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天麗-8

 ──暗い闇の中で。ある日、夜明けと出逢った。


 夏楠が牛車の外に身を乗り出したのは、ほんの気まぐれだった。車内で揺られながら西嶽の相手をするのもうんざりしていて、外の空気が吸いたかったのだ。


 間延びしたがくが奏でられる中、眼下に無数の人龍が這いつくばっている。その先では黒い龍旗を掲げた露店が、幾つも軒を連ねていた。

 それらをぼんやりと眺め、久々に串焼き食いてぇ、などと益体やくたいもなく考えていたときだ。


「夏楠ッ‼」


 突然、大声でいみなを叫ばれ、耳を疑った。

 敬称も何もあったものではない。完全な呼び捨てだ。


 今にして思えば、それは久方ぶりになんの肩書もない『ただの夏楠』として呼ばれた最後の出来事だったが、当時はただ不敬だとしか思わなかった。


 声は、女のものだった。

 一夜遊んで切った後宮の女か、妓楼時代に蹴落とした女か──心当たりがあり過ぎて見当がつかないが、公衆の面前で呼ばうその心意気だけは評価してやってもいい。


 いったいどんな不届き者だと視線を向けると、突っ立っていたのは思いのほか、平凡な印象の人の娘だった。

 朱州から来たのか、あまり見ない洒落しゃれた意匠の衣裳ふくを着ている。玄州人らしい真っ白な肌と黒髪に、珍しい緋色の瞳。綺麗というよりは愛らしい、優しげな顔立ちの少女だ。


 しげしげと少女を眺め、その顔に憶えがないことを確認する。

 字が読めないぶん、記憶力には自信がある。初対面の女だ。


「──……誰だ?」

「え?」


 夏楠がくと、何故か呼んだ本人が眼を丸くしていた。

 阿片くすりか何かで発狂おかしくなった女だろうか。


「誰だ? お前」

「…………かな、ん?」


 呂律の怪しい発音で少女は名を繰り返す。

 龍を前にして、二度の名呼び。これは想像以上に頭がイっている。


「わたし、は──……あ……わ、わたし……」

「北嶽様、ご無礼つかまつります! 控えよ、そこな人の娘! 頭が高いわ!」


 見かねた雲翔がそう言い、発狂女の前に出た。

 そうやって雲翔と比較すると、少女は今にも折れそうなほど華奢で、小柄だった。そのくせつらの皮が異常に厚い。厳しい雲翔の叱責を受けても、ひざまずく気配すらない。


「黙っておれば、見るに耐えぬ無礼の数々! 貴様、こちらにおわす御方をどなたか知っての所業か!? 北方玄州を賜たまわりし、北天北嶽公にあらせられるぞ!」

「も、申し訳ありません。わたし、夏楠という名のよく似た龍と、見間違いをしてしまいまして……」


 これで三度目の名呼び。

 真正の莫迦ばかだろうか?

 さっきから言ってることが、支離滅裂だ。


 その後も雲翔の恫喝が響き渡り、不毛なやり取りが繰り広げられる。早々に興味を失った夏楠は、野次馬やじうま根性丸出しで後ろから現れた西嶽に辟易へきえきしつつ、雲翔に命じた。


