天麗-7
勧められた席に座ると、子墨が慣れた手付きで円卓に茶杯を並べていた。磁器ではなく、玻璃でできた杯だ。ちなみに急須も玻璃製である。さすが大金持ちだ。
「失礼します」
出されるなり、茶杯には孝燕が先に手を付けた。色や香りを確認してから口に含み、それをそのまま夏楠の前に置く。
龍討師である桃、直伝の毒味だ。なかなか堂に入った所作である。
(そういや桃、広間まで付いてきてるのか?)
騒ぎになっていないということは、まだ見つかっていないのだろうが。黎珠ほどではないにしろ、桃もぽやっとしたところがあるので若干心配だ。
「ふふ。毒など入っていないから、安心してお飲み」
虫も殺さぬ顔で子豪が言う。
確かにこいつは毒は盛らないだろうが、媚薬とか仕込みそうなので要注意である。
まあ、あれだけ勉強した孝燕が「問題なし」と判断したのだから、この茶は大丈夫だろう。
茶杯を手に取り、孝燕が口をつけた箇所から茶を啜る。
棘のない、まろやかな甘味。非常に美味だが、夏楠の好きな蜜蘭香ではなかった。
「さて。では、話を聞こうか」
深く椅子に腰掛けて、子豪が切り出した。
ちなみに、子墨は後ろで直立不動で控えている。会話に参加する意思はないようで一安心だ。この爺さんはきっと、余計なことしか喋らない。
夏楠は椅子でふんぞり返ると、単刀直入に言った。
「有り金ありったけ寄越せ」
「それはわかってる。何に使うんだい?」
「世のため人のため龍のためだよ」
「世のため? お前が?」
口調にはわずかに嘲りが混じっている。
完全に信じていない顔だが、事実だ。
「そうだ。文句あるか?」
「文句はないが、せめて本心くらいは語ってくれ」
「だから、玄州のためだって」
「玄州の何に使うんだい?」
子豪の問いに、夏楠は昨日読んだ孝燕の現状報告を思い出しながら、指を折りつつ答えた。
「問題が多過ぎてまだ決めかねてることもあるが、まずは堤だ。玄州は良くも悪くも水が溢れまくってるからな。まずはこいつをどうにかしないと話が進まない。で、次は食い物だな。今年は冷夏で実りが少ないから、早く手を打たないと冬に餓死者が出る。あとは追って知らせるから待ってろ、明細を出す。びた一文、私欲には使わないから安心しろ」
「お前……それは本気で言っているのかい?」
いつになく驚いた様子で子豪が訊ねた。
気持ちはわからなくもない。昔の夏楠を知っている者であれば、皆同じ反応を示すだろう。
しかし、繰り返しになるが、すべて事実で本心だった。
「本気も本気だ。名に誓って、嘘はついてない」
龍の場合、名に誓えばそれは極めて固い誓約と同義だ。よほどのことがない限り、違えられない約定となる。それは混血である夏楠も例外ではない。
子豪は虚を衝かれたような表情をしていたが、やがて何かに思い当たったように、すうっと眼を細めた。
「そう言えば──お前、この十年で随分丸くなったね。言葉もそうだが、瞳がとても柔らかくなった。昔はもっと、研ぎ澄まされた刃のようだったはずだが」
頬杖をつき、どこか嗜虐的な──探るような瞳で、子豪は夏楠に問いかけた。
「私の知らぬ間に、何があった?」
「別に、何も」
「何もないことはないだろう。私の知る銀河は玄州はおろか、この堯国すら滅べばいいと豪語するような子だったのだよ? 何かがあったはずだ。お前を根底から覆してしまうな、決定的な何かが」
「だとしても、お前には関係ない」
無表情のまま、にべもなく答える。
それに子豪は片眉を跳ね上げ、ゆったりと頸を横に傾けた。
「ふむ。どうあっても話す気はないと?」
「くどい。諦めろ」
「では、こうしよう」
子豪は口端を持ち上げると、実に愉しげにこう提言した。
「お前が自らの口で『それ』を話してくれたら、望む額の金を貸してあげよう。無利子でね」
「ちょっ! ちょいちょい、伯父さーん?」
「お前は黙ってなさい、墨」
堪らず口を挟んだ子墨を、視線も向けずに撥ね退ける。
