天麗-4
「どちら様でしょうか?」
少年は金の双眸をわずかに細め、淡白な口調で訊ねた。
鼻筋の通った、なかなか美しい少年だ。全体的に身体が薄く、中性的な印象がある。外齢は十五かそこらで、昔の夏楠に雰囲気が似てなくもない。そして彼の手には、今の季節に不釣り合いな黒い手套がはめられていた。
「これを主に渡してくれ。それでわかる」
夏楠は銀貨を一枚取り出し、少年に手渡した。
少年は銀貨を持ったまま、怪訝な顔を夏楠に向ける。
庶民ならまだしも、瑞雲閣の主への駄賃としては、話にならない金額だ。事実、さきほど門衛に渡した心付けの方がはるかに多い。
「からかってらっしゃるなら、お引取りを」
「それで通じる。主に渡してくれ」
「要件をうかがわなければ、応じることはできません」
「ただの銀貨だ、害はない。お前はそれを渡すだけでいい。それでもあいつが帰れと言うなら、そのときは従う」
あくまで穏便に告げ、話の最後に「だが」と夏楠は念を押した。
「だが、確実に手渡してくれ。変な気を起こして、途中で握り潰すようなことだけはするな。あとで奴の耳に入ったとき、生爪を剥がされるぞ」
忠告を聞くと、無表情だった少年はさっと顔色を変えた。
息を呑み、弾かれたように夏楠を見上げる。少年は手套ごしに銀貨を握り締めると、やがて視線を地面に落とした。
「……わかりました」
それだけ言い、夏楠に背を向ける。
少年が見えなくなったところで門衛に残りの報酬をやり、夏楠は少し離れた場所で待つことにした。あのまま門前で突っ立っていても邪魔なだけだ。
──さて、どう転ぶか。
あとはただ待つしかない。夏楠は腕を組むと、手近な塀に背中を預けた。
『あれはどういう意味ですか?』
一息ついたところで、孝燕が帳面で訊ねてきた。
音が聞き取れない孝燕は、声量の調節ができない。話を悟られぬように筆談を選んだのだろう。
「妓楼にいた頃、おれが使ってた名が『銀河』なんだよ」
孝燕なら、こう言うだけで意図を理解するはずだ。
銀貨を使った符丁は、昔よく使っていた手である。今も同じ手が通用するかは賭けだが、やってみる価値はある。
『生爪は?』
「おれが二股かけてほかの客に浮気したとき、小指の爪を引っ剥がされた。『お仕置きだ』とか下衆いこと言ってな」
少年がしていた、あの手套。
あれも、似たような目に遭ったのではないかと夏楠は睨んでいる。
夏楠の唇を読むと孝燕は思い切り渋面を作り、訴えるような視線を寄越した。
言いたいことはわかるが、今の玄州で夏楠に大金を貸付け、かつ即金で用意できそうな相手は、こいつしかいない。
『西嶽公からいただいた金では、』
「足りない。お前も知ってるだろ。西嶽──白老師は、富豪じゃない」
そう、西嶽が独断で動かせる資金は、実は意外に少ない。
白州の金蔵それ自体は莫大だが、それは西嶽の財布とは別だ。考えてみれば当たり前のことだが、それを玄州の高官はことごとく履き違えているらしく、結果としてこんな火の車になってしまっている。
そもそも西嶽は白州を立て直す際、西家の私財を売り払っている。その後も贅沢はせず、基本的に質素な生活を続けているため、夏楠への援助も期待したほどは得られなかった。
とは言え何かと理由をつけては不自然に思われない程度に、白州からは定期的に金が入ってきている。これ以上欲をかくべきではない。
「……申し訳ありません」
不意に声を出し、孝燕が謝罪を口にする。
何を謝っているのかわからなかった夏楠は、不思議に思いつつ俯く孝燕に訊ねた。
「なんでお前が謝んだよ?」
「父が、浪費を──」
「黙れ」
言いながら、夏楠は孝燕の鼻をつまんだ。
「それ以上言ったら、ぶっ叩くからな」
鼻から手を離すと、孝燕は泣き出しそうな表情で笑顔を見せた。
「今は目の前のことに集中しろ。ほら、ほかに聞きたいことは?」
『ここの主は、どのような方なのですか?』
「もとは銀山で財を成した豪商の一族だそうだ。生まれからして裕福だったが、あいつの代でさらに巨万の富を得たらしい。今では貴金属から宝石、嗜好品、物流から観光業、と手広く展開しているな。多分、堯国でも三本の指に入る大金持ちだ」
そして玄州においては、他の追随を許さぬ大豪商である。
奴なら間違いなく、州府を潤すに足る資産を有しているだろう。
『で、その方の気質は?』
硬い表情で問いかける孝燕を安心させるように、夏楠は笑ってその肩を叩いた。
「そう心配するな。生爪の一件は例外みたいなもんで、基本的には話の通じる奴だ。あれは単に、おれの浮気に嫉妬したってだけの話で」
『でも、善良ではないのでしょう?』
「悪徳じゃないだけマシだ。それに、あいつは商売はわりといいことするんだよ」
玄州の高官のように、一方的に民を虐げるような金の巻き上げ方はしない。むしろ逆で、商売によって暮らし全体を底上げするような方策を好む男だ。結果、巡り巡って金は肥えて手元に戻ってくる。その方が経済的ではるかに儲かることを理解しているのだ。
『でも、心配です』
夏楠の説明を聞いても、孝燕は浮かない顔で文字を綴った。
「大丈夫だって。最悪コトを要求されたとしても、あいつは痛めつけて悦ぶ系じゃないからな。それで金が手に入るなら安いもんだ」
「駄目です」
そこだけははっきりと、強い口調で孝燕は断言した。
『ご自身を粗末になさらないでください。大切なお身体です。ただでさえ連日の公務で疲弊しているのですから、ご自愛いただかねば』
「わかったよ。前向きに善処する」
『前向きにではなく、確約してください』
今日はいつになく喰い下がるな、と心でぼやきつつ、夏楠はひらひらと手を振って言った。
「わかったわかった、名に誓う。誓って無理はしないって」
『黎珠おねえさんに誓ってください』
不意打ちで出された名を見て、夏楠はぴたりと動きを止めた。
綴られた文字を、もう一度ゆっくりと眼で追う。ただそれだけで──堪らない気持ちになった。感情がまったく色褪せていないことに、少しほっとする。
──ああ、彼女と逢えるまで、まだ一九五年もある。
「おれは──」
〈夏楠、門から誰か来たぞ〉
黒影の指摘を受け、夏楠は口を噤んで孝燕から視線を外した。
そういや、こいつもいたんだった。
外出時は口数が少ないので、失念していた。
「お前、いたんだっけな」
〈いたわ、呆け。下手に口を出せば、お前はすぐに反応するだろうが〉
軽口を叩く夏楠を見て、まだ納得しかねるような顔をしていた孝燕も遅れてその視線の先を追った。
門から単身、軽妙な足取りで近づいてきたのは先ほどの美少年──ではなく、細身の老爺だった。
見た目は人で還暦前後といったところか。背筋がぴんと伸び、若々しい印象の男だ。髪は九割方白髪だが、毛量は豊かである。洒落た意匠の衣裳を品良く着こなす様は老紳士のような出で立ちだが、隙のない動きと鋭い金の双眸が、すべてを裏切っていた。
〈この男、腕が立つな〉
ぼそりと黒影が呟く。
夏楠も同意見だった。老爺の得物は外套に隠れて見えないが、動きから察するに刀剣の類だろう。かなり武芸に長けた龍だ。
しかし、これなら──。
(勝てるな)
孝燕を盾に取られないよう警戒する必要はあるが、一対一ならまず負けない。後ろに桃が控えているなら、なおさらだ。
老爺は夏楠の前まで来ると、にこりと相好を崩した。
笑うと剃刀のような瞳の冷たさが薄れ、一気に人懐こい雰囲気になる。
「どうもー。こちら、銀河サンで合ってます?」
想像以上に軽い口調だった。
「ああ、おれだ」
やや面食らいながら夏楠が答えると、老爺はその場で優雅に一礼した。
「はじめまして。僕は名を孫子墨といいます。ではさっそくで申し訳ないですが、失礼しますね──っと」
殺意もなく、予備動作もなく、まるで息をするように。
子墨は腕を交差させ、腰に下げていた武器を引き抜いた。
ゆるく湾曲した、幅の広い片刃の刀──曲刀だ。
左右両手にそれらを持ち、突如、子墨は目の前の夏楠に襲いかかった。




