天麗-10
そんな彼女に、自分は、なんと言ったのか。
「誰に? 偽者にか? 頭の悪い女だな。お前はそいつに騙されたんだぞ?」
その愚かさを嗤い、逢いたいと言った男がいかに無価値であるかを指摘する。
だが、それでもなお、彼女は揺るがなかった。
「それでもです」
即答した彼女は、愚直なまでに真っ直ぐで綺麗な、紅い瞳をしていた。曇りのない澄んだ双眸にいっとき、眼を奪われる。
しかしだからこそ、それは酷く夏楠の癇に障った。
もしかすると、これほどまでに信頼を寄せられた顔も知らないその男に、嫉妬したのかもしれない。
夏楠には、命をかけてでも逢いたいと言ってくれるような存在はいない。いたとしても、それはあくまで夏楠の容貌ありきの話だ。唯一の例外だった母は、とうに死んでいる。
──もしも、自分が十人並みの顔で。このどうしようもなく捻くれた性格と、妓楼で身体を売っていた過去が知れ渡れば、誰も見向きもしなくなる。蔑みの眼が向けられることだろう。
わかっているのだ。
自分が、呆れるほど穢いということは。
誰からも本当の意味で、愛されはしないということも。
自分が一番、よくわかっている。
だって、ほら。
「なら勝手に信じて、勝手に死ね。偽者がもとでお前が死にかけたのは事実だ。だいたい、龍の呼び方なんて、小童に真っ先に教え込むことだぞ? なんせ命にかかわるからな。そいつはよっぽど、お前のことがどうでも良かったんだろうよ」
ほら。こんな言葉が、するすると口から流れてくる。
押し黙った討師の瞳が、見る間に潤んでいくのがわかった。
それを見た夏楠が感じたのは憐憫でも労りでもなく、ただ「勝った」という昏い陶酔のみだった。
「あーいや。むしろ、わざと呼ばせたかったのかもな? 名呼びの処罰は臏刑だったか? 結局その程度の存在なんだよ、お前は」
気を良くして、さらに言い募る。
するととうとう、討師の眼から大粒の涙が伝い落ちた。ぱたぱたと落ちる水滴を無感動に見つめ、夏楠は冷ややかに命じた。
「泣くな、見苦しい。泣いてる女ほど、うぜぇもんねぇってのに」
「も、申し訳ございません」
「謝るくらいなら最初からすんな、莫迦女が」
討師を下したことで、急速に興味が失せる。
夏楠は長椅子から腰を上げると、討師の処遇を李に丸投げし、その足で後宮へ向かった。
誰か、適当に女を見繕って。
それで、今夜はこの鬱憤を晴らしたい。
先ほどまでの勝利の余韻は綺麗に霧散して、残っていたのは、ただの惨めな苛立ちのみだった。
*
翌日、夏楠は頭痛に顔を顰めて朝餉の席に着いた。
だが朝餉と言っても、刻限は昼である。むしゃくしゃしていたことも手伝って、昨夜はしたたか飲み過ぎた。酒はかなり強い方だと自負しているが、強い酒を何本もちゃんぽんにしたのがまずかったようだ。
室に入るなり長椅子に身を投げ出し、靴を脱ぎ捨てる。すると控えていた討師が長靴を拾い、椅子の横に揃えて置いた。しかしその後は何をするでもなく、室の隅でぼけっと座っているだけだ。
主の不調に対し、動く気配もない。
気が利かない女だ、と夏楠は討師を睨めつけた。
「なにぼっと突っ立ってる」
「はい?」
何か考え事をしていたのか、肩をわずかに震わせて討師が訊き返した。
──ああ、苛々《いらいら》する。
存在が業腹なだけでなく、このとろくさい態度も気に食わない。
夏楠は不機嫌を隠しもせず、声を張り上げた。
「茶の一つも出せねぇのかよ、お前は! ッ、てぇー……このおれが二日酔いなんて……」
「は、はい! 申し訳ございません、すぐにお持ちします!」
「大声で喚くな、頭に響く。っとに使えねぇな、お前は」
「面目ございません。しばし、お待ちくださいませ」
討師は慌てて立ち上がると、室の片隅で茶の準備を始めた。
こんな奴にまともな茶が淹れられるのか、と疑いながら観察するが、意外にも手際は良い。李と比べても、あまり遜色のない手際だ。
危うげなく円卓に茶器を揃えると、討師は夏楠に声をかけた。
「お持ちいたしました」
「遅い。身体起こすのも面倒だ。早く茶ぁこっちに寄越せ、莫迦女」
「はい。どうぞ」
差し出された茶杯を奪うように受け取る。
そうして茶を啜る寸前で、夏楠はふと動きを止めた。
──この茶、まさか毒など入ってはいまいか。
給仕は普段、李にさせている。西嶽はこの女に敵意はないと言っていたが、それは昨日の話だ。一日経過して、気が変わっている可能性もある。少なくとも、自分が討師に好かれていないだろうという自覚は多分にあった。
