天麗-12
〈夏楠! お前は真っ昼間から何をしているっ‼〉
予想通りの黒影の小言に、夏楠は盛大に顔を顰めた。
近くで酌をしていた女が、何か粗相をしただろうかと不安げな様子で見上げてくる。「なんでもない」と声をかけると、女は安心したように紅を引いた唇を釣り上げた。
当時の状況を見れば──それが雲翔のようにまともな官吏であれば──黒影と同様、夏楠を怒鳴りつけていたに違いない。当時、玄州はそれだけ腐敗が酷かったとも言える。
それは周囲に大勢の美女を侍らせ、夏楠が真っ昼間から後宮で酒を煽っていた最中の出来事だった。
堯国では後宮と言えば、主上のほか四嶽にも与えられる、男子禁制の私的な生活区域だ。まあ、平たく俗な言い方をするなら、子作りの場所である。
龍は基本的に、子ができにくい体質だ。龍女が生涯で産む子の数はせいぜいが一名で、良くて二名。三名なら快挙となる。一人で平均五人以上産む人間とは雲泥の差があった。
そのため龍は、制度の上では一夫多妻制となっている。その気になれば幾らでも妻を迎えられるのだが、意外にもこれを利用する龍は、貴賤を問わず少ない。大抵の後宮が、西嶽のように妻独りとその子の生活場所となるらしい。
例外は夏楠のように未婚の場合だが、それでも四嶽が婚姻前に、集められた花嫁候補に手を出すことはほぼ、ないそうだ。さらに言えば、婚姻後も新たに妾を取るような龍は滅多にいない。
ただでさえ数が少ない癖に、このような事態に陥るのは、ひとえに龍という種の気質によるところが大きいだろう。なべて龍は、情が異常に強い。妻を愛しながら妾も同様に想う、などということがまずないのだ。
愛情が一点集中し、その他大勢には眼もくれない。それが龍の特徴なのである。だから生涯独身なんて龍もけっこう多い。人のように家庭を作らねば生活が立ち行かない事情もないので、余計にだ。
駄目押しでもう少し付け加えると、龍は心変わりを良しとしない風潮も併せ持つ。本質的に、変化を嫌う種族なのである。よって、夏楠のように女を取っ替え引っ替え渡り歩くなど言語道断、恥知らずもいいところ、となるらしい。
らしい、と切り口が推定になってしまうのは、夏楠にはそのあたりの感覚がいまいち理解できないからだった。
合法ならば、思う存分使い倒せばいい。無理強いするならともかく、互いに同意の上であるなら、何に遠慮するのかさっぱり理解できない。女との相性など、上っ面だけの判断は危険だ。とりあえず片っ端から試して、比較検討をした上で選ぶ方がよほど合理的である。妓楼上がりの経験上、これは間違いない。特に女は、嘘が達者な者が多いから要注意だ。
(ま、おれは子作りする気なんて、さらさらねぇけどな)
酔いが回り始めた頭で、ぼんやりとそんなことを思った。
こども、なんて。
冗談じゃない。怖気が走る。
誰かとの間に家庭を持つ、などという状況が想像できなかったし、したいとも思わなかった。
何より自分が、絶望的なまでに親に向いていないという自覚がある。そもそも餓鬼は大嫌いだ。煩いし理解不能だし面倒くさい。こんな男が親になったら、子どもの方が可哀想である。こちらも実の父親による実体験によるものだから、精度は高い。ろくでもない父親を持つと、子は苦労するのだ。だったら最初から作るべきではない。
そう思ったからこそ、夏楠は関係を持つ女には、神経質なまでに避妊を徹底した。事前の避妊薬はもちろんのこと、行為のあとは必ず堕胎薬を一定期間飲ませ続け、確実に妊娠していないと判断できるまでは監視役もつけた。そのかいもあって夏楠は今、とても快適な北嶽生活を謳歌している。
継嗣なんぞ、糞食らえだ。
自分が死んだあとは、李あたりが北嶽になれば全部丸く収まる。夏楠はそれまでの繋ぎとして、せいぜい暗君に勤しめば良いのだ。そのぶん、のちの北嶽が評価されること請け合いである。
〈おい! 聞いているのか、夏楠っ!〉
だが無論、黒影はそんな夏楠の考えを知る由もない。こちらも話す気はなかった。
自分にしか聞こえず、耳を塞ぐこともできない怒号にうんざりする。だから後宮へ行くときは必ず、黒影を置いて出かけていたのだ。
今日だって最初はそのつもりだった。
それなのに、
お願いします、北嶽様。どうか──。
つい宝貝を手にしてしまったのは、昨夜の一件が脳裏をよぎったからだった。
夏楠は無言で床に転がした黒影を蹴り上げ、無視を決め込む。となりで酌をしていた女の頸筋に唇を寄せると、黄色い喚声が沸き起こった。
「ねぇ北嶽様、あれをお見せくださいまし!」
「私も見たい! お願いします、北嶽様!」
「わたくしも!」
龍女に囃し立てられ、気を良くした夏楠は差し出された飾剣を手にした。すると心得たように美女たちは後ろに下がり、広間には舞のための空間が設けられた。
酒で、興が乗っていた。
静まり返った室で、久方ぶりに剣舞を披露する。本来は伴奏を伴って舞う宮廷舞踊で、昔は宴の余興としてたびたび所望された舞だった。
剣に関してはついぞ、努力らしい努力をしたことはない夏楠だが、舞踏はそれこそ死ぬ気で修練に励んだ過去がある。正直、芸事で最も見込みがあったと言うだけで好きでもなんでもなかったのだが、今になって無性に舞ってみたくなるときがあるから不思議だ。
