第4章 孤高の女豹⑥
ニコルは、輝かしいソ連時代の代名詞ともいえるKGBで、優秀な工作員として、世界を股にかけて暗躍していた。
そんなニコルは、今の凋落したロシアを憂いていた。
ロシアを再び世界の強豪国へと押し上げるには、どんな困難なミッションでもやり遂げる、優秀な人材の必要性を強く感じていた。
優れた頭脳、冷酷さ、いかなる状況でも臨機応変に対応できる柔軟性。
それには、物事に動じない図太い神経と、常に状況を把握する細やかな神経を併せ持ち、瞬時に行動を決める判断力と決断力が必要となる。
ターニャが撃ち合いになった警官隊を全滅させ、数多の警察の包囲網をかい潜って逃亡したニュースを見たとき、彼女を鍛えればものになると、ニコルは確信した。
そして、ニコルの思惑通りになった。
ただ一点、彼女の生い立ちから、愛国心だけが危惧されていた。
だから、彼女を鍛えている最中、ほとんど洗脳に近い形で、愛国心を徹底的に植えつけた。
つもりだった。
これまで、ターニャはニコルに逆らったことがない。
多分、牙を隠していたのだろう。
その牙を、ついに剥いた。
「いったい、なにが気に入らない。あまえを警察から救ってやって、ここまでにしたのは、この俺だぞ」
ぞっとするものを感じながらも、自分がターニャの恩人であり恩師であるとの自負から、まだニコルは、ターニャを制御できると思っていた。
「べつに、救ってもらわなくても、捕まったりしないわよ」
ターニャの凍てつくような目が、痛いほどニコルを突き刺してくる。
「勘違いしているといけないから、言っておいてあげるわ」
口調も、凍てつくように冷たい。
「わたしは、あなたや組織に、恩や義理なんて微塵も感じはていない。あなたの要請に従い組織に入ったのはね、警察から逃れるためじゃない。殺人の技術を習えて、それを実行できるからよ」
聞いている、ニコルの頬がぴくぴくと引き攣る。
「その技術を教えてくれたことには感謝してるけど、その借りは、もうお釣りがくるくらい返したでしょ」
ニコルの怒りが、頂点に達した。
「それが、恩師に向かって言う言葉か」
机を叩いて立ち上がると、ターニャに指を突き付けた。
ニコルも、幾多の修羅場を踏んできた、叩き上げの工作員である。
彼が本気で怒って、恐れなかった部下はいない。
だが、ターニャは恐れるどころか、静かに冷笑を浮かべているのみだ。
「陳腐な台詞ね。はっきり言っておくわ。わたしを満足させるような仕事を与えてくれる間は、組織のために動いてあげる。だけど、わたしのやり方に文句を付けたり、くだらない任務に就けたりすれば、いつでも組織を抜けるわよ」
ニコルが何か言いかけるのを、ターニャが手で制す。
「もうひとつ、わたしを意のままに操ろうとは思わないことね。さっきも言ったように、あなたにも組織にも、何の感情も持っていないから、気に入らなければ、誰でも殺すわよ。たとえ、あなたでもね」
この女なら、平気でやる。笑みを浮かべたまま、平然と自分を殺すだろう。
ターニャがエンジェル・スマイルと呼ばれて恐れられていることは、ニコルも知っていた。
これまでは、自分の部下にそのような者がいるのが、誇らしい気持ちだった。
だが、そのスマイルが自分に向けられたとき、誇らしい気持ちは消え失せ、真の恐怖が、ニコルの心を支配した。
「おまえの言い分はわかった」
ニコルは胸の内の恐怖を悟られぬよう、努めて平静を装いながら、諦めたように首を振ってみせた。
「いいだろう。おまえに、ぴったりの任務がある。今すぐ、日本に飛んでもらいたい」
これまで、ターニャにこの任務を与えるのを、ニコルは迷っていた。
へたをすれば、国際問題になりかねないからだ。
しかし、ターニャを宥めるには今回の任務がうってつけだと、自己保身からニコルは心を決めた。
それほど、今のターニャは、ニコルにとって脅威だった。
「日本に? あんな平和ボケした国に、どんな面白いことがあるというの」
ターニャの顔から、笑みが消えた。
「慌てるな、話は最後まで聞け」
ニコルが、両手を付き出す。
「ミッションの内容はこれから話すが、この件で、劉が日本に潜入した。多分、いや、間違いなく、カレンも出てくる」
劉とカレンの名を聞いて、ターニャの目が妖しく輝いた。
「いいわ、聞きましょう」
ターニャの顔に、再び笑みが広がった。
エンジェル・スマイルではなく、喜びの笑みが。




