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25 妻の自覚

 ケントとシェリーが無事に伯爵領都へ戻り、ベイアーは軍医が常駐する病院へ入院するために別れた後も、ケントの仕事は続いた。

 現像したガラスから、引き伸ばしプリントを作る作業だ。

 じっくりと時間をかけ数枚のプリントを仕上げて、ケント自身が納得できるものが2枚仕上がったのは、2人がブロニカ商会長邸の向かいにある我が家に戻ってから3日後のことである。

 

「お疲れ様、ケント。はい、コーヒー淹れたからちょっと休憩しない?」

「そうですね、ありがとうございます」

 

 恐る恐るケントがコーヒーを口に含む。

 今回の往復22日にも及ぶ撮影旅行の間、ケントは丁寧に根気強く、シェリーにコーヒーの淹れ方を伝授していた。

 何も教えない状態でシェリーが淹れたコーヒーは、挽いたコーヒーの豆がたっぷりと混ざった上、渋みと苦みと酸味が同居するというコーヒーへの冒涜とも言えるような代物であった。

 

 イーストマン渓谷に到着する頃には木綿の布をつかったネルドリップを覚え、帰路の途中の野営の間には『蒸らし』を覚え、そして領都まであと1日となった最後の野営のときには、ケントが『美味しいです! これです、こういうのが飲みたかったんです! さすがシェリーさん、僕は出来ると信じていました!』と感激のあまり手を握るくらいの味に仕上がっていた。

 それ以来、シェリーは事あるごとにケントにコーヒーを勧めるようになった。今のところ、シェリーがキッチンで手を出して良いのはコーヒーを淹れる作業だけ、と限定されてはいるが。

 

「はぁ……美味しい……やっぱりシェリーさんのコーヒーは本当に美味しいです。もうカフェで飲む気になれないですね」

「えへへへへ、そ、そう? ほら、私って錬金術師だし? 抽出とかそういうのって相性がいいのかもね? えへへへへぇ」

 

 と相変わらずチョロいシェリーが、マグカップをテーブルにおいて作業台のプリントに目を向けた。

 

「……ねぇケント、すごく綺麗なとこだったよね。イーストマン大渓谷」

「そうですね。あんな景色を撮れたのは、光画師冥利に尽きます。本当に絶景でした……エルマーさんから聞きましたか? あの大渓谷の奥に、古代文明の遺跡があるそうです」

「聞いた聞いた! それで謎の文字盤があって、今も解読されてないって! すごいなぁエルマーさん……なんていうかこう、経験豊富なオトナのオンナって感じで……私もあんなオトナのオンナになれるかなぁ」

「シェリーさんは今のままでも十分魅力的ですよ。それで、額の方はどうでした? 手配は出来ましたか?」

「うん、バッチリ。ディエゴさんにも大きさ伝えてあるから、持ってきてくれるって。家がお向かいだとこういうとき便利よね」

「そうですね。本当に良い家を譲って頂けました。手続き関係も全部ディエゴさんに任せっぱなしでしたから、今度ディエゴさんにはなにかお礼をしないといけませんね」

「だね。まさかねぇ……私が不動産の権利書持つなんて思ってなかったよ」

「僕もです。まぁ税金を払うことになりましたから、頑張って働かないといけませんね」

「うん。じゃあケント、途中で撮ったのはどうするの? 注文を受けたの以外にも色々撮ってたでしょ? プリントにしてほかで売る?」

「はい。途中の森とか泉とか、色々撮ったものもありますから。一通りプリントを作るつもりです。出来が良いのがあったら、ディエゴさんのお店に置いてもらおうと思ってます」

「そっかぁ。……うわぁ、なんだか今でも夢見てるみたい……だってさ? 万年安宿暮らしで、騙されてお金も盗られて捨てられて……それに錬金術師協会もクビになって途方に暮れてたのに、明日の宿の心配しなくて良いんだよ? 今日の晩御飯の心配もしなくていいし、なんならギルド銀行の口座に貯金まであるし! あぁ、私ってケントに会ってから良いことばっかり……ね、ケント? ちょっと私の頬つねってくれない?」

