怒れる男①
都内某所に、公安が隠れ蓑にしているビルがある。
そぼビルの存在は、公安の中でも、ごく限られた一部の者しか知らない。
世間にあまり実態が知られていない公安の中でも、より機密性の高い事案に従事している者達が拠点にしている処だ。
そこを拠点としている者達は、同胞といえど、ほとんどが互いの顔や名前を知らない。
ましてや、自分が抱えている以外の事案なんて、一切知らされてもいない。
もし敵に捕まって、拷問されたり、自白剤を打たれたとしても、他に類が及ばないための配慮だ。
それだけ彼等は、危険な任務に就いているということだ。
それだけに、公安の中でも優秀な者たちだけが選ばれていた。
加えて、自衛隊やSATや警視庁などの他組織からも、優秀な猛者共が出向してきおり、公安というより、一種の諜報組織の体をなしている。
大勢の人々が、一杯呑んで、いい気分でいる時間帯。
そのビルの一室のソファに、不機嫌な顔をして座っている男がいた。
細身ながら、しなやかな筋肉を纏っているのが、服の上からも見て取れ、目に強い意志を宿しているその男は、ひと目見て、只者でないことがわかる。
男の名は、桜井健吾。
ビルに集う猛者共の中でも、群を抜いた存在だ。
上司である高柳から緊急の呼び出しを受けて、急いで駆け付けてきたというのに、もう二十分も待たされている。
桜井の苛立ちが頂点に達しようとした時、ドアが開いて、二人の男が入ってきた。
一人は、高柳。
濃紺の縦縞のスーツをビシッと着こなし、少し白髪の混じった髪を綺麗に横に撫でつけている様は、いかにもキャリアといった風情を漂わせている。
その証拠に、銀縁眼鏡の奥には、抜け目のなさそうな、狡猾ともいえる目があった。
もう一人は、桜井の知らない男だ。
背はそれほど高くないが、横幅が広く、がっしりとした体格をしている。
顎が張った顔に、刈り上げた髪。
桜井は一目見て、自衛隊のレンジャー上りではなかろうかと推測した。
しかし、一瞥をくれただけで、桜井の視線は、直ぐに高柳に向いた。
自分から呼び出しておいて、待たせた詫びもなく、高柳は桜井の前の一人掛けのソファに、ゆるりと腰を下ろした。
もう一人の男は、両手を後ろに組んで、高柳の後ろで直立する。
「一体、何事です。急に呼び出したりして」
高柳の後ろに立つ男など眼中にないように、ドスの利いたバリトンで言ってから、桜井はじっと高柳に目を据えた。
「プリティドールは、知っているな」
桜井の問いには答えず、高柳がもったいぶった口調で口を開いた。
桜井が、黙って頷く。
「ターニャと劉も、知っているな」
もったいぶった口調を崩さず、高柳が深々とソファに背中を預けた。
「この世界で、その三人を知らない奴はいないでしょう」
桜井は苛立ちを隠そうともせず、ぶっきらぼうに答えた。
癖なのか、それとも威厳を繕おうとしているのか、高柳は、重大な話をする時ほど、もったいぶった言い方をする。
そんな高柳に、桜井は日頃から反感を覚えている。
早く、要件を言いやがれ。
そう怒鳴りつけたいのを抑えて、「で、その三人がなにか」わざとゆっくりと訊いた。
これにも高柳は答えず、無言で桜井を見つめてくる。
高柳の目に、かすかに怯えに似た感情が表れているのを、桜井は見て取った。
「まさか?」
「その、まさかだ」
高柳の顔から尊大さが消え、苦渋に満ちた顔になった。
「世界の三凶が、この東京に揃っている」
桜井の目が険しくなった。
「昨夜、カレンの許に、ヒューストンが訪ねた」
桜井は、カレンとヒューストンの関係を知っている。
CIAのトップシークレットだった破壊工作員の頃、プリティドールと呼ばれて恐れられていたカレンが、ただの民間人の杉村悟という男のために組織を抜け、今は大阪で喫茶店を営んでいることも知っていた。
「ヒューストンが帰った後、カレンが東京へ向かったという知らせが、張り付いていた者から入った」
常時、カレンに目を光らせていたのは、CIAだけではなかった。
公安もまた、カレンを監視していたのだ。
公安は、カレンがCIAを抜けたことを疑っている。
世界の三凶と謳われて恐れられているほどの女が、民間人の男に惚れるなんて、どう考えてもあり得ない。
仮にそうだとしても、CIAが易々と手放すはずもない。
カレンが日本へ来たのは、特別な任務を帯びていると、公安は推測していた。
カレンがヒューストンの自宅に押し入ったことは、公安でも掴んでいたが、それも、他者の目を晦ますための作戦だとうろと判断していた。
公安と同じ考えで、他の多くの諜報機関も、カレンを見張っている。
彼らの思考は、しごく当然だ。
自分たちの基準で照らしてみれば、こんな馬鹿げた話はあり得ない。
裏があると思っても、不思議ではない。
だが、そんな物差しで測れないのが、カレンという女だった。




