65
厳しい、冬だった。
西の黄砂と双璧をなして、北の最果てとそこは呼ばれていた。
白雪の絶えぬ頂と、深い漆黒の森。幽玄白色の雲がたゆたう山嶺に、彼女の里はある。
――北方玄州の果てに、死峰あり。
――かの山は、龍人の住まう地にあらず。
かの山を知る者は皆、そう呼ぶ。
何故なら、この山には名がない。
地図のどこにも、載