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26 砂粒ひとつまで

 ユリア・ツァイス女伯爵は、夜遅い時刻まで応接室に籠もっていた。

 もう既に、火が点くほど度数の高い酒を1瓶空にして、つい先程2瓶目の封を開けたところだ。

 からん、と軽い音を立てて、氷の魔石で作り出した大きな氷がグラスの中で転がる。

 

 もう何時間こうして黙ったまま、2脚のイーゼルに立てられた巨大な風景画に向き合っているだろうか。心配になったメイドが何度かドアをノックするが、伯爵の返答は『しばらく構うな』の一言だった。

 手に持ったグラスには半分ほど残っていた琥珀色の蒸留酒を勢いよく煽り、グラスをテーブルに静かに置くと、まるで伸びをするかのようにゆっくりと立ち上がる。

 

「ふむ」

 

 腕組みをして正面から風景画をじっと見る。

 あり得ないことだった。

 伯爵邸にある一番大きな絵画でも、眼の前の風景画の半分ほどのサイズだ。帝都に暮らす熟練の画家は、抽象的なその作品を8ヶ月かけて描き上げた。

 

『小生よりも早描きの画家など、世界中どこにもおりますまい』

 

 というのが、その画家の口癖であった。

 たしかにその画家は早描きで有名だった。だが、同時に写実画を描かないことでも有名であった。

 写実画はとにかく手間暇がかかる。早描きの写実画という言葉自体『冷たい炎』と同じような相反するものをくっつけた言葉のようなもので、どう考えても実現し得ないものだった。

 

 だが、今伯爵の眼の前にはその『実現し得ない早描きの写実画』が存在する。

 雄大なイーストマン大渓谷の風景をこの上なく緻密に描いただけではない。

 ユリアの記憶にある風景が完璧に、あるがままに眼の前に映し出されているのではないかと錯覚するほどのリアリティがある。

 大渓谷を一望出来る高台からの景色は、彼女のお気に入りの風景のひとつだ。だが、滅多なことでは赴くことが出来ない場所で、もう何十年も自らの目で見たいと切望していた景色だ。

 

 その雄大な景色が、木々の葉っぱ一枚や高台に転がる小石のひとつひとつ、果ては遠方に見える崖に見える地層の細かい縞までが恐ろしいほど緻密に描かれている。

 どれだけ写実的に描く画家であっても省略するか塗り潰してしまうであろう細かなところも、すべてを手を抜くこと無く完璧に、細密に、正確に、写実的に描いている。

 

 写実画を得意とする普通の画家ならば、これだけの超大作を描こうとすればどれだけ短くても3年はかかるはずだ。

 大きく息を吐いて数歩下がり、再び絵に目を向ける。

 雄大なるイーストマン大渓谷。インダスター帝国にあって、最初の国立公園となった母なる大地。

 陸軍と冒険者ギルド帝国支部が共同で行った調査で、古代文明の遺跡が発見されたのは十数年前。当時の調査には、まだ冒険者であったエルマーも参加していた。

 発見された文字盤は、文部省の学芸員達が解読に挑んでいるが進捗は芳しくない。最近になって第二皇女であるヴィクトリアも解読作業に加わったという噂を耳にしたが、それでも謎はすべて解けていない。

 

「さて、困った」

 

 一言呟いてから、ユリアはソファに腰掛けて蒸留酒の瓶を持ち上げる。

 小気味よい音を立ててグラスに酒を注ぎ、一息で飲み干す。

 

「まさか、これほどとは……だが」

 

 マリアが提示した金額は、白金貨350枚。

 芸術に長けたブロニカ家の娘らしいといえばらしいが、父ディエゴに比べてかなり控えめな値付けと言えるだろう。

 もしもディエゴがこの絵を売りに来たとしたら、白金貨500枚は要求してくるはずだ。

 

「随分と安い買い物になったな」

 

 この日、ユリアは肖像画の代金と出張費を含んだ白金貨50枚も含め白金貨400枚を即金で支払っている。

 コツコツと溜め込んだ私財の四分の三が吹っ飛んだことになるが、ユリアに迷いはなかった。

 勢いよく立ち上がると、ユリアはドアを開けて執務室の前を通り過ぎ、憲兵の詰め所へとまっすぐ歩いていった。

 

