天麗-11
その夜は、やけに静かだなと最初から思ってはいた。
だが、それ以上は特に訝しむこともなく、夏楠は早々に床に潜り込んだ。二日酔いからくる頭痛は完全に収まっていたが、この日は後宮へ行く気にはならなかった。
倒れ込むように身を投げ、寝台で大の字になる。
さっさと寝てしまいたいと思うものの、睡魔が訪れる気配はいっこうになかった。
不眠の原因はわかっている。
眼を閉じても、脳裏からあの討師の少女の顔がちらついて離れない。
(糞が!)
悪態をつき、四、五回不毛な寝返りを打ったところで、夏楠はむくりと上体を起こした。いったん水で咽喉を潤そうと思ったのだ。
今夜は月が出ていないのか、室内は深い闇に包まれている。手探りで燭台に手を伸ばしかけたところで、夏楠はぴたりとその動きを止めた。
ぴりりと頚がひりつくような、この感覚。
夏楠にとっては馴染み深いものだ。
(殺気──あの討師か?)
振り返り、寝間を一望する。
暗闇に沈んだ室内は、眼を凝らしても家具の輪郭がうっすら視える程度で、殺意の主は見当たらない。
だが、室内に、誰かがいる。
夏楠に殺意を抱く者が。
改めて注意深く見渡すと、窓際にぼんやりと何者かの影が視えた。
敵の正体も得物も不明だが、その影の大きさから、相手が小柄だということだけがわかる。
やはり、あの討師か。
あれなら大した脅威ではないが、身体が軽いぶん速さだけはある。しかも向こうは夜目が効くのか、随分と落ち着いた様子だ。となれば、こちらは後手になるだろう。少々苦戦するかもしれない。
(ま、なんとかなるだろ。こうなる事態は予想してたしな)
諦観とともに苦く笑い、寝台に忍ばせた護身用の剣を取る。
西嶽からは、何かあれば斬って良いと言われている。いい加減目障りになっていたところだ、丁度いい。
敵の殺意だけが頼りの出たとこ勝負、上等である。
応戦の構えを感じ取ったのか、直後、敵は何かをこちらに投擲してきた。
一つではない、複数だ。
恐らくは刃物。
恐らく、あの討師が遣っていた飛刀だろう。
すかさず、夏楠は寝台に垂れ下がっていた布を引き千切った。
狙い通り、敵の攻撃は布によって絡め取られる。
しかし安心はできない。
前回の戦闘で、討師は何本も飛刀を隠し持っていた。
まだ、追撃があるはずだ。
考えたそばから、立て続けに幾つもの小さな刃物が飛来した。
手近な家具を引き倒し、盾にしながら盛大に音を立てる。これで外の兵が気づけば儲けものだが、日頃の行いを鑑みるに、しばらく応援は望めないだろう。
孤軍奮闘を覚悟していたからこそ、不意に耳を打ったその声に、夏楠は眼を見開いた。
「北嶽様ッ!」
蹴破るように扉を開き、強引に寝間へ押し入ってきたのは、敵だと思っていた討師その人だった。
「その声は莫迦女か!?」
声をかけると、存外しっかりとした足取りで討師の女が近寄ってくる。
夏楠と視線が合うと、討師はほっとしたような笑みを浮かべて頷いた。
「はい、北嶽様! 危急の事態ゆえ、ご無礼をお許しください」
敵だとばかり思っていた女が、真っ先に自分のもとへ駆けつけた。昼に、夏楠があれだけの仕打ちをした女がだ。
なんとも言えない気持ちで、夏楠は討師の笑顔から眼を逸らした。
「お前がここにいるってことは、敵は別口か」
「北嶽様、あの者に見憶えは?」
暗闇を凝視して討師が訊ねる。
どうやら、夏楠よりも敵がよく視えているようだ。
「お前、あいつが視えるのか? この暗さで」
「はい。討師は夜眼が利くのです。北嶽様はいかがですか?」
「影くらいは視える。あの小っせぇ武器はなんだ?」
「『鏢』です。木の葉型の小さな刃物で、敵に投擲します。毒を仕込むことが多いので、ご注意を」
そう告げて、討師はわずかに眼を眇めた。
「あの体格、女性ですね。歳も若そうです。この気配は──」
言い終える前に、敵がこちらへ鏢を放つ。
