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 厳しい、冬だった。

 西の黄砂こうさと双璧をなして、北の最果てとそこは呼ばれていた。

 白雪の絶えぬいただきと、深い漆黒の森。幽玄白色の雲がたゆたう山嶺に、彼女の里はある。


 ――北方玄州の果てに、死峰あり。

 ――かの山は、龍人の住まう地にあらず。


 かの山を知る者は皆、そう呼ぶ。

 何故なら、この山には名がない。

 地図のどこにも、載っていない。

 氷雪に閉ざされしその山は、獄法山とう。




「これは天麗公! 何故、このようなところへ?」


 外の様子をうかがおうと少し歩いたところで、夏楠カナン目敏めざと不寝番ふしんばんに見つかった。

 こっそり天幕から抜け出したのだが、やはり我が州の龍兵は優秀である。

 やれやれと思いながら、夏楠は不寝番の龍にたずねた。


「ここは死峰、獄法山だ。兵の様子が気になってな。どうだ、皆、大事ないかね?」

「それはもう! 寒さには万全を期しております。ですからどうか、公は天幕へお戻りを。お風邪でも召されては、あとで丞相じょうしょうに叱られてしまいます」


 だと思った。

 万事、極めて優秀な玄州の丞相は、やや心配性が過ぎるところが玉にきずだ。


「心配ない。孝燕コウエンには私から言っておこう。昨今、あいつはどうも口煩くてかなわんな。昔は可愛げがあったのだが、時間ときの流れは残酷だ」

〈誰のせいだ。誰の〉


 すかさずいている黒影が言ったが、ここは華麗に無視した。


「天麗公、丞相は建前です。本当に、我々は問題ございませんから。早くお戻りください。お身体からだが冷えます」

「お前、その気遣いは逆に傷付くぞ? 私とて玄州生まれだ、寒さには自信がある」


 獄法山とは言え、これだけ着込んで火の近くにいるのだ。それに夏楠は、真冬の玄州を薄着のままひと冬越え、風邪一つ引かなかった経験がある。

 ……まあ、二百年以上昔の話ではあるが。


「存じております、存じておりますとも。ですが、用心するに越したことはないでしょう、我が公」

〈引いてやれ、夏楠。兵が不憫ふびんだ。そして、お前は意地悪だ〉


 黒影にも言われてしまい、仕方なく引き下がることにした。

 確かに、孝燕にきつく言いつかったのであろう不寝番に罪はない。彼もそれが職務なのだ。


「わかった、わかった。だがくれぐれも、確認はおこたらぬように」

「御意にございます」


 不寝番の兵に追い立てられ、とぼとぼと帰路をたどる。

 日が暮れ、吸い込む大気は冷たいというより、少し痛い。視線を転じ、藍色に沈む森に点々と佇む、黒い甲冑の兵を見た。

 万全とは言うが、こんな極寒の夜に外の見張りは大変だろう。まめに交代するよう伝えてはいるが、それでも彼らの身を案じてしまう。


〈夏楠よ。今のお前は、雲翔を前にしたときの西嶽公と同じだぞ?〉

「白老師と? それはいかんな、悪いことをした。さぞかし皆は鬱陶うっとうしく、早く立ち去れ地平線の彼方かなたへ吹き飛べ老害、と思ったことだろう」

〈そこまでか。そこまでなのか〉


 黒影と軽口を叩き合いながら、天幕に入ろうとしたところで夏楠は足を止めた。


「黒影」

〈うむ。来たか〉


 ──龍討師だ。

 数はざっと、四、五十人といったところか。

 この数で、これほどまでに完璧な隠形は驚嘆に値するが、さすがに年の功で気づいた。


「囲まれたな。だが、思ったより数が少ない。もっと大人数かと──」


 言いかけたとき、視界のはしを、かすかな光が横切った。

 光の正体である飛刀ひとうを手に、一人の龍討師が疾駆する。

 ここからは距離があり、黒影は届かない。

 討師の足をしのぐ速さで、夏楠はふところから短刀を引き抜いた。


 龍討師の狙いは夏楠ではなく、近くにいる兵だ。

 彼は龍兵である。

 龍討師の一撃を受ければ即、命を落とす。

 狙われた龍兵はまだ若い。

 彼の練度では、まずさばけないだろう。


 龍討師は、殺意の感知に非常に特化した人種だ。

 殺気をより明確にするためにも、あえてくびを狙い、短刀を投げた。


 相手は龍討師だ。

 手足に短刀が刺さったくらいでは、彼女らは動きを止めない。