「エルマーはいるか」

 

 ドアをノックもなく開けると、憲兵たちは一斉に立ち上がる。

 

「どうしました、閣下」

「一杯付き合え」

「今からですか?」

「あぁ、今からだ。良いから来い」

 

 苦笑を浮かべながらエルマーはユリアについて廊下を進み、風景画が立てかけられた応接室へ入り、ドアを締める前にその場で固まった。

 そんなエルマーの様子を敢えて無視して、ユリアは3本目の瓶の封を開けた。

 

「閣下、これは……」

「コレが呑まずにいられるか」

 

 ずい、とエルマーに突き出したのは、大きめのグラスになみなみと注がれた喉が灼けるような強い酒だ。

 受け取ったエルマーも一息にグラスを煽ると、改めて風景画に視線を戻す。

 

「エルマー、貴様はあの二人に同行して、同じ風景を見たな」

「はい」

「この絵をどう思う」

「これは……」

 

 世界を股にかけ、様々な光景を目の当たりにしてきたエルマーが見ているのは、雄大なイーストマン大渓谷。つい数日前に目の当たりにした光景だ。

 だが、数日前と違うのは、彼女が今ツァイス伯爵邸の応接室にいる、という点だ。

 エルマーはよく覚えている。彼女は非常に記憶力も高く、十日ほどであれば見た光景を詳細に至るまで記憶にとどめておくことが出来る。

 眼の前の写実画は、エルマーの記憶にある風景画そのまま切り取られているようだ。写実や精密などという言葉では到底言い表すことが出来ない。

 

「これは一体……?」

「これが光画というものだそうだ。私の執務室には、私の肖像画もあるが……見てみるか?」

「是非」

 

 二人は酒の入ったグラスを持ったまま廊下を歩き、伯爵執務室のドアを開ける。

 執務デスクの後ろの壁には、伯爵がグラスを掲げている姿が映し出されていた。その姿は、エルマーの眼の前にいるユリア・ツァイスが軍の正装を身に纏って立っているようにしか見えない。

 

「近くで見てみろ。この絵の恐ろしさが分かるぞ」

 

 ユリアは腕を伸ばして壁にかけた額を取り外し、軽々とエルマーに手渡した。

 あり得ない細密画だ。

 髪の毛やまつげの一本一本はおろか、布地の繊維の織り目、さらには施された刺繍の細い糸に至るまで完璧に描き出されている。

 

「これを、ケントさんは一体どれくらいで」

「途中でイーストマン渓谷まで行ったからな。その時間を除けば3日だ」

「ありえません」

「だが、この絵は現実にここに存在する。発注したのがそもそも28日前だ。並の画家なら下書きすら終わっていない。どれだけ早描きでも下書きが出来上がる程度だろう。だが、あの男はこの絵を持ってきた」

「…………閣下、これは……もし遠くから敵軍を描かせたとしたら、敵兵の一人ひとりを書き分けられるかもしれません」

「あぁ、そのとおりだ。もしもドルマ王都を描かせたらどうなる? 城壁の上のバリスタの配置や城門の板の数、跳ね橋を上げ下げする鎖の数まで描き出してしまいそうだ」

「彼のこの能力が軍事利用されたとしたら……正直寒気がしますね」

「まったく……ディエゴのやつ、とんでもない男を抱え込んだものだ」

 

 言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうな表情だ。

 

「私はあのイーストマン大渓谷の絵に白金貨350枚を出した。クラウディア殿下には黙っておけよ? あの芸術を愛する皇室が、このとんでもない絵にいくら出すか見ものだな」

「閣下、その話……いくら出したのか、私にも教えて下さいよ?」

「あぁ、当然だ。殿下には気の毒だが、我々の酒の肴になってもらうとしよう」

 

 伯爵邸で実に不敬千万な会話が交わされている間、ケントとシェリーの新居となった元宿屋の一室では、シェリーが安物のワインに酔いしれていた。

 

