天麗-6
(げぇ。やっぱ変わってねぇ……)
それが、豪奢な長椅子にゆったりと腰掛けた美貌の龍──孫子豪を見た、夏楠の心の第一声だった。
子豪は、外見だけなら大層な美男子だ。外齢は二十代後半で、少々痩せてはいるものの、均整の取れた肉体を有している。抜けるような白い肌に、射干玉の艷やかな黒髪。繊細な意匠の耳飾りや、微妙に色合いの異なる黒衣を重ねた衣裳の選び方など、さすがに非の打ち所がない。
優艶絵に書いたようなこの男は、しかし柄でもなく、怖気がくるほど熱っぽい視線を夏楠に投げかけていた。
それを皮切りに、思い出したくもない過去が一気に蘇る。
昔、子豪に色々と世話になったのは、事実だ。
事実なのだが──芋蔓式に受けた数々の仕打ちを思い出し、夏楠は子豪からそっと視線を外した。
もう帰りたい。
可及的速やかに帰りたい。
そしてすべてを忘れて、風呂にゆっくり浸かりたい。
つい現実逃避してしまいそうになるほど、子豪の執心がまったく色褪せていないことを夏楠は悟った。
子豪と最後に顔を合わせてから、もう十年の月日が経っている。
その間、多少なりとも夏楠への執着が薄れたり、なんならほかに新しい男でもできてくれれば心安らかだったのだが、そう上手くはいかなかったらしい。
なべて龍は、情が濃い生き物だと云う。
一度生じた想いは、そうやすやすと衰えるものではないのだ──自分も含めて。
「お前の美しい顔は、見せてくれないのかい?」
ふわりと優雅に微笑み、子豪がせがむ。
夏楠が北嶽であることは承知しているだろうに、この態度だ。こちらが逆立ちしても不敬罪に問えないことを、向こうはよくわかっている。
子豪から視線を横にずらすと、門で応対した美少年、周が射殺さんばかりにこちらを睨めつけていた。
(おいおい、お前の周君が滅茶苦茶こっち睨んでんぞ)
男の嫉妬は女より怖ぇんだよな、特にお前──と内心辟易しつつ、取り澄ました顔で夏楠は突っぱねた。
「とりあえず、部外者を払え。話はそれからだ」
「ふむ。では、子墨だけ残していいかい? さすがに、お前相手に丸腰では私も心もとないのでね」
許可を求める口調だが、もとよりこちらに決定権はない。
この広間には子豪や周のほかにも、左右の壁に護衛の龍が整然と並んでいる。これが子墨だけになるなら御の字だろう。
子豪の要請に対し、夏楠は鷹揚に頷いた。
「ああ、構わない」
「子豪様! ぼくもお側に──」
「お前は下がっておいで」
「しかしっ!」
やんわりといなすが、傍らの周は納得いかない様子だ。
そんな己の愛娼に苦笑すると、子豪は悪戯っぽい光を宿した眼を夏楠に向けた。
「どうやら、直に眼にしないと納得しないようだ。銀河、見せつけておやり」
「断る──と言っても聞かないよな、お前は」
十年会っていないとは言え、元馴染み客だ。これは突っぱねても、何かしら理由をつけて押し通す顔だとわかる。
……気が重いが、仕方ない。
後ろの孝燕に目配せをしてから、夏楠は顔を覆っていた頭巾と襟巻きを無造作に取り去った。
瞬間、吐息のような声が幾重にも重なる。
そのとき広間に居合わせたほぼ全員から、感嘆の溜息が漏れた。
黒く染めていた髪は、五年前からもとの銀髪に戻している。かつて、子豪に絹糸に喩えられた髪が一房、音もなく頬に落ちた。
「わーおー……」
となりからも、子墨の間の抜けた声が聞こえた。
子豪は無言だったが、こちらの気が沈むほど瞳を輝かせ、瞬きもせずに夏楠を見つめていた。
子豪と別れたときと比べ、夏楠は成長している。背はぐんと伸び、雲翔ほどではないが、四肢に筋肉もついた。子豪好みの少年らしさは薄れたはずだが、それでもこの食い付きようだ。先が思いやられる。
ちなみに周は、唖然とした顔で夏楠を眺めていたかと思うと、悔しげに顔を歪ませて床に視線を落とした。
安心しろ、周君。お前はもう充分美形だ。