夏楠が剣で弾こうとすると、唐突に討師が横から腕を出した。華奢な見かけのわりに強い力で突き飛ばされる。
たまらず夏楠は体勢を崩し、盛大に床に尻餅をついた。
鏢から夏楠を守ろうとしたのは、わかる。わかるが、問答無用で突き飛ばすあたり、やはり頭が足りない。しかも、突き飛ばした拍子に持ってきた黒影を落としている。間抜けめ。
大体この程度の攻撃、龍の血を引く夏楠なら、当たったところでかすり傷だ。そんなこともわからないのか。
「北嶽様、ご無事ですか?」
「この莫迦がッ! いきなり何す──」
言いかけた文句は、討師の負った傷を見て尻すぼみになった。
二の腕の辺りが、布ごとぱっくりと割れている。
だらだらと流血した腕にまるで頓着せず、討師は夏楠の無事を確認すると、柔らかに微笑んだ。
「北嶽様はご無事ですね。良うございました」
……これだ。
こいつの、こういうところが嫌なのだ。
視線を逸らして立ち上がると、夏楠は声を低めて宣言した。
「賊を始末する」
夏楠は前に踏み出そうとしたが、その進路を討師自身に阻まれた。
「北嶽様、この場はわたしに任せを。どうぞお逃げください」
「ぬかせ、莫迦女。手負いは引っ込んでろ。このおれが直々にブッ殺してやる」
〈たわけ、莫迦者が! あれは龍討師だ!〉
突如響いた黒影の叱責に、耳を疑う。
問いただそうと黒影に口を開きかけたところで、敵ではない方の討師──『彼女』は夏楠を押し留め、重ねてこう告げた。
「なりません、北嶽様! あの者、恐らく龍討師です!」
「──ちッ」
言い争う間にも、鏢の雨が降る。
夏楠は手近にあった敷布を掴むと、自分たちの身を覆い隠すように広げた。
円舞のような回転に合わせてふわりと膨れる布に、すべての鏢が絡め取られる。
その隙に、彼女は床に置き去りとなった黒影を手元に引き寄せた。
〈お前は夜目が利かんだろう、夏楠。私を遣え。助けてやる〉
「北嶽様、黒影殿を!」
「やなこった!」
条件反射でつい断る。
が、彼女は引かなかった。
緋色の瞳の意志を強め、さらに夏楠に言い連ねた。
「北嶽様、お怒りはごもっともですが、どうか黒影殿をお赦しください。黒影殿も、お願いします。北嶽様をお護りください。わたしの顔に免じて、どうかこの場は」
かたかたと、かすかな音が聞こえる。
見れば、差し出した黒影を持つ手が震えていた。
右腕の負傷で力が入らないのだろう。
それでも黒影を取り落とすことなく平伏し、彼女は夏楠に嘆願した。
「お願いします、北嶽様。どうか、どうか!」
〈彼女に、宝貝は扱えん。……頼む、夏楠〉
「糞ッ! わぁったよ! 持ってりゃいいんだろ!? 持ってりゃ!」
先に根負けした夏楠が、黎珠から奪うように黒影を取り上げる。
すると、やり取りを見ていた敵の討師が初めて口を開いた。
「……なぜ、庇うの? おなじ討師なのに」
若い、少女の声。
敵の発した問いはまさに、夏楠が彼女に抱いていた疑念だった。
そう、この女は、何故そうまでして自分に尽くすのか──。
敵である討師は、さらに続けて彼女に問うた。
「これは悪しき龍。だから討伐する。これは良い行い。……ちがう?」
「違います」
寸暇の迷いもなく、彼女は否定する。
清々しいほど、それは決然とした口調だった。
「龍討師は、ただのちっぽけな人間です。神ではありません。……龍討師に、他者の命を奪う権利はない」
「悪いのに、許すの? 遊びほうけて、民のことも考えない、北嶽を?」
長らく夏楠が眼を背け続けたことを、敵は指摘する。
それは、事実だ。
本当に夏楠は何もしなかった。
そしてそれは、これからもきっと変わらない。
……これでも最初は、自分なりにどうにかしようと、努力はしたつもりだった。この酷い有様の玄州を、どうにかしたいと。
しかし当然のことながら、字もろくに読めない自分に、玄州官と対等に渡り合うだけの技量はなかった。何を口にしても反論され、丸め込まれて否定される。終わりのないその繰り返しに消耗し、諦め、すぐに匙を投げてしまったのは自分だ。反論の余地もない。
