天麗(序)-2
〈──私の声が、聞こえるか?〉
頭蓋に直接響く声に、頸筋を冷たい汗が滑り落ちた。
低い、落ち着いた男の声。それはわかるが、声の方向が──距離感が掴めない。いまだかつて聞いたことのない声音だ。
この男は、いったいどこから話しかけている?
慌てて左右を確認するが、声の主らしき者は見当たらない。
もしや先ほどの大男かとも思ったが、当の龍は血の付いた顔を手で覆い、床に膝をついたままだ。
〈答えよ。剣を抜いたということは、お前が──〉
「煩え! 黙れッ!」
空いた手で額を押さえ、夏楠は怒鳴った。
どこの誰だか知らないが、今は構っている余裕はない。
──北嶽。
そう、北嶽だ。
あの外道を殺らねば。
それまでは、絶対に死ねない。
視線を、母の仇に向ける。
北嶽は瞠目して漆黒の剣を見つめ、次いで夏楠を憎悪とともに睨めつけた。
「やはり、貴様が──」
何か言いかけていたが、知ったことではない。
すぐさま北嶽に肉薄しようと床を蹴る。
すると間に入った龍兵が、こちらに槍を突き出した。
軌道を逸らすため、黒剣の刃で受け流す。
受け流そうとして──相手の槍は刃を合わせた箇所から、豆腐のようにすとんと分離した。
これには対峙した龍兵はおろか、夏楠も驚く。
さして力を込めたわけでもないのに、この切れ味。
続けて襲ってきた龍兵に対し振るっても、再び同じ現象が起こる。
(はッ! こいつはいい)
よくわからないが、とんだめっけ物だ。
龍兵の武器を次々と斬り伏せ、難なく北嶽のもとにたどり着く。
そして勢いのまま、夏楠は漆黒の剣を一閃した。
力は、ほとんどかけていない。
だが呆気なく、そして可笑しいほど無様に、北嶽の頸級は床に転げ落ちた。
「ざまあみやがれ」
吹き出す血飛沫を全身に浴びて、夏楠は独り嗤った。
その凄惨な姿に誰もが凍りつき、声を失う。
一拍置いて、我に返った妓女の絹を裂くような悲鳴が広間に響き渡った。
四方から龍兵が殺到し、床板に身体を押し付けられる。
夏楠は抵抗せず、それに従った。
州公たる北嶽を弑する、大罪を犯したのだ。このあとは間違いなく、それこそ眼を背けたくなるような刑が課せられるに違いない。
──構わない。覚悟の上だ。
母の仇は取れた。それだけで満足だ。
観念して瞳を閉じたとき、不意に聞き憶えのない男の制止が耳に入った。
「待て」
穏やかで、理知的な声だ。
誰かと思い、床に這いつくばったまま視線を上げる。すると、顔を布で押さえた大男が、こちらに歩み寄ってきた。
「この少年は、黒影の剣を抜いた。皆も見ていただろう」
周囲の者に言い聞かせるように、大男が言う。
やはりあの制止の声は、この男のものだったようだ。
コクエイ、という聞き慣れない単語に夏楠は眉を寄せる。
今も手に握っている、この黒い剣のことか。
考えている間も大男は夏楠を見つめて、淡々と言葉を紡いだ。
「ならば、宝貝の真の主は、この少年だ。浩燕殿こそが偽りであったということになる」
そう言い、夏楠の前で膝をつく。
ほぼ同時に、夏楠を取り押さえていた龍兵たちの手がすっと消えた。
一応自由にはなったが、わけがわからない。
そのまま座り込んでいると、眼前の大男はあろうことか、おもむろに夏楠に対して叩頭した。いや大男だけではない、広間すべての龍が、一斉に夏楠に平伏した。
「事情を存じ上げなかったとは言え、万死に値する非礼の数々、どうかご容赦くださいませ」
「…………は?」
妓女の化粧のまま、衣裳は破れてはだけ、返り血で真っ赤に染まった状態で──夏楠は短く呟いた。
信じられない光景に呆然としていると、また頭の中に低い男の声が響いた。
〈手前は宝貝、『黒影の剣』。私は主以外扱えず、鞘から抜くことは叶わない。よってお前こそ、この玄州の正当な北嶽だ〉
そう、不思議な声の男──黒影が告げる。
叩頭していた大男が、さらに続けてこう言った。
「私は白州西嶽が嫡男、名を西雲翔と申します。こうして御目文字できましたこと、心よりお慶び申し上げます、北嶽様」
まるで駄目押しをするように、雲翔は衝撃の事実を夏楠に伝えたのだった。
*
それから長い歳月を経て──。
この一件は再び、両者の間で話題に上ることとなる。
怪我をさせてすまなかった、と夏楠が当時を振り返って詫びると、
「いえ。若い娘でもありませんし、謝罪していただくようなことではございません」
雲翔は表情を変えず、けろりとした顔で返した。
確かに雲翔は嫁入り前の娘ではないが、それでも西嶽似の端正な顔立ちをした、なかなかの偉丈夫だ。その顔面ど真ん中に、一文字の大きな傷跡を残してしまったことは、やはり申し訳なく思う。
沈黙した夏楠を見て、雲翔は少し困ったように視線を彷徨わせた。こちらの思ったことが顔に出ていたらしい。
雲翔は眉間に皺を寄せ、難しい表情を作ると、夏楠にこう切り出した。
「……実はあのあと白州に帰還した折に、父に言われたのですが」
「さぞかし立腹していただろう?」
「いえ。父が言うには『何それ、雲翔⁉ やだ格好いい! 惚れそう!』と、大変な興奮っぷりでして……ですから本当に、お気になさらず」
「あー……」
そっちだったか、あの親莫迦。
状況を正確に察した夏楠は、雲翔の渋面を見て苦笑した。
だがまあ、西嶽の言うことも間違ってはいない。顔に傷があるということは、敵に背を向けなかった証左だ。雲翔のような精悍な顔立ちに向かい傷は、確かによく似合っている。
「そうか、傷の似合う顔か……羨ましいなぁ……」
「羨ましい? 北嶽公が私にですか?」
雲翔はやや懐疑的な眼をこちらに寄越した。
百花を凌ぐとすら言われる美貌の夏楠が、こと容姿において誰かを羨むということが理解できないらしい。
だが夏楠とて、男である。
美しさよりも勇ましさに焦がれるのだ。
「私は母に似て女顔だろう? 別に嫌っているわけではないのだが、雲翔のような凛々しい容姿には、やはり憧れがある」
「凛々しい、ですか?」
「うん。なんと言うか、抱かれたい感じと言うか……」
言った途端、雲翔は青褪めた顔で夏楠に懇願した。
「すみません。公がおっしゃるとその、冗談に聞こえませんので。お控えいただけると……」
「ああ、すまん。大丈夫だ。あの界隈からはとっくに足を洗ったからな」
からからと笑いながら答え、唐突に夏楠はふっと真顔で雲翔を見つめた。
「だが、そうか……確かに雲翔になら、抱かれてもいい」
「北嶽公っ‼」
ずざざざっ、と土埃を立てて雲翔は後ろに下がる。
それはもう可哀想なほど怯えた様子だ。
すぐに〈こら、夏楠〉と、黒影に呆れた口調で窘められた。
「すまん、すまん、安心してくれ。そんなことしようものなら、今度こそお前の親父に八つ裂きにされてしまう。婿入り前の大事な息子を傷物にされたとな」
「それも、いかがなものかと思いますが……」
頭を抱える雲翔を見て、夏楠は声を立てて笑う。
あの頃は欠片も想像できなかった、それは幸せな、夜明けのあとの一幕である。