〈お前も罪作りな男だな〉
そして黙れ、駄剣。
出かかった悪態を嚥下し、夏楠は子豪に瞳で訴えた。
気がすんだなら、さっさと部外者を下がらせろ、この変態。
「と、こういうことだ。下がってくれるね、周?」
「承知、いたしました……」
歯を食いしばりながら、周は広間の外へ退場する。両脇の護衛もぞろぞろとそれに続き、最終的に残されたのは子豪、子墨、孝燕と夏楠になった。
周と護衛たちが消え、扉が閉まるなり子豪は長椅子から腰を上げた。舞踏のような優雅な足取りで、一直線にこちらへやってくる。
「ああ、なんということだ銀河。以前よりずっとずっと、綺麗になったね」
伸ばされた腕を、夏楠は後ろに仰け反って躱した。
「おれはもう商売から足を洗ったからな。お触り厳禁だ」
「花は弾むよ?」
「断る。死んでも御免だ」
「でも、金が欲しくて私のところに来たのだろう?」
艶っぽく唇を舌で嘗め、子豪が上目遣いで問いかける。
身長ではこの男を抜いたというのに、今も昔も主導権は向こうだ。腹立たしい。
夏楠が閉口すると子豪は満足げに笑い、その頬に指を這わせた。輪郭をなぞるように滑った指が、不意に強い力で顎を掴む。
眼前に迫る子豪を見て、夏楠はようやくその意図に気づいた。
(こんなとこで口吸いかよ⁉ 冗談じゃねぇぞ⁉)
突き飛ばそうにも、今後のことを考えると拒む手が止まってしまう。
どうする、どうする、どうする、どうする?
答えを出せぬまま考えあぐねている間も、子豪の顔が近づいてくる。
うげぇ、と品のない声を上げそうになったところで、
「そこまで」
子豪と夏楠を割る形で、鼻先に使い込まれた帳面が突き出された。
嗅ぎ慣れた墨の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「不敬です」
完璧な発音と有無を言わせぬ笑顔で、孝燕が子豪に告げた。
そう言えば孝燕は発声で、幾つかの決め台詞を重点的に練習していた。『天麗公』や『そこまで』『参りましょう』など、夏楠にしてみれば何故その言葉を優先するのか不思議だったが、謎が解けた。
「参りましょう、天麗公」
くるりと反転して夏楠の腕を掴むと、孝燕は広間の扉に向かってすたすたと歩き出した。
「お、おい、孝燕ッ」
ぐいぐい引きずられながら抗議の声を上げるが、孝燕は聞く耳を持たず──というか、視線がこっちを向いていないので多分、聞こえていない。
普段、夏楠などよりよほど冷静な孝燕が、今日は珍しく感情的だ。
どうしたものかと夏楠が思案していると、先回りした子豪が扉の前に立ちはだかった。
「わかった、非礼を詫びよう。もう手は出さないから、怒りを収めてくれないかい? まだ、茶の一杯も出していないじゃないか」
たおやかに微笑み、子豪は子墨に目配せをする。それを受け「はいはーい」と軽薄な返事をしながら、子墨はそそくさと茶の準備を始めた。
孝燕が、夏楠の意向を窺うように振り返る。子豪の死角から、およそ彼には似つかわしくない──まるで悪徳商人のような笑みで、夏楠を見上げた。
〈足元を見られては元も子もないだろう。言動を見る限り、この男は未だお前に未練垂々のようだからな。安売りはするな。高飛車に出ろ。限界まで値を釣り上げてやれ。……それこそ、傾国の美女のようにな〉
昔、あれほど耳に入らなかった黒影の忠言が、今はすとんと夏楠の腑に落ちた。
──ああ、そうか。すっかり忘れていた。
元、瑞天楼筆頭妓女ともあろう者が、聞いて呆れる。
これは融資の交渉でも、金の無心でもない。ただ、客から金を巻き上げるのだ。
なんだよ、それなら得意分野だ。
唇に艶笑を刷き、夏楠はこれ見よがしに色目を遣った。
「なら、もう少し居てやるか」
黒影の助言通り、傾国の美女のように傲慢に告げて、夏楠は軽やかに踵を返した。




