天麗(序)-1
奇しくも、季節は夏だった。
他州と比べ玄州はどこも涼しいが、この宮は近くに渓流があることで有名だ。夏は青葉の碧が水面に映え、景観も良く、玄州屈指の避暑地となっている。
残念ながら今は夜で、その美景を拝むことはできない。だが慎重に耳をすませば、川のせせらぎくらいは聞こえてくるだろうか。
そう思い足を止め、意識を外に向けてみたものの、聞こえてくるのは宴の騒々しい楽の音と女の嬌声、酩酊した男のがなり声だけだった。
……まあ、それはそうだ。端から期待はしていない。
短く嘆息して、面紗ごしにぽっかりと浮かんだ月を仰いだ。
季節は夏で、夜空には満月。あまりにもおあつらえ向きで、もはや厭味だとしか思えない。
「銀河」
名を呼ばれ、銀河は声の方へ金色の瞳を動かした。
この面紗は、外からこちらの表情は窺えないが、中からは見える。意味もなく回廊で立ち止まった銀河を責めるように、楼主が険しい視線を投げかけていた。いや、事実責めているのだろう。
何せ、今日の相手は上客中の上客。
我らが北方玄州の長、北嶽サマだ。待たせるなど万死に値する。
しかし銀河は楼主の焦りなど意に介さず、ゆったりと歩みを再開させた。
一歩踏み出すごとに、長く垂れた裳がさらさらと優雅に揺れる。歩調に合わせて髪に差した簪や耳飾り、帯玉が涼やかな音を奏でた。銀河が身に纏う装飾品は、いずれも最高級のものだ。
玄州でも指折りの高級妓楼、瑞天楼の最高位に位置する妓女として、銀河は今宵の宴に招かれていた。
この高みに至るまでの、泥水を啜るような日々を銀河は想起する。
芸を磨き、同僚を蹴落とし、下衆どもに足を開き、騙り、媚を売って──ありとあらゆる手段を用い、ここまで上り詰めた。
すべては、この日を迎えるための布石だった。
銀河は満を持して、宴が催されている広間に足を踏み入れた。途端に場はしんと静まり、居合わせた者の視線が一斉に向けられる。
それらを意に介すことなく、銀河は素早く左右に視線を走らせた。
品の良さが売りの玄州だが、広間の内装は趣味の悪いものだった。壁や柱、食事を乗せる卓や椅子に至るまで、びっしりと縁起物の動植物が彫られ、黄金に彩られて眼に痛い。
贅の限りを尽くした広間は吹き抜けで、上には二階席もあった。どこもかしこも高級官吏と妓女で埋まっている。一階には白州から招いたのか、褐色の肌の官吏もちらほら見えた。その間を縫うように、配膳係が少々。そして壁面には、警護の兵が彫像のようにずらりと並んでいる。
広間の中央は妓女たちが芸を披露できるよう、広く空間が取られていた。その周囲を囲むように食卓が配置され、奥の上座に今上の北嶽が座している。
左右に美女を侍らせ、長椅子に深く腰掛けた北嶽の外見は、存外若い。人で言えば二十代後半ぐらいだ。しかし、実際は百近い年齢だったと銀河は記憶している。
……まあ、四百、五百年と生きる龍だ。百なら若造の部類だろう。
酒で頬を染めた北嶽は物珍しそうな眼で銀河を睥睨し、これみよがしに手にした酒盃を傾けた。
楼主の先導で広間の中央に進むと、銀河は北嶽に向けて叩頭する。横で楼主がなんやかんやと口上を述べていたが、銀河の耳にはまるで入ってこなかった。
ただ──。
「面を上げろ」
ただ北嶽の声だけは、酷く鮮明に銀河の耳朶を打った。
銀河はゆっくりと頭を起こすと、顔を覆っていた面紗を静かに持ち上げる。
顕になった銀河の容貌を見た途端、北嶽は金の双眸を見開き、動きを止めた。手にした酒盃が、音を立てて床に転げ落ちる。
北嶽の驚愕のまなざしを受け、銀河は紅を引いた唇を釣り上げて、艷やかに嗤った。
嘘偽りない、会心の、腹の底からの笑みだった。
「この面貌を、憶えているか」
銀河の声を聞き、楼主がぎょっとした顔を銀河に向けた。
それは北嶽に対して不遜な口を利いたからかもしれないし、常々「喋るな」と言われていた命令を破ったからかもしれない。
年が明けた頃に、銀河は声変わりをした。口を開けば、明らかに男だと露見してしまう。
「お前、は──」
北嶽が何か言うのを待たず、銀河──夏楠は床を蹴った。
衣裳に隠していた短剣を引き抜き、一足飛びで北嶽に迫る。
ここからは速さが勝敗を分ける。
龍を殺るなら、一気に頸を刈るのが確実だ。
理想は刎ね飛ばすことだが、この際、頭がもげる程度でいい。
とにかく殺せれば、文句はない。
身動きもできず呆けた北嶽に、短剣を振りかざす。
だが、あと一息というところで、夏楠の短剣は間に割って入った男に阻まれた。
刃と刃が噛み合う、鈍い金属音が響く。
対峙した男の瞳は、黄金色──龍だ。
身に付けた戎衣は白く、肌は浅黒い。
玄州の龍兵ではない。
他州、白州の龍だ。
(糞がッ! 部外者が出しゃばんじゃねぇ!)
