天麗-3
そしてまた、刻は過去に遡る。
黎珠に救われた五年後、夏楠は再び、因縁の地を訪れていた。
当時ろくに名も憶えていなかったその場所は、江邑という。その名のとおり、玄州から青州にかけて流れる堯国最大の河川、連江から取った名称だ。
まだ武邑が貧しかった当時は、この江邑が玄州最大の行楽地だった。清涼な水と豊かな山林を擁した峰は起伏に富み、春は咲き誇る花、夏は涼やかな渓流、秋は紅葉、冬は降り積もる雪と、訪れる者を飽きさせない。著名な文筆家がこぞって集まるため、その景勝を讃えた詩歌は数え切れないほどあった。
あのときは聞けなかった渓流の音を聞きながら、夏楠は馬車に揺られて江邑でも有名な山道を進んでいた。見下ろせば目眩がしそうな絶壁にある道だが、天候さえ良ければ観光客の足が途絶えることはない。
特に今日は好天で、冴え渡った空は青い。雲海の中、無数の切り立った奇岩が立ち並ぶ姿は壮観である。眼下に広がる深い碧の森と、そそり立つ岩峰との対比を楽しみながら、徒歩で行く者も多い。
しかし夏楠はその絶景に眼もくれず、無言でひたすら分厚い紙束をめくっていた。内容は、玄州府の収支についての報告書だ。
もはや殺意すら込めて文字列を睨んでいると、対面から伸びた手にちょいちょい膝頭をつつかれた。
仏頂面のまま頭を持ち上げる。
視線の先には、帳面をこちらに向けた孝燕が座っていた。
この二、三年で、孝燕の身長は急激に伸びた。まだまだ背丈は夏楠の方が高いが、こちらの成長はすでに止まっている。このまま伸び続けたら追い抜かされてしまうな、と危機感を感じる今日このごろだ。
孝燕が見せた帳面には、走り書きとは思えないほど流麗な文字が並んでいる。
曰く。
『外の景色でも眺めて、少し休まれては?』
「こんな噴飯ものの収支を見たら、とてもそんな余裕はない」
『でも、あまり根を詰め過ぎるのも良くないですよ?』
「つーかお前、これ見たのか?」
射殺さんばかりに眼を飛ばす夏楠に対し、孝燕はにっこりと笑みを返した。可愛くないことに、孝燕は年々恐ろしい勢いで神経が図太くなっている。
『ざっと眼は通しましたよ? 全体的に経費がおよそ三割上乗せされて、それでもまだ足りずにありもしない後宮の修繕費を莫迦みたいに計上して、どうにか帳尻を合わせた頭の悪い収支ですよね』
後宮など、五年前真っ先に解散させ、今は空き家同然だ。
金を喰うばかりで正直邪魔なのだが、売り飛ばそうにも諸官に突っぱねられ、仕方なく迎賓施設として維持している。つい先日、会食で使ったばかりだが、隅々まで手入れが行き届いて綺麗なものだった。
あれのどこを修繕するのだ、どこを。
「っざけんなよ、糞どもが。あいつら、マジで皆殺しにしてぇ……」
『お言葉が乱れてらっしゃいますよ、天麗公』
しれっとした顔で指摘する孝燕に鼻を鳴らして、夏楠は足を組み替えた。
「お前ももっと口を使え。上達しないぞ」
「はいはい」
「『はい』は一回でいい」
「はい」
完璧な発音を返してから、孝燕は不意に表情を改めて夏楠に切り出した。
「そろそろ、教えていたあけませんか?」
「うん?」
「『静養』でここえ来た、本当の理由です」
夏楠は今回、『疲労回復のための静養』という名目で江邑を訪れている。玄州官の無能ぶりに疲れているのは事実だが、もちろん本当の目的は別にある。それを孝燕は訊ねたのだ。
「……五年前、おれがどうして最高位の妓女になれたか、わかるか?」
唐突に訊き返した夏楠に、孝燕は怪訝な瞳を向けた。
構わず、夏楠は話を続ける。
「お前は知らんだろうが、高級妓女になるには見てくれだけじゃなく、教養も求められるんだよ。詩歌や碁に加え、客との知的な会話なんかも含めてだ。おれは舞は得意だったが、それ以外は凡庸でな。おつむの出来が露見ねぇよう必要最低限しか喋らなかったが、それでも限界はある」
要するに、だ。
夏楠は正攻法で、その地位を手に入れたわけではなかった。
「つまり全部をひっくり返せるほど、『規格外の太客』を持ってたってわけだ」
自虐的に笑う夏楠と対照的に、孝燕は見るからに顔を曇らせた。みなまで言わずとも、夏楠の真意を悟ったのだろう。
夏楠は馬車の窓枠に頬杖をつき、ぞんざいに外へ視線を放った。
「おれはここへ、金をせびりに来たんだよ」
季節は奇しくも、また夏を迎えようとしていた。
*
馬車を降りると、目的の場所は容易に見つけられた。
探すまでもなく、視界の中にひときわ目立つ高楼が幾つも見えていたからだ。
高楼の手前には、侵入者を阻むように巨大な門扉がどんと鎮座している。掲げられた看板には洒落た書体で、瑞雲閣と書かれていた。多分、瑞天楼から取った名だろう。
高楼も門も一見して訪れた者の眼を引くが、決して派手ではない。全体的に品が良く、非常に洗練された造りだ。屋根や柱の細工は細かく、相当凝っているのだが、色を絞っているため下品には見えない。玄州らしく黒を基調とし、要所に少量の金や朱をあしらった配色が奏功していた。
昔はもっとけばけばしく、いかにも成金が建てたような楼閣だったはずだ。その趣味の良さには、現在の主の感性が如実に反映されていた。
(変わってねぇっぽいなぁ……)
いかにも、らしい。
垢抜けた意匠の門扉を前に、夏楠はこっそりため息をついた。
感性というものは、金では買えない。得るのは難しいが、だからこそ必須だ──とは、奴の言である。
おかげで夏楠は身につける衣裳や装飾品、靴、口に差す紅の色から簪一本に至るまで、物の選び方と審美眼を徹底的に叩き込まれた。さらには客との駆け引きや美しい所作、競争相手の蹴落とし方まで、実に多くを学ばせてもらったものだ。
(その分、夜の方は大変だったけどな……)
できることなら二度と対面したくなかったが、背に腹は代えられない。
鈍る心と足を叱咤して、夏楠は瑞雲閣の門衛に近づいた。不況続きの玄州で龍を門番に据えるあたり、かなりの資金力が窺える。
「ここの主と面会したい」
左右に立つ門衛二名に告げると、彼らはいかにも不審者を見る眼つきで夏楠を眺めた。
夏楠は今、冬でもないのに頭巾を被り、さらに鼻から下を布で隠している。露出しているのは眼元だけだ。素面では面倒なことになりかねない。
夏楠を一瞥すると、門衛は頸を伸ばし、後ろに控えている孝燕を見た。連れはほかに誰もいない。
あくまで私的な訪問だ。北嶽としての権威は使いたくないし、使う気もない。一応、護衛として近くに桃を潜ませているが、よほどのことがない限り出るなと言ってある。
「お引取り願おう」
予想通り、手前にいた門衛がすげなく回答した。
相手は顔を隠した怪しげな男なのだから、当然の対応である。
夏楠は懐からおもむろに巾着を取り出すと、門衛の手に握らせた。
「責任者を呼んでくれ。ここの主の知り合いだ。会えばわかる」
手にずしりとした重みを感じ、門衛の眼の色が変わる。
「これは駄賃の半分だ。もう半分はあとで払う」
門衛は指先で、巾着の口をわずかに緩めた。そこから覗く黄金を確認すると、同僚と目配せを交わし、素早く戎衣の中に仕舞い込む。
「わかった。しばし待て」
巾着を受け取った門衛が、そそくさと扉の向こうに消える。
しばらくして、門衛は小柄な少年を連れて夏楠の前に現れた。