真正面から夏楠を見据えたまま、瞬きもせずに子豪は続けた。
「それができないのなら──久しぶりに、躰で払ってもらおうかな。さすがにお前と言えど、一夜じゃ足りない。最低でも一ヶ月は、ここで私に奉仕してもらおうか」
「ちょ! それも鬼っ!」
「わかった」
子墨を遮るように、寸暇も迷わず夏楠は顎を引いた。
「じゃあ、一ヶ月だ。それで手を打ってやる。孝燕、先に帰って適当に誤魔化しといてくれ」
ここで初めて、子豪の表情は凍りついた。
いち早く反応したのは、今まで黙って控えていた孝燕だ。
「天麗公!」
〈夏楠!〉
強い非難を含んだ声が、続く黒影の呼びかけと重なる。
「ええええええー……嘘ぉー……」
一拍遅れて、子墨が蛙の潰れたような声を出した。
ただ一名、子豪だけが不気味な静けさを纏っている。しかしよく見ると、卓上の手はかすかに震えていた。
「そこまで、なのか……?」
拳を握り、かすれた声で問いかける。
何が、とは言わない。
言うまでもなくわかってはいたが、取り合わずに夏楠は席を立った。
「さっさと室に案内しろ。とりあえず今日の分は終わらせておきたい。こっちには眼を通なきゃならん紙束が山ほどあるんだ、時間が惜しい」
「誰だ」
対する子豪も、夏楠の話に見向きもせずに立ち上がった。
床にひっくり返った椅子の音が広間に反響する。
身を乗り出して夏楠の胸ぐらを掴むと、子豪は再び同じ問いを口にした。
「誰だ、それは? 話せ、銀河」
「やなこった。話はウリで決着しただろ? お前が出した条件だ」
「銀河っ‼」
剣呑な語調で呼ばう子豪を、夏楠は冷めた双眸で見返した。
おれの名前は、銀河じゃない。
おれが聴きたいのは、その名じゃない。
おれが欲しいのは──。
『あなたは、夏楠』
「もう一度訊く。何があった? 何がお前を変えた? それは誰だ?」
「話したくない。言ったはずだ」
「銀──っ」
なおも言い募ろうとする子豪の腕を、不意に横から伸びた手が掴んだ。
誰だろう。疑問符とともに手の主を見る──孝燕だった。
「邪魔だ、離せ」
敵意もあらわに子豪が睨むが、孝燕は動じることなく、ゆっくりと唇を開いた。
「天麗公」
静かに告げ、手にした紙片を差し出す。恐らく、帳面に書きつけた紙を破ったのだろう。
差し出された紙切れに視線を落とす。
そこに書かれた文面を見て取り、夏楠は呼吸を止めた。
書かれていた言葉は──御身、大事也。
『どうか、お身体を大事にしてください。くれぐれも、ご自分を粗末になさらぬよう』
……ああ、思い出すだけで。
今でも、涙が出そうだ。
「それを出すのは、ずるいだろ……」
十年前は、普通にこなしていたことだ。
今さらこんなの、痛くも痒くもないのに。
それすら許さず、『天下に並びなき名君になれ』とは。
言ってること滅茶苦茶だぞ、無茶にもほどがあるだろ、黎珠。
張り詰めていた神経が、ふわりと和らぐ。
夏楠の心中を正確に読み取った孝燕は、子豪に向き直ると笑顔で告げた。
「では、お話しいたします」
発音を聞き取れなかったのか、子豪が怪訝な顔で孝燕を見る。それに応じることなく、孝燕は夏楠に着席を促した。
〈構わんではないか。いい機会だ、お前の惚気をたっぷり聞かせてやれ〉
厭味たっぷりに言う黒影に、軽く吹き出した。
なるほど、そういう見方もあったか。
最初は自分の一番大切な場所に土足で踏み入られるようで嫌だったが、そう考えれば、確かに悪くはない。
子豪にとってはこれ以上ない、最高の嫌がらせになるだろう。
夏楠は不敵に笑うと、再び椅子に腰を下ろした。
「わかった。話してやるよ」
そこまで言うなら語ってやる。
いじらしい天帝の娘と、救いようがなく愚かな──悪しき龍の物語を。
このたびTwitterをはじめましたので、プロフィールに追加させていただきました!(龍遊戯伝で検索しても、恐らくヒットすると思います)
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