第三話 まるで渇きに染み入るような
ぼんやりとした視界に、はじめに飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。太く黒々とした梁には、たくさんの花や草が吊されている。
何度かまばたきを繰り返して、フランチェスカはもぞりと身動ぎした。
起き上がろうとしたのだが、身体に力が入らず、諦めて首だけ動かしてみる。洞窟の中で杉の葉に包まっていたはずが、いつのまにかベッドに寝かされていたのには驚いた。
多分、それほど大きなベッドではないだろう。すぐ右側に白壁と窓があって、カーテンの隙間から見えた外は真っ白な雪で覆われていた。カタカタと風が窓を揺らしている。まだ雪はやんでいないのだろうか。
左側に顔を向けて、もう一度驚く。黒いかたまりが椅子に埋もれていたのだ。
驚きに息を詰め、しかしすぐに、それが黒いローブを纏った少年だと気付いた。もさもさとした黒髪と、真っ黒なローブの隙間から、真っ白な肌が覗いている。前髪が邪魔をして顔立ちはよくわからないけれど、体格から、フランチェスカとそう歳も違わないだろうと思われた。
普段なら、自分の寝室に見知らぬ少年がいたとなれば、大声を上げてしまっていたかもしれない。だけれど、今のフランチェスカにはそんな体力はないし、この部屋が自室でないのは明らかだ。
(誰かしら? ここはどこ? わたくしは――……)
ずるりと額から滑り落ちた布きれが、枕の上に落ちた。
椅子の真横、ベッドの枕元に置かれたサイドチェストの上には、桶と水差し、コップが置かれている。
部屋はそれほど広くはなく、ベッドとサイドチェストが並ぶ壁沿いに本や紙の束で埋まった机があり、その対面の壁にはフランチェスカには用途の良くわからない道具が並んだ棚とワードローブ、暖炉があった。もう一面の壁にはびっしりと本の詰まった本棚と扉がある。
前世……鉄次の幼い頃はともかく、往年には気軽に入手できるものであったけれど、フランチェスカにとって書物はそこそこ高価なものだ。貸本屋で庶民でも手に取ることはできるけれど、買おうと思えばそれなりの値を出さねばならない。そういった類いのもの……なのだが。調度品を見る限りそれほど裕福なように見えないのに、高価な書籍を大量に所持しているというのは、フランチェスカの感覚では奇妙にも思えた。
けれど妙に落ち着くのは、鉄次の記憶のせいかもしれない。鉄次の部屋も、質素な古い家屋であったけれど、書庫には大量の本があった。
ここはまるで鉄次の書庫のような匂いと、様々なハーブの香りが混ざったような、不思議な匂いのする部屋だ。暖炉横の棚の道具は、理科の実験道具のようにも見える。
総じて感じた印象は、鉄次がひ孫達と一緒に観ていた子ども向けアニメに出てくる、魔女の部屋のよう、だった。
ついつい鉄次の記憶と比べてしまうのは、まだ思い出したばかりの記憶に引き摺られているせいだろうか。
そんなことを考えているうち、少年がぶるっと身震いをして、目を醒ました。
「う~……っ、さむっ……あれ」
ぱち、ぱち、と瞬きをしてから、少年は目元をごしごしとローブの袖で擦ると、フランチェスカを見た。鮮やかな赤い瞳が、長い前髪の間から垣間見えたけれど、それもほんの少しのことだ。
「う、わぁ!」
フランチェスカが起きていたことに驚いたのか、少年はびくりと肩を跳ね上げ、そのまま立ち上がろうとして――。
どたんっがたたっ
大きな音と埃をたて、椅子から滑り落ち床に尻餅をついてしまった。
「あ……、っ、」
大丈夫か、と声を出そうとして、喉が痛み咳き込んでしまう。そうして喉がからからに乾いていることに気付いた。少年はそんなフランチェスカの様子に、ますます慌てたようだ。わたわたと立ち上がり、薬湯入れに水を入れ、吸い口をフランチェスカの口元に運んでくれた。