敵の問いに対し、彼女は夏楠を肯定はしなかった。
「罪を赦せとは言いません。けれど、そこから生まれる可能性を摘んではいけないと、わたしは思うのです」
肯定はしなかったが──彼女は夏楠を、否定しなかった。
このとき自分は、本当の意味でようやく彼女を『見た』のだと思う。驚きとともに瞳を向けた先にいた彼女は、どこまでも優しいまなざしをしていた。
ゆるりと唇に弧を描き、彼女は言う。
「北嶽様は苗です。まだお若い。今、見限るのは早計に過ぎます。北嶽様には無限の可能性と、未来がある。手をかけ慈しみ、根気強く水をやるのが、我らの務めではないでしょうか?」
「…………」
その問いに、敵の討師が応じることはなかった。
無言のまま身を翻し、窓を割って外に飛び出す。
一拍遅れて、逃げだのだと気づいた。
「北嶽様ッ! ご無事ですか!?」
間を置かず、衛兵がぞろぞろと寝間に到着する。
あれだけ騒いだのだから当然だろう。むしろ遅いくらいだ。
「遅えんだよ、この鈍間! 賊が逃げた、すぐに追え!」
指示を飛ばす夏楠の横で、彼女は服の裾を破り、みずから止血を済ませていた。
大丈夫か、という月並みな文句が、どうしても咽喉を通らない。
無為に空気を噛んでいるうちに、彼女が先に口を開いた。
「北嶽様、お怪我はございませんでしたか?」
「ねぇよ! 見りゃわかるだろ! おれがあんな女に遅れを取ってたまるか!」
「左様でございますか。安堵いたしました」
「お、お前……」
「はい?」
きょとんとした顔で彼女は見上げる。
こうして見下ろすと本当に小柄で、華奢な少女だった。それだけに、腕に巻かれた血の滲む布が痛々しい。
夏楠が言い淀んでいると、察した彼女がにこりと笑った。
「ご心配には及びません。ただのかすり傷です」
「だ、誰がお前みたいな短躯の心配なんかすっか! 莫迦じゃねーの、お前!」
思いとは見事に真逆の言葉が口をつく。
どうしても素直になれない。機転が利かない。浅はかで天の邪鬼で、感謝の一つも伝えられない。……我ながら厄介な性格だ。
それでも彼女は嫌な顔一つせず、すぐさま頭を下げて言った。
「まあ、これはとんだ早とちりを。お赦しくださいませ、北嶽様」
「仕方のねぇ奴だな。まあ、今回は赦してやるよ」
「はい。ありがとうございます、北嶽様」
いたたまれず、礼を述べる彼女から視線を逸していると、
〈……お前、先ほどこの娘に見惚れていただろう?〉
手にした黒影が、最高に気に食わない台詞を吐いた。
「今日はもう寝る!」
夏楠は唐突に宣言すると、足早に扉へ向けて歩き出した。途中、がんっと倒れた長椅子の角に思い切り足の指をぶつける。寝ていたので、もちろん裸足だ。
「~~~~~~ッ!」
「北嶽様、大丈夫ですか?」
〈日頃の行いの罰が当たったな〉
悶絶していると、また黒影が余計なことを喋る。
「煩いなんともない! お前も早く寝ろ! 明日遅れたら承知しねぇからな!」
一方的に言い放ち、今度こそ寝間から外へ出る。
明かりが灯り始めた回廊をずかずか歩きながら、夏楠は手の中の黒影に眼を落とした。
「今日はやけに殊勝じゃねぇか。お前がおれに『頼む』だなんて、初めてだろ」
〈ふん。貴様のためではないわ〉
ぶっきらぼうに言ってから、黒影は一転して真剣味を帯びた声音で夏楠に語りかけた。
〈……あの娘は、心からお前の身を案じていたぞ。恨み言の一つも口にせずな〉
「あいつはお前が喋ることを知ってる。あとで告げ口されんなら、そりゃ黙るだろ」
〈お前は本当にそう思うのか? 彼女の、あの態度を見て〉
黒影の問いに答えず、夏楠は歩を進める。その足元は夜中であるにも関わらず、やけに明るい。
ふと、夜空を仰いだ。
いつの間にか現れた月が、雲間から地上を照らしていた。