「え、だ、ダメですよ。女性の顔にそんな、万が一にも傷がついたらどうするんですか」

「いいの。ケントは私に何しても良いの。……ね、お願いケント、私……これが夢じゃないって証拠がほしい……」

 

 ほぼ密着するくらいに身体を寄せて、シェリーがケントに顔を近づける。

 2人の唇が触れ合おうというその直前のこと、一階のドアのノッカーが重苦しい音を立てた。

 

「いらっしゃいませんの? 旦那様? シェリーお姉様?」

 

 マリアの快活な声。

 思わず苦笑するケントと対照的に、『あぁもうっ!』と憤慨したような顔でシェリーはドアへと向かう。

 少し軋むドアを開けると、そこには両手で大きな箱を抱えたマリアが立っていた。

 

「もう! 水臭いですわお姉様! お戻りになったのなら、どうして教えてくださいませんの!?」

「え、ちょ、ちょっとマリアお嬢様?」

「お嬢様はおやめになって!? 妹のように『マリア』とお呼びあそばせ! それに旦那様!」

「え、マリアおじょ……マリアさん、どうしたんですか? それにその荷物は?」

「父から預かって参りましたの。シェリーお姉様から注文を頂いていた額ですわ。そんなことより! 旦那様の帰りを待つ妻に『ただいま』の一言もないなんて、どういうことですの! わたくし、心配で心配で毎日枕を濡らしておりましたのよ!?」

 

 顔を真っ赤にして、ついでに長い耳の先も赤くして、いかにも『私怒ってます』と言わんばかりの表情でケントとシェリーを睨みつけるマリアは、額の入った箱を丁寧にテーブルに置いて、勢いよくケントの胸に飛び込んだ。

 どす、という鈍い音の直後、ケントが『ふぐうっ!?』と悲鳴のような声を上げたのも構わず、マリアは鍛えられた怪力でケントの胸を締め上げる。

 

「ああ、寂しゅうございましたわ……わたくしの大事な旦那様、お帰りになるのを今か今かと待ちかねておりましたの。それなのに? あぁそれなのに! こんな仕打ちはあんまりですわ! 旦那様の帰りを一日千秋の思いで待ちわびる妻の心が……って、旦那様?」

 

 剣術の稽古で鍛え抜かれたマリアの膂力は、ノーム族の血もあって成人男性であるケントのそれを上回っている。

 ぱっと見には小柄で細身に見えるマリアだが、実は腕っぷしは3人の中で最も強い。

 

「ちょ、ちょっとマリアさん!? 何してるの!?」

「ごめんなさい! あああ、わたくしそんなつもりじゃありませんでしたの! 旦那様、しっかりなさって!」

 

 2人に少々乱暴に介抱されたケントは、少しふらつきながらテーブルの箱を開けて額を取り出した。

 

「マリアさん、できれば今後は、この商品のように力加減を抑え気味にして頂けると助かるんですが……」

「わ、わかりましたわ……申し訳ございません……」

 

 何度か深呼吸と伸びを繰り返し、改めてケントはテーブル上の額を見下ろした。

 かなり巨大な額だ。重量も額とキャンバスだけで数十キロはあるだろう。この重量物を抱えて持ってこれたのは、剛力で知られるノーム族の血と、剣術稽古で鍛え上げられたマリアの体幹に腕力あっての賜物だろう。

 ケントやシェリーでは、抱えて持ち運ぶことはおろか、持ち上げることすら難しい。

 おそらく、マンションなどで使われていた小さな畳1枚分ほどはあるだろうか。ケントが作ったプリントがピッタリ収まるサイズ担っている。

 