「らってぇ、らってよぉ? 白金貨400枚って! よんひゃくまい! 400枚らよぉ? 分かってるぅケント?」

「わ、分かってます、わかりますからシェリーさん、ちょっと水を飲んでください。飲み過ぎですよ?」

「やらぁ、もっと飲むぅ」

 

 けらけらと上機嫌に笑って、安い陶器のゴブレットを掲げたシェリーは、胸元のボタンを次々に開けて、ぱたぱたと手で顔を仰いでいる。

 マリアはつい先程、花嫁修業を終えるまでの門限ということで、名残惜しそうに何度も振り返りながら、向かいにある商会長邸へ戻って行った。

 

「やっぱりケントって凄いんらよぉ? らってぇ、白金貨400枚らよぉ?」

「そうですね、400枚です。ほらシェリーさん? そのコップ貸してください。ね? ほら、危ないですから」

「私ねぇ、ずーっと知ってたんらよぉ、ケントは凄いってぇ。ケントはねぇ? わらしの自慢の夫なんらって、ずーっとねぇ? ねぇケント聞いてるぅ?」

「はい、聞いてますよ。だからほら、シェリーさんそのコップを――」

「えへへぇ、ケントはねぇ? すごくってぇ、優しくってぇ、凄いのぉ」

 

 へらへらと力ない笑顔でぐいっとゴブレットを煽り、ケントにもたれかかる。

 ケントの肩に頬ずりを繰り返しては、眠そうな声でむにゃむにゃと何かを呟いているが、次第にその声は小さくなる。

 だらしなくヨダレを垂らして、ケントの服の袖にシミを作りながらも、シェリーの腕はケントにしがみついたまま離れようとしない。

 

 白金貨400枚と言えば、日本円に換算すると実に4億円。インダスター帝国の兵士の年給が白金貨5枚程度と言われている。貨幣価値や物価水準が日本とさほど大差ないか、物価は安い程度だと言える今の状況では、実に80年は暮らしていける計算になる。

 長命なエルフ族のシェリーと、『頑健』『長命』なケントがどれくらいの年数を生きることになるかは未知数だが、当面の間衣食住に困ることはないだろう。

 

「これは……久しぶりに神様にお礼参りをしなければいけませんね……」

「やぁん……ケントのえっちぃ……でへへへ、もっとぉ……」

 

 艶めかしく身体をくねらせて、ケントの腕に全身で抱きつくシェリーの髪をそっと撫でて、身動きの取れないケントはひとつ深呼吸をする。

 酒を飲めないケントは、シェリーと祝杯をあげた夕食の間もぶどうジュースを飲んでいた。

 

 生前から極端なくらい酒に弱く、ビールをコップ半分も飲むと酔いつぶれてしまい、しかも酒を飲んだ翌日はひどく体調をくずすほどの有り様だ。

 亡き妻、沙織は対照的に『うわばみ』のようで、水のように日本酒を好んで飲んでいた。

 普段大人しく無口な沙織は、酒が入ると上機嫌によく笑う女だった。そして、酒で上気した姿はやたらと色っぽかった。

 シェリーは普段からケントに対しては異様に無防備で、あからさまに誘っていると思えることも度々ある。

 

 だが、今に至るまでケントは自分からシェリーの肌に手を触れることはほとんどない。触れた途端に謝って手を引っ込めることすらある。

 遠征に出かける直前、ディエゴとラウラからは、マリアとの婚約について正式な申し込みがあった。シェリーの強いすすめもあり、ケントはこの申込みを受け入れた。

 現在ケントにとって、シェリーとマリアという二人の婚約者がいる状態である。

 少しためらった後、ケントはそっとシェリーの上気した頬を撫でて、口元から垂れているヨダレを指で拭う。

 

「んっ……もっとぉ……」

 

 むにゃむにゃと寝言を繰り返すシェリーはケントよりもやや背が高く、残念なことにケントの腕力では持ち上げることが出来ない。

 結局この日、ケントはシェリーに抱きつかれたまま身動きも出来ず、夜明けまでシェリーの髪を優しく撫で続けていた。

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