44 ずっと待っていた言葉
ぎぃ、と軋む音を立てて開いたドアの向こうにある粗末な木材を使った無垢材の床。そして使い込まれた歴史を感じさせるカウンターにキッチン。
ところどころ亀裂の入った階段を上がった先に、社交界で話題の主役となっている稀代の芸術家、ケント・マミヤ準男爵の自室がある。
質素なベッドに木製のガタついた机。クローゼットというにはあまりにも小さな、4段しか引き出しのない収納家具。
準男爵夫人となるシェリーの個室には実に年季の入った棚に少し汚れたガラス瓶が並び、ところどころ変色した天板をもつテーブルと雑な補修が施された木製の椅子が一組だけ置かれている。
来客用の寝室は3階にあり、セミダブルほどのサイズの簡素なベッドに、実に簡素なマットが敷かれており、シェリーが下手な裁縫で何とか補修した掛け布団がかけられている。
「まるでダメだ。話にならん」
「まったくですな。婿殿、流石にこれはいただけませんぞ」
不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、仁王立ちで腕組みをする2人の大柄なノーム族は、床板の上で正座しうなだれるケントとシェリーを見下ろしていた。
「何だこの家は。貴様これを準男爵邸だと言い張るつもりか? もしこれがジョークというなら、貴様のジョークは超一流だ」
「いえ、これはその……」
「だ、だって……ねぇケント?」
「普段暮らす分には特に問題もありませんでしたし、そもそも自分の家を持つことがあるなんて考えても居なかったので……」
「黙れ」
「はい」
ケントの言い訳を一瞬で封じ込めたユリアは、椅子をずるずると退いて腰掛けようとするが、思いとどまった。
「見ろ、この椅子など私が腰掛けたら砕けそうだ。ディエゴも私も座ることすら出来ん。貴様このままで舅を家に呼べるか? 姑のラウラならまぁ文句は言うまいが、これは流石にダメだ」
「そ、そうですか……ですがその、そもそもこの家の改築も、家具の類もどこで買えば良いのか……」
「そうですよ、だってその、私達って普段お買い物も食べに行くか感光液の材料を買いに行くか、それかガラスを買うかくらいで――」
「貴様ら、私達を何だと思っている」
ちら、と申し訳なさそうにケントとシェリーが同時に顔をあげ、眼の前で阿吽の金剛力士像のように屹立する2人のノーム族を見上げる。
「私はこの街の領主だ。どこに何の店があるかなど熟知している。それ以前にだ」
「そうですぞ婿殿、シェリー殿。このディエゴは帝国最大の商会の商会長。取り扱っていないものなどありません。おまけにお二人は我がブロニカ家の大恩人にして娘の嫁ぎ先。なぜ真っ先にこの舅、ディエゴを頼らないのです。家具も改築も、すべてこのディエゴとマリアにお任せあれ。この元宿屋を立派な準男爵、いや男爵邸としても恥ずかしくないよう改築してみせますぞ」
「……あ、あの、ただですね、その……代金はどれくらい……?」
「ふむ。まぁせいぜい大金貨15枚から20枚といったところか。貴様が持っている資産のほんの一部だ。ぜひともやれ。このツァイス伯爵領内の職人に仕事を作るんだ。これも立派な貴族の仕事だぞ」
「なるほど……これは、貴族というのは大変そうですね……」
「そうだ。だが貴様の光画なら、その程度のカネは一瞬で取り返せる。私からすれば羨ましい限りだ」
ユリア・ツァイス伯爵は、先日風景画と肖像画を買うために、資産の4分の3を払い出している。が、彼女はこの街の領主であり、また同時にいくつかの事業も手掛けている。
特に伯爵領都内のインフラ整備や邸宅建築などの建設関係については、ほぼ伯爵が一手に管理していると言える。
収賄などは厳禁、裏金などもってのほかというお国柄もあり、後ろめたい金などは一切存在しないが、それでも事業を取り仕切る上では伯爵の手元にはある程度の収入が入る。
「まぁ見ていろ。私も貴様の光画と絡めて、いくつか新規事業を考えている。貴様に払った代金ごとき、すぐに稼いでみせるさ。稼いだらまたこの国、この領地で金を使えば良いのだ」
「流石です……そしたら、すみませんディエゴさん。頼っても良いでしょうか……? 僕はその、貴族の方の建築だったり、内装であったりというものはまったくわかりませんので」
「うむっ!」
ディエゴは胸を張って、大きな拳でどむ、と胸を叩く。
「良くぞこの舅を頼ってくれましたな、婿殿! ご心配なく、万事このディエゴにお任せあれ!」
「あ、た、ただですね? 出来ればその、装飾のたぐいはできるだけ控えめで、家具もこう、なんというか……シンプルなものでいい材料を使う、といった感じでお願い出来れば助かるんですが……」
「ふむ、なるほど。確かに今のこの家の有り様からすれば、婿殿の好みも伺えますな……ふむ。では今度職人に声をかけて図面を引かせましょう。その辺りの手配もお任せあれ」
「ありがとうございます。……よかった……」
「ねぇケント、でもこの家改築するって……改築する間どこの宿にする?」
「あぁそうでした、宿を探さないと」
「…………貴様らはひょっとしてバカなのか? それとも私をからかって楽しんでいるのか? だとしたらなかなかいい度胸だ。流石は新興の準男爵だな?」
呆れ返った顔のユリアが身をかがめてケントに顔を近づける。
隣のディエゴは眉間を抑えてため息を繰り返している。
「婿殿、そういう時は我が家に来れば良いのですぞ。婿殿とシェリー殿が来るとなれば、何よりマリアもラウラも喜ぶでしょうな」
「そ、そんな、そこまでお世話になるわけには――」
「それから無論、滞在中の費用を支払いたいなどという水臭い事は言わないでしょうな? マリアの呪を解いて頂いた御恩は、この程度で返せるものではないのですからな。当然、以前肖像を作られている間、使っていた部屋はそのまま残してありますぞ。着替えと最低限の身の回りのものだけまとめて頂ければ、明日からでも大歓迎ですぞ」
元宿屋であるという、ブロニカ邸の向かいにある三階建ての木造の建物は、小さな中庭がある程度の規模で、庭園などは特に設けられないような規模である。
また、築年数もかなり経過しているため、改築をするならば一度建物をすべて取り壊して建て直すといった規模になるだろう。
「もし婿殿とシェリー殿に、今のこの家に思い入れの類がなければ、基礎から造り直してしまったほうが良さそうですな。となればまぁまあの工期になりますが、冬の間に工事をするのが良いでしょう。農閑期の農家に工事手伝いの仕事を作れますぞ」
「なるほど、流石ディエゴだな。では冬に着工するとして、図面はどうする。ケント、間取りに希望はあるか?」
「い、いえ、別にその、もう屋根と壁と床があれば……」
「ふむ、相変わらず婿殿は無欲ですな。まぁ我が家であれば職人も呼び寄せやすい。どうですかな? 明日から改築が終わるまで、また我が家で過ごされては? この様子では冬支度もまだでしょうが、我が家ならばお二人が冬の間滞在されてもまったく問題ありませんぞ」
「おぉ、それが良い。ではさっそくディエゴの家に行って、冬の間羽根を伸ばしてこい。マリアが大喜びするだろう。ではディエゴ、改築の大工の手配は任せるぞ。家具については私の息のかかった店のものを貴様の家に向かわせる。まさか『準男爵邸リニューアル事業』を貴様1人で牛耳るつもりでもあるまい? 少しは上司にうまい汁を吸わせろ」
「はっはは、もちろん。では婿殿、明日の昼前頃に我が家におこしください。今日はこれから帰って、明日の歓待の準備をしなければなりませんからな」
喜色満面のディエゴは床板を軋ませながら勢いよく1階へ降りて行き、そのまま悠然と向かいにあるブロニカ商会長邸へと戻って行った。
ユリアも『納品完了の祝いだ』と、とびきり度数の高い蒸留酒の瓶を一本置いて、悠然と徒歩で伯爵邸へ戻っていく。
嵐のような二人が去って、ケントとシェリーが我に返ったのはたっぷり10分ほど呆然としてからである。
少し隙間風が入る古い室内で、シェリーがぶる、と身体を震わせる。
「……ね、ケント。私コーヒー淹れるね」
「そ、そうですね。少し寒いですし、ちょっと暖かいものを飲みましょうか」
二人揃って1階へ降り、シェリーは『キッチンでこれだけはやっていい』と許可が出たコーヒーを淹れ始める。
香ばしい芳醇な香りがキッチンに満ち始めると、ケントは満足げな笑顔を浮かべてカウンターの向こう側に腰掛けた。
「上手になりましたね、シェリーさん」
「でしょ? うふふふ……やっぱり美味しいの飲んで欲しいし、ケントが美味しいって言ってくれたら嬉しいから」
「ありがとうございます。本当に美味しくなりましたよ」
「……相変わらず、ケントって何しても褒めてくれるよね。だからだよ? そんなんだからマリアもケントに惚れ込んだんだよ?」
「そうでしょうか」
苦笑を浮かべたケントの前に、使い慣れたマグカップが静かに置かれる。温かいコーヒーが湯気を立てて、寒い部屋の中でこの一角だけ、温もりが広がりつつあるようだった。
「ねぇケント」
「はい、何ですかシェリーさん?」
「大好き。愛してる」
カウンターの向こう側で、シェリーが少し恥ずかしそうに俯きながら、だがはっきりとそう告げる。
日頃からシェリーはケントへの愛情を隠そうとしない。だからこそだろうか、『好き』や『愛してる』というセリフは、毎日のようにシェリーが口にしている。
「僕もですよ、シェリーさん」
だが、その言葉にケントが答えるのは、あまり頻繁なことではない。
シェリーは、ケントからの反応が薄い事は『いつもの事』と割り切っていた。
ケントの心の中に前妻、沙織がいることはシェリーもマリアも十分知っている。だからこそだろう、シェリーはケントの次の言葉を予想すらしていなかった。
「僕も愛しています、シェリーさん」
「え」
ケントの言葉にシェリーは目を大きく見開いて固まった。
ぽかん、と我を失ったように立ち尽くし、呼吸すら忘れてしまったシェリーに、ケントがさらに追い打ちをかける。
「すみません。ずっと伝えるのが怖かったんですが……シェリーさん、愛しています。僕と家族になってくれて、ありがとうございます」
「え……け、ケント、あの……」
恐る恐るシェリーは手に持ったマグカップをカウンターにおいて、静かにカウンターからケントの隣へ腰掛ける。
「お願い、もう1回言って? ね? お願い、何でもする、何でも言うこと聞くから。だからお願い、もう1回聞かせて!」
シェリーの言葉を遮るように、ケントは腕を伸ばしてシェリーのやや大柄な身体をぎゅっと抱きしめる。
「愛しています、シェリーさん」
耳元で囁かれる優しい声。
自分の体を包み込むような暖かい身体。
少し痩せているが、筋肉がほどよくついた男性らしい身体つき。
気絶を必死でこらえるように、シェリーはぎゅっとケントに抱きついた。
「わ、わた、私、わたしも、私もっ」
ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。
ずっと待ち望んでいた言葉が、ようやく自分に向けられた。
今まで長い時間、男に騙され、弄ばれ、奪われ、そして捨てられて来たシェリーにとって、もう自分の人生で自分に向けられることは無いだろう、と諦めていた、ごくごく短い言葉。
その言葉が丁寧に、優しく、暖かい抱擁といっしょに自分に与えられる日がくるとは、なかなか自分でも考えられなかった。
「私も、わたしもあいしてる、あいしてる……あいしてるの、ケント、愛してるのぉ」
シェリーの口から溢れるのは、嗚咽と『あいしてる』の言葉だけ。
静かに雪が降る夜、外の通りを歩く者は誰ひとりいない。
ただ、最近になって人が住み始めた古びた宿屋。その3階の明かりは、遅くまで消えることはなかった。