「……これは、かなりの作品になりそうですね……」

「そ、そうだよね。ねぇケント、大丈夫? これ私じゃ持ち上げたり裏返したり出来ないよ」

「そういう時のためのわたくしではありませんこと? わたくし、こう見えて腕力には自身がございますわ。夫の仕事を助けるのは妻の務め。さぁ旦那様、私にも手伝わせてくださいませ」

「そうですね。じゃあシェリーさん、マリアさん、お二人とも手伝ってもらえますか」

 

 シェリーとマリア、2人の姉妹妻が同時に頷いてから作業をすること数時間。無事に第一皇女、クラウディア陸軍元帥とユリア・ツァイス陸軍准将が注文した風景画が完成した。

 ユリアの肖像については、出発前に撮影だけは済ませてあったため、プリントと額装だけが残り作業となっていたので、ユリアへの納品は準備が完了したことになる。

 

「では、わたくしお父様に連絡をしてまいります。ツァイス伯爵閣下への納品の予定について、調整をお願いしてまいりますわ」

「はい、よろしくお願いします。今回はマリアさんにも本当に助けられました。ありがとうございます」

 

 ケントの言葉に、マリアは満面の笑みを浮かべ満足そうに頷いた。

 

「もちろん! 旦那様は普段シェリーお姉様ばかり手伝わせておられますけれど、わたくしも妻ですのよ? わたくしにももっと手伝わせてくださいませ。旦那様はもっと妻を、家族を頼るべきですわ」

 

 マリアの言葉に返す言葉もなく、ケントは申し訳なさそうな笑みを浮かべ頷いた。

 ユリア・ツァイス伯爵要塞、もとい伯爵邸に納品のための馬車が到着したのは翌日の午後のこと。

 

『予定など構わん、すべてキャンセルする。最優先で持ってこい』

 

 という無茶苦茶な言い分で急遽納品となった。

 ブロニカ商会の馬車に載せられた重厚な額は2つ。大きなものはノーム族の男2人で慎重に持ち運び、小さなものは令嬢マリアが運んで伯爵邸の応接室へと運び込まれた。

 

「お久しぶりでございます閣下。マリア・ブロニカ、ケント・マミヤ様の未来の第二夫人として、夫とともに納品に参りました」

「久しいな、マリア・ブロニカ。すっかり元気そうではないか、呪が解けて何よりだった。今日はディエゴは来ていないのだな? ということは、商談はマリアが担当する、ということで良いか?」

「はい。お値段とお支払いに関するお話は、わたくしが承りますわ。夫に加え姉妻となりますシェリーお姉様からも委任をうけております」

「うむ。ではケント、絵を見せてもらおうか。まずは私の肖像からだ」

「はい閣下」

 

 ケントが縦に置いた小さな額、といっても日本で使ってたサイズで言えばA1判になるだろうか。かなりのサイズにプリントした女伯爵の肖像の覆いを取り外す。

 軍服を身に着け、お行儀悪く執務机に腰掛けてウィスキーのグラスを持ち上げて不敵な笑みをうかべた、いかにも剛毅そうな美しき女伯爵、ユリア・ツァイスの姿が、今にも動き出しそうなほど精密に映しとられている。

 ほぅ、と感嘆の声をあげたユリアは、1枚目の風景画のときと同じく近寄ったり離れたりしながら肖像画に見入っていた。

 

「うむうむ、気に入った。素晴らしい出来だ。まさか瞳の中までしっかり描き込むとは、超絶技巧としか言えんな。では次だ。イーストマン大渓谷の風景画を見せてもらおうか」

「はい閣下。ではマリアさん、布のそちら側をお願いします」

「かしこまりましたわ、旦那様」

 

 マリアとケントが二人がかりで覆い布を翻す。

 今度は女伯爵から感嘆のため息は漏れなかった。その代わりとばかりに、猫のようにツリ目気味の大きな目が見開かれ四白眼となったまま、巨躯のモンク、ユリアは金縛りに遭ったように硬直してしまった。

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