まだ身体を起こすことのできなかったフランチェスカは、有り難く少年の手を借りて水を飲む。
――乾いた喉に、染み入るような水。
この感覚には、覚えがあった。夢うつつに聞いた、誰かの声……あれはこの少年だったのだろう。
「あ、りがとう……ございます」
「えっと、いや……うん、あの、そうだ! 薬、いや、その前にご飯、食べられそう?」
正直なところ、食欲はなかった。だけれど、鉄次の記憶が、何か食べた方がいいと訴えてくる。
食べて力をつけろ、でなければ動けるようにはならない。
その指示に、フランチェスカは従うことにして、小さく頷いた。
すると少年はほっとしたように、口元をほころばせた。
「ちょっと待ってて」
そう言うや、火の消えかけていた暖炉に薪を放り込んで、部屋を出て行った。
扉の向こうからは、がちゃごとと物音が響く。なんだか不安になる音だったが、しばらくして少年はスープを持って戻ってきた。
少年の手を借りてベッドの上に起き上がり、なんとかスプーンを握って飲んだスープは、少しばかりの根菜ときのこの質素なものだった。味付けも塩だけで、はっきり言って、美味しいと言えるものではない。
それでも、危うく凍え死ぬところだった身には、ありがたいものだった。
なんとか食事を終えると、少年は新たな薬湯を用意してくれて、フランチェスカに飲ませた。とんでもなく苦かったが、薬というのはそういうものだ。必死にのみこんだら、よほど酷い顔をしていたのだろう。少年は不思議そうな表情だ。
「そ、そんなに酷い味かな?」
「……いえ、ええ、とても」
「そ、そっか……。ごめん。でも、あの、効果は一番のやつだから、もう一眠りしたら、熱も下がると思うよ。これに着替えてから眠るといい」
「着替え……」
「ゆっ、雪で濡れてたから、魔法で乾かしたけど、そ、そんな格好じゃ眠りにくいだろ」
言われて、フランチェスカは自分が雪山をさまよっていたときの……夜会用のドレス姿のままだったことに気付いた。寝苦しかったのも当然だ。コルセットでぎちぎちにウエストを締め上げられているのだから。
少年は「これ使って」と濃い灰色の寝間着と手ぬぐいをワードローブから引っ張り出して、フランチェスカの膝の上に置いた。そうして、スープ皿と薬湯入れを持ってそそくさと部屋を出て行ってしまった。
細々と世話を焼いてくれる割に、少年はずっとそわそわとして落ち着かないようすで、最初に目があった時をのぞいて、まったく目があわなかったことに思い至る。
……人に慣れていないのか、同じ年頃の異性に慣れていないのか、どちらだろうか。名前すら、まだ教えて貰っていないし、フランチェスカも名乗ってすらいない。
恐らく、きっと、彼は命の恩人であるのだろうに。
次に少年が部屋に戻ってきたら、ちゃんと挨拶をして、助けてくれたお礼を言わなくては。
まだ熱でだるい身体で、のろのろとドレスとコルセットを脱いで、灰色の寝間着を頭から被って着ると、ハーブの匂いがした。
もしかしなくても、彼の寝間着なのだろう。
ほんの少し前まで、王太子の婚約者として、公爵家の令嬢として厳しく育てられた自分が、今は初めて会った、名前も知らない少年の寝間着やベッドを借りているだなんて。異性の服を借りるなど、はしたない。教育係が聞いたら卒倒してしまったかもしれない。
キーキーと金切り声を上げて叱責するマダム・バネッサを思い浮かべて、少し笑った後、フランチェスカは再びベッドに倒れ込み、眠気に身をゆだねた。
――部屋の外で、もう入ってもいいかどうかわからず、おろおろしている少年がいることなど、気付きもせずに。