 最悪、当たっても即死はせぬように、投擲とうてきまとは少しずらす。

 しかしその心配も杞憂で、くだんの討師は器用に体転し、短刀をかわしてみせた。


 短刀は討師の外套を引っかけ、背後の木の幹に突き刺さる。

 刃が少しくびをかすったようだが、ほかは怪我もなく壮健だ。


 ──上手くかわしてくれて良かった。


 無駄な殺生は極力控えたい。

 内心感謝しつつ、夏楠は戦線に出て龍討師と向かい合う。

 討師の方は敵意を隠しもせず、剣呑な瞳でこちらを振り返った。


 雲間から月光が差し込み、周囲を照らす。

 暗さに慣れた眼では、ややまぶしささえ感じる。

 その光は、対峙した討師の白い容貌を鮮やかに浮かび上がらせた。


 その──顔立ち。

 紅玉を思わせるあかい瞳に、黒檀こくたんのような長い髪。

 ひと目でわかった。

 すぐに気がついた。

 胸が熱い。泣きそうだ。

 万感の思いとともに、白い吐息が漏れた。



 ああ──。

 ようやく、ようやくえた。

 私の夜明け、私の天黎てんれい──黎珠レイジュ





 あの、夜明けの空を思い出す。

 地平線まで続く、折り重なった雲の帯。

 藍から赤紫、薄紫、そして最後が黄金色おうごんいろ

 緩やかに色づく世界を、向けられた笑顔を、たがえようはずもない。

 あれは正真正銘、天麗とうたわれた彼の、彼だけの笑顔ものなのだから。

 そう、あなたは──あなたは、()()




 ──炎が舞い上がる。

 吹きつける熱風に逆らい、黎珠は食い入るように宙を見つめた。


「ごめんなさい、夏楠……」


 夏楠が去り、わずかに残された光の残滓ざんしに告げる。

 彼が、その生涯のほとんどを費やして為そうとしたことを、黎珠は否定した。

 字すら読めない、なんの後ろ盾もなかった青年が、あれほどまでに至るのに──いったい、どれだけの苦労があったことか。

 考えるだに、申し訳なさで胸が締め付けられた。


「げほッ……けほ……ッ」


 あぶられた眼球がひりつく。煙で呼吸いきが詰まる。

 激しく咳き込みながら、黎珠はひざを折った。


 まぶたの裏がいやに明るい。まるで大気が汚染されているようだ。すす臭く、息苦しく、そして恐ろしく熱い。近くで、何かがぜる音がする。

 ふわりと鼻先を過ぎる火の粉を追い、黎珠は頭を持ち上げた。


 ――あかい。ただ、ひたすらに。


 あおいだ空は、炎の天井におおわれていた。

 霊廟に似た、装飾のなされた広いへや。四方は火の海に囲まれ、明らかに生存を許すような環境ではない。まばゆいまでの世界は、地獄のような荘厳さに満ちていた。


 熱さよりも、息苦しさが先に立つ。

 これなら死ぬ前に、意識を失うだろう。

 我が身をき尽くす、炎の熱を感じることもなく。


 爆ぜる。

 眼を開けているのも辛くなり、黎珠は瞳を閉じた。

 その拍子に、ぼろりとまた涙がほおを伝った。


 ──悔いはない。だが、心残りはあった。


 未来に置いてきてしまった夏楠が、ただただ気がかりでならなかった。

 自分は最期の言葉一つ、残せぬままここへ来てしまった。

 彼のことが本当に心配で心配で、申し訳なくて。

 叶うことならば、最期に一度だけ。

 たった一度だけでいい。

 成長した夏楠に、いたかった。


「夏楠……」


 愛しい、その名を呟く。

 涙のようにこぼれ落ちた言葉は、無慈悲な炎の中へと消えた。

 これは、かなしい、恋の物語──。




































































「──黎珠……ッ」


 そう、呼ぶ声が聞こえた気がした。

 ──幻聴だろうか。


 黎珠は閉じていたまぶたを持ち上げ、ゆっくりと頭をもたげた。

 視線の先には、やはり揺らめく炎しか見えない。


 ──気の所為せいか。

 結論づけて眼を閉じようとしたとき、先ほどよりもはっきりとした声が耳に届いた。


「ごめんなさい、黎珠! なんにもしてあげられなくて、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 空耳ではない。

 誰かがいる。

 女性の声だ。


 黎珠は身を起こし、声のした方角を凝視した。

 炎と煙にまみれ、よく視えない、が──確かに『誰か』がいた。


「お前と一緒に、黎宝珠なんてつかうべきじゃなかった! 最初からお前を……お前だけを逃がすべきだった! なのに、黎珠……ごめんなさい……」


 いつの間に現れたのか。

 その『誰か』はひたすら謝罪を繰り返し、うずくまるように身を丸めていた。


 近寄ってみると、彼女は酷く場違いな衣装の女性であることがわかった。

 たっぷりと生地を取った長いすそ襖裙おうくんが、可憐かれんな一輪のはなのように床に広がっている。錦糸の刺繍が全面にほどこされた、見るからに高価たかそうな服だ。


 絢爛けんらんな衣装に対し彼女の黒髪は乱れ、結われもせずに背中に流れていたが、居住まいから高位の女性であろうことはうかがい知れた。


「黎珠……どこにいるの……黎珠…………」


 女性は顔を伏せ、涙で肩を震わせている。

 復唱されているのは、何度聞いても自分の名だ。

 黎珠は熱でぼんやりとした頭で、その呼びかけにこたえた。


「は、はい……」


 女性が、勢いよく黎珠を見上げた。

 あらわになった面には、涙と金の双眸そうぼうきらめいている。

 外見の齢は黎珠と同じくらいだろうか。

 不思議と、どこか見憶えのある顔立ちをした龍女だった。


「あなた……誰?」


 怪訝な顔で龍女が問いかける。

 それに戸惑いながらも、黎珠は名乗りを上げた。


「その……わたしは、黎珠です」


 我ながら間の抜けた返事だが、事実なのだからしょうがない。


「あなたが、黎珠……? ──まさかッ!」


 龍女はしばし、不審な顔を黎珠に向けていたが、途中で何かに気づいたように立ち上がった。駆けるようにして黎珠に腕を伸ばし、その頬を両手で包み込んだ。


「黎珠! こんなに大きくなって……ああ、お前の眼は、あの人にそっくりね」

「あの、あなたは……?」


 事態が呑み込めぬまま、泣きながら笑いかける龍女に問う。

 彼女は黎珠を見つめ、ゆっくりと唇に弧を描いた。


「──天命は、くつがえったわ」


 その言葉に黎珠が問い返す間もなく、しゃらりと金属音が鳴る。

 龍女はふところから黄金の頸飾くびかざりを出すと、それを黎珠のくびにかけた。

 つい先刻、夏楠に託した──黎宝珠の頸飾りだ。

 黎珠は瞠目し、龍女を見上げた。


「これは、黎宝珠。これをどこで……何故、わたしに?」

「お前にあげる」


 簡潔に言うと、龍女はいとおしげに黎珠の頬をさすった。


「いいこと? どんなに追い詰められても、黎宝珠を誰かとともにつかっては駄目よ。加護のない者は、一緒には飛べない。恐らく、どこか別の時軸に弾かれるのでしょう……お前のように」