指先のほんの僅かな角度、足の踏み出し方。
絶え間ない重心移動、旋律に乗せた呼気に、目線の向き──。
少しばかり動きは鈍ってしまったが、昔よりも圧倒的に舞う楽しさを実感できた。
夏楠が剣舞を終えると、途端に盛大な歓声が広間に響いた。
さて、もう一献傾けるかと酒盃に手を伸ばしたとき、不意に取り巻きの一角が騒がしくなった。
「ちょっと、何よアンタ!」
「なんなの、この猿っ? 汚らわしい!」
「なんで薄汚い猿がここにいるのよ! 門番は何してたのっ⁉」
何事かと頸を巡らすと、視線の先からひょっこり現れたのは、まだ名前も知らない──元討師の彼女だった。
「北嶽様! ご歓談中、恐れ入ります!」
「なんだよ。なんでてめえがここにいる、阿呆女」
「急の要件があり、はせ参じました。あの、こちらの書状を」
そう言って書状を捧げ持ち、彼女は夏楠の前で跪く。
その様子を、夏楠は渋面でもって睥睨した。
昨夜の一件で悪意がないことはわかったが、つくづく間の悪い女である。
何故なら夏楠は、字が読めない。そうと知らずの行動なのだろうが、衆目のある中で夏楠が文盲だと知れれば、赤っ恥もいいところだった。
「北嶽様?」
怪訝な顔で見上げる彼女に、夏楠は短く言い捨てた。
「いい、捨て置け」
「し、しかし北嶽様。西嶽公もいらっしゃるそうですし」
「構うもんか。おれがいなくたって、周りがなんとかするだろ。玄州にゃ『優秀な』官吏が揃ってるからな」
「ですが、此度は内容が内容ですし──」
「くどいぞ!」
存外、喰い下がる彼女に一喝する。
普通の女はこれで引き下がるものだが、何事においても規格外である彼女は、この状況下でも強情だった。
「お断りになるにしても、せめてご一読を! 書状のお目通しもなくお断りになったと知れれば、白州との交易にも影響が出かねません!」
外交を引き合いに出されれば、夏楠としてもそれなりの理由を出さねば示しがつかない。龍が学のない奴婢に書状の内容を語らせるのも不自然だし、そもそもこの女に詳細など知らされていないだろう。
こうなれば、丞相には止められているが読んだふりをしてしまうか……しかし眼を通したという事実が残れば、後々何かが起こったときに問題になる。そこに白州が絡むならなおさらだ。軽はずみな発言はできない。
押し黙るしかない夏楠に、まわりの龍女たちが訝りの眼を向け始めたとき──唐突に語調を明るくして、彼女が声を上げた。
「ああ、これはとんだ失礼を。北嶽様に、わざわざ拝読いただくほどのものではございませんでした。お差し支えなければ、わたしが口頭でお伝えしてもよろしゅうございますか?」
笑いながら言う彼女の瞳に真剣な色を見て、夏楠は悟った。
気づいたのだ、この女は。
たったこれだけのやり取りで、夏楠が文盲であることを。
「許す」
夏楠が頷いてみせると、彼女はほっとした表情を浮かべ、要件を述べた。
「恐れ入ります。本日午後、白州の方々とのお茶会が開かれるそうです。とても大事な催しとのことですので、北嶽様に置かれましては是非、ご出席いただきたく」
「西嶽は出るんだな? それ」
「はい」
「わかった。ま、そういう話なら出た方がいいだろ。面倒臭ぇけど」
絡められた龍女の腕を払い、夏楠は長椅子から身を起こした。ついでに転がっていた黒影も拾い上げる。
要件は理解した。何かにつけて白州を見下す丞相なら欠席を勧めるだろうが、西嶽が出るなら夏楠も出るべきだろう。
玄州の莫迦どもはどいつもこいつも、絶望的に己の身の程がわかっていない。いくら位が高かろうが玄州は乞食で、金を出すのは白州だ。何故それを認めることができないのか、必ず白州が金を出すと信じ切っているのか、夏楠には不思議でならない。
縋る龍女の手を払って回廊に出ると、書状を手にしたまま、彼女はぺこりと頭を下げた。
「ご出席いただき、ありがとうございます。北嶽様」
「感謝しろよ。おれが直々に顔出すことなんて、滅多にねぇんだからな」
「はい。それはもう」
小走りで夏楠のあとを置いながら、彼女は頷いた。
何が嬉しいのか、にこにこと笑っている。化粧っ気のない素朴な顔で、彼女は夏楠を見上げて言った。
「北嶽様、先ほどの剣舞、わたしも拝見しました。その、良い言葉が見当たらないのですが……北嶽様、きらきら輝いておりました!」
「相変わらず頭悪そうな感想だな、お前」
夏楠の辛辣な物言いにも、彼女が表情を翳らせることはなかった。
あくまで明るく、ほんの少しだけ申し訳なさそうに苦笑する。
「語彙が貧弱で申し訳ありません。けれど、本当に素敵でした。北嶽様の舞には、人龍を感動させる力があると思います」
〈……心根の優しい娘だ。お前の体裁を守るだけでなく、酔っ払いの見苦しい舞まで褒めてくれたぞ?〉
「煩い、黙れ。おだてても何も出ねぇぞ」
前半は黒影に言った台詞だが、宝貝の声が聞こえない彼女は自分に対しての言葉だと思っただろう。
それでも嫌な顔をするどころか、さらに笑みを深めてついてくる彼女のことを、少し──本当に少しだけ、好ましく感じている自分がいる。
今日のおれはどうかしてるな、と。
このときはまだ、夏楠はそう心で思っていた。