とん、と音を立てて茶杯を円卓の上に戻す。
それを見た討師が、おや、と不思議そうに頸を傾げた。
「あの、北嶽様?」
その、純朴そうな顔。
人好きのする、柔らかで愛らしい顔立ち。
昨日のことなどまるでなかったような、「わたしは気にしてませんよ」と言わんばかりの余裕ぶった態度も──何もかもが鼻につく。胸糞悪い。
握った茶杯を、無造作に床へ叩きつける。
すると、思ったよりも軽い破砕音が室内に響いた。
「こんな不味そうな茶が飲めるか」
「は、はい。申し訳ありません」
「朝餉はどうした?」
「そろそろ李君が運んでくださるかと」
一転して表情を翳らせ、討師はおどおどと答えた。
両者の間に横たわる、圧倒的な力関係。それを目の当たりにし、夏楠は少しだけ気分が晴れるのを実感した。
「ふうん。で、お前は何もしないのかよ?」
「そのつもりだったのですが、お出しする料理の順などが複雑なので、また日を改めてと……」
「役立たずここに極まれりだな」
そう言うと、討師は反論もできずに緋色の瞳を伏せた。
また泣くか、と思ったが、今日は泣かない。泣かれると鬱陶しいが、かと言ってへらへらと笑う姿も、それはそれで苛つく。
思い返せば、側仕えの女を入れるといつもこうだ。つい、日々の憂さ晴らしの道具にしてしまう。そうして気が向いたら手酷く抱き、すぐに飽きて別の女と入れ替える。その繰り返しだ。今回は、次の側仕えを手配しようとした矢先の出来事だった。
……まあ、この胸なし女に手を出すようなことは、天地がひっくり返ってもないだろうが。
「おい、何をしてる」
「え?」
突っ立ったままの討師に呼びかけ、夏楠は床に散った残骸を顎でしゃくった。
「割れた湯飲みも片せねぇのか? お前は?」
「も、申し訳ありません! 今すぐに」
急いで破片を拾う小さな背中に、夏楠は聞こえよがしの溜息をついた。
「ったく。詫びる以外なんもできねぇな、お前。存在価値なさ過ぎて、使い道に困る」
「……精進、いたします」
「掃除が終わったらおれの視界から消えろ。お前見てると、苛つくんだよ」
「はい。申し訳ございません」
討師は消え入りそうな声で平伏する。
猫が鼠をなぶるような嗜虐に夏楠が浸っていると、不意に黒影が口を挟んだ。
〈──すまない、人の娘よ。すべては私の責任だ〉
その声は、討師の耳には届いていない。当の本人がなんの反応も見せず、茶杯の欠片を拾っているのがその証拠だ。
だがそれでも黒影は少女に対し、懺悔を止めることはなかった。
〈申し訳ない。そなたは何も、悪くはないというのに〉
「黙れ」
「はい?」
討師が振り向きざまに訊ねるが、そんなものは無視だ。
夏楠は自身の宝貝に対し怒気を放ったが、黒影は構うことなく、あくまで討師の少女に向けて話し続けた。
〈すべては私と、此奴の不徳のいたすところ。重ね重ね、申し訳ない〉
「だから黙れっつってんだろ! 宝貝風情が!」
大声で叫ぶなり、夏楠は帯剣していた黒影を鞘ごと床に叩き付ける。存外響いた大きな音に、討師はびくりと細い身体を震わせた。
「高炉に投げ捨ててやろうか、このなまくらが!」
〈ほう? 好きにするがいい。いずれにせよ、宝貝たるこの身は滅びぬ。溶けるどころか傷一つ付かんだろうよ〉
夏楠の怒りもどこ吹く風で黒影は応酬する。
己の主をこれ以上ないほどに見下し、せせら嗤うように宝剣はこう続けた。
〈そして、私と貴様との縁は天命だ。死ぬまで逃れられん。いずこへ捨てようとも、必ず主のもとへと帰すだろう〉
「けっ、反吐が出る。二度とおれの前で口を利くな」
〈それはこちらの台詞だ。享楽を貪ることしか能のない、下衆めが〉
「黙れッ!」
ひときわ大きな声で罵声を浴びせると、夏楠は黒影を拾い上げ、目の前の討師に押し付けた。
「お前、この宝貝を持ってけ!」
「えっ、い、いけません。大切な宝貝を、わたしのような奴婢が──」
「いい、持ってけ。二度とこいつをおれの視界に入れるな」
「ですが、ほかの官吏の方が知ればきっと……」
言い募る討師を、夏楠は叩きつけるようにして厳命を下した。
「くどい! この北嶽がいいと言ってるんだ、さっさとこいつを持って出ていけ!」
「は、はい! 失礼いたしました!」
討師は返事をすると両手で黒影を抱え、逃げるように室を飛び出して行った。
「…………畜生が」
ぐしゃりと髪をかき上げ、夏楠はかすれた独白を落とした。