くびねろ」


 涙目で、すがるようにこちらを見つめていた少女を、突き放す。

 無造作に。ごみを払うように。なんの感慨もなく。


 戦闘が始まり、雲翔の剣を必死でかわす少女を無感動に眺めていた夏楠は、突如とつじょ舞い上がった血飛沫に腰を浮かせた。

 劣勢だった少女が、雲翔に致命傷を与えたのだ。

 ただの発狂女かと思っていたが、なかなかやるではないか。


「はッ! あの女、やるじゃねぇか。面白い!」


 ちょうど退屈していたところだ。

 近衛の制止も聞かず、夏楠は牛車から跳び降りた。逃げ惑う愚民どもと、おびえて役に立たない龍兵を押しのけ、返り血に染まった少女を追う。


 意外に足が速いが、地面には点々と血滴が落ちている。造作もなく少女に追いつき、路地裏に追い詰める。すると、あの雲翔を打倒したにも関わらず、少女は恐怖に震えていた。


 それは真実、心の底から怖がっていたのだと、今ならわかる。

 だが当時の夏楠は、それを演技だと信じて疑わなかった。


 ……なるほど、演技これがこいつの手か。

 まあ少しつつけば、すぐに馬脚を表すだろう。


「このおれから逃げられるとでも思ったか? 莫迦ばかが」


 傲然ごうぜんと言い放ってやる。

 少女は必死で弁明したが、夏楠は聞く耳を持たなかった。

 そして最後に追い打ちをかけるように、彼女にこう告げた。


「死ね、女」





「え、それで殺しちゃったんですか?」


 あっけらかんとした声で合いの手を入れる子墨シボクに、夏楠は半眼で視線を送った。


「それでおれが殺したら、話が終わるだろ」

「じゃあ、その人間の女の子が、銀河さんの?」


 改めて問われ、ひととき言葉を失う。

 子墨の問いが図らずも不明確だったことが、功を奏した。


 これがもし、恋仲だったかと問われていれば、否と答えていただろう。

 この想いは夏楠の一方的なもので、対する黎珠のそれも自分ではなく『二百年後の夏楠』に向いたものだ。真の意味で想いが通じ合っていたわけではない。


 だが今回、子墨は何も明言しなかった。

 彼女は光であり、夜明けであり、心の支えで、すべてのみなもと。いかようにも解釈できるそれに、ふわりと心が浮き立つのを感じた。


 ──おれは、黎珠に生かされている。

 知らず、笑みがこぼれ落ちた。


「あー、もういいです。もう充分わかりました。笑顔がまぶしぃー!」


 子墨はを仰ぐような芝居がかった仕草で言うと、目玉だけ横に動かしてかたわらの子豪シゴウを盗み見た。


「それで?」


 子豪は、一見すると平然とした顔で夏楠に先をうながした。だが卓上に置かれたその手は、甲に筋が浮くほど硬く握られている。

 …………見なかったことにした。


〈男の嫉妬は女の百万倍らしいぞ?〉


 聞きたくもない情報を黒影が寄越してくる。

 お前、(しゃべ)らないんじゃなかったのかよ、黙れ駄剣。


「それで、どうしたんだい、銀河?」

「ああ。そのあとは途中で西嶽が割って入って、事なきを得た」

「んんっ? 西嶽公? そう言や、さっきからちょーっと気になってたんですけど、銀河さんご職業は?」


 さて、どう答えたものか。

 夏楠が逡巡するうちに、子豪が先に答えた。


「北嶽だ」

「ああ、北嶽──って、どぅええぇぇぇぇー⁉」


 愉快な動きで子墨が仰天するが、子豪はまるで意に介さず、かたくなに夏楠から視線を外そうとしない。正直、けっこう怖い。

 子墨は微動だにしない子豪の両肩を掴むと、前後にゆさゆさ揺らして声高に訴えた。


「ちょっとちょっと伯父さんー⁉ あんた、僕に玄州公を襲わせたんですか⁉ 死にたいの? 莫迦ばかなの? それとも阿呆あほうなのっ⁉」

「おれはお飾りの北嶽だ。ほぼ実権はないから安心しろ」


 夏楠がそう言ってやると幾分、安堵した様子で子墨は深く頭を下げた。


「寛大なお言葉、痛み入ります、北嶽様」

「それで、銀河? その後、その小娘とどうなった?」

「全っ然ブレないねぇ、伯父さん⁉ ある意味尊敬しちゃうよ、僕!」


 うるさい子墨は横に置いておいて、夏楠は続きを話すにあたって、少々困っていた。

 このあと、夏楠は西嶽と聞耳ききみみについて黎珠を問いただしたわけだが、果たしてそれを、子豪と子墨に話して良いものか。


 聞耳は原則、宝貝ほうばいの継承者のみに伝えられるものだ。さすがに孝燕には話してあるが、子豪たちはこれでも民間である。当時西嶽も言っていたが、安易に口して良いことではない。


「話すのに何か、差し支えでもあるのかい?」


 たずねる子豪に、夏楠は曖昧に頷いた。


「ああー……まあ、うん」

「構わんよ、だいたい想像はつく。早計なお前のことだ、どうせ、むしゃくしゃしていたとかいう理由で、その小娘を陵辱でもしたんだろう?」

「してねぇよ‼」


 なんでお前はそっち方面でしか考えねぇんだよ。

 そして、一瞬でも想像してしまった自分が憎い。すまん、黎珠。


「んなこと初対面でするわけねぇだろ! おれが黎珠に、そんなこと──」

〈とは言うものの、後日似たようなことは画策していたがな〉

「黙れ、駄剣!」


 声に出してしまってから、やっちまったと頭を抱えた。

 子豪と子墨がそろって不思議そうに、夏楠を見つめている。

 己の軽率さを呪っていると、「これは致し方ない」という顔で孝燕が口添えした。


はあして、よろしいのでは?」


 孝燕の言うことはもっともだ。

 宝貝ほうばいや聞耳のことを伏せて今後の展開を語るのは、不可能に近い。それに最終的には、黎珠は天宝貝てんほうばいあるじとなるのである。多少のことは眼をつぶって、腹をくくるしかない。


「わかった、話す。だが、この話は他言無用で頼むぞ。墓場まで持っていってくれ」

「承知した。名に誓おう」

「はいはい、僕も誓いまーす」


 二名とも無駄に良い返事だ。

 変なところで息の合った伯父と甥っ子である。


 一抹の不安を抱えつつ夏楠は茶で咽喉のどうるおすと、続きを話すべく唇を開いた。


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