心中で悪態をつく。
力任せに薙ぎ払おうにも、敵の長剣に短剣では分が悪い。
加えて、相手は体格のいい大男だ。
細身の夏楠では、どうしても腕力で負ける。
それにちんたらしていれば、駆けつけた壁際の兵に取り押さえられるのも時間の問題だ。
即行で決着をつけるしかない。
夏楠はいったん力を抜き、わずかに短剣を引いた。
急に力が消えたことで、大男が前のめりに体勢を崩す。
そこで、あえて夏楠は相手の懐に踏み込んだ。
北嶽を殺る前に刃は鈍らせたくなかったが、致し方ない。
血糊を浴びる覚悟で短剣を真横に一閃する。
狙いは、頸だ。
腕の立つ龍ならなおさら、即時戦闘不能にせねばこっちが殺られる。
しかし夏楠の斬撃は、大男の鼻筋を浅く横に裂くにとどまった。
短剣が届く寸前、察知した相手に仰け反られたのだ。
でかい図体の割に、いい動きをする龍である。
初撃で仕留め損ねたが、ここで諦めるわけにはいかない。
夏楠は身を屈めると、回転しながら相手の膝裏に蹴りを放った。
こちらは見事命中し、目論見通り、大男は床に転倒する。
今のうちに、と逃げ腰の北嶽の距離を詰めようとして、右手から新たな兵が槍を突き出した。
こちらは玄州の龍兵だ。
紙一重で槍を避け、再び北嶽に近づこうとしたところで、今度は左から別の龍兵の剣が振り下ろされる。
槍を回避した直後だ。
さすがに苦しい。
こちらは躱しきれず、仕方なく刃を短剣で受け流す。
それが、まずかった。
無理な体勢で受けたことが災いし、唯一の武器である短剣が撥ね飛ばされ、空中を舞う。
徒手では北嶽を殺せない。
別の新たな武器が要る。
何か──何かないか。
瞬きの間で周囲を一瞥し、北嶽が座っていた長椅子にぽつんと捨て置かれた、一振りの剣を見つけた。
金の鍔に、鮮やかな紅の剣穂。黒を基調とした鞘にも精緻な黄金色の金具が取り付けられ、明らかに実践用の剣ではない。
恐らく装飾用の模造剣だろうが、贅沢は言っていられない。
夏楠は転がるようにして長椅子にたどり着くと、おもむろに鞘を掴み、剣を引き抜いた。
瞬間、そのあまりの馴染みの良さに眼を瞠った。
その剣は、まるで長年遣い続けた愛刀のようにしっくりと、夏楠の手中に収まった。
眼を向けると、見たこともない黒鉄の剣身がすらりと伸びている。不思議と薄っすら濡れたようにも見える刃は、触れた途端に指が落ちてしまいそうだ。
これは、模造剣などではない。
見た目に反して、かなりの業物である。
漆黒の剣に心奪われていた夏楠に『声』が聞こえたのは、その直後のことだった。