 そう早口でいましめて、ふっと表情から力を抜く。

 不思議と懐かしさを感じる龍女は、たまらなく優しい微笑みで、黎珠に告げた。


「お行きなさい、黎珠。お前は──いいえ、お前()、幸せにおなりなさい」


 そこでようやく、黎珠は龍女の正体に思い至った。

 確信が波紋のように胸に広がる。

 黎珠を見つめる彼女の容貌は、水瓶みずがめに映った自分の顔と、よく似ていた。


「あ、あなたは──」

「黎宝珠よ!」


 凛とした龍女の声に反応し、ぶわりと黎宝珠から光があふれた。

 合わせて黎宝珠の、あの独特なが連続して鳴り響く。


 既視感のある光景に、どくりと心臓が跳ねた。

 これはつい先ほど、自分が夏楠に取った行動だ。

 黎珠は慌てて、眼前の龍女のそでに取りすがった。


「ま、待ってください。まだ……まだ、もう少しだけ――」

「行け。この子を待つ者のもとへと」


 毅然と命じる、龍女の姿が涙で歪む。

 彼女の服を掴んでいた手が、むなしく宙を切る。

 そこにいるのに、確かに視えているのに、触れられない。


「お──おかあさま‼」


 その叫びは、母に届いただろうか。

 視界が、真白い光に埋め尽くされる。

 床が抜け、どこまでも落ちてゆく感覚に身を委ねながら、黎珠は嗚咽おえつを漏らした。


 ──いた。

 自分にも、母がいた。

 最期に、命と引換えに、助けてくれた。


 涙のしずくが、流れるそばから上空へ落ちてゆく。

 永遠のような落下は前回同様、突如として終わりを迎えた。

 なんの脈絡もなく浮遊感が消え、出現した地面に背中が激突する。


「お母様……」


 全身に走る痛みも、今は気にならない。

 みっともなくしゃくりあげながら、黎珠はのろのろと上体を起こした。


 光でくらんだ眼に、徐々に視力が戻る。

 下は、硬い地面だ。

 土ではなく、石──石畳である。

 小さなうめき声を発し、黎珠はその場で立ち上がった。


 閑散とした、広場のような場所。

 ところどころ、野放図に雑草が生えている。

 一面に敷き詰められた、ひび割れ、褪色たいしょくした石畳。

 振り返った先には、朽ちた門をいただく大階段が、青い空へと伸びている。

 黎珠がその場所を特定するとほぼ同時に、階段の奥から立て続けに破裂音が響いた。


 銃声──()()、だ。

 どくどくと心臓が早鐘を打つ。

 考えるより先に、黎珠は一目散に階段を駆け上がっていた。


 息が上がる。

 身体が前へ進まない。

 気持ちばかりがく。

 期待と不安がない交ぜになってたける。


 無我夢中で、ままならない手足を必死で動かした。

 行かなければ、行かなければ。

 早く、早く。早く。早く。早く。早く。

 光のもとへ。

 わたしの夜明けのもとへと。

 早く、早く──早く。


「はッ、はあ……ッ、はあッ、はあ……ッ!」


 頂上に着き、古びた門をくぐる。

 その左右に、三本爪の龍の彫刻を通り過ぎて。

 走り抜け、そして──ついに黎珠は、『そこ』に至った。


「あ、あれ──はッ……」


 呼吸の間隙かんげきを縫い、黎珠は呟いた。

 銀糸の髪に、漆黒の外套がいとう。その、後ろ姿。

 彼のすそを掴む、流血した姐姐あねの姿。

 さらにその先に──崖から落ちる、()()()姿()


 瞬間、閃光が立ち上り、上空へと突き抜けた。


 あまりの光量に、思わず掌で両眼を覆う。

 まぶたの裏に感じる光がみ、眼を向けた先にあったのは、事切れた姐姐あねと──呆然とした様子で立ち尽くす、銀髪の彼の姿だった。


「か──な、ん……」


 夏楠だ。

 銀色の、銀髪の夏楠だ。

 つい先刻、地毛を見たら驚くぞ、笑っていた黒髪の彼を思い出す。

 あえぐように息を吸い込んでから、黎珠は、もつれる足で懸命に彼のもとに駆け寄った。


「夏楠ッ!」


 その声にびくりと肩を震わせ、夏楠が振り返る。

 黎珠は脇目も振らず、両手を広げて、その胸に飛び込んだ。




 かくして。

 のちに正史は、以下のごとく語る。

 黎正元年。黎公主改め、黎帝帰還す──と。




天黎之刻 完

ということで、龍遊戯伝<天黎之刻>、本編完結です!

このあとの投稿に、キャラクターコメンタリーや続編の次回予告などを予定していますので、よろしければそちらもお付き合いいただけると幸いです。

それでは、龍遊戯伝を最後までお読みいただき、ありがとうございました‼


ミヤマカエデ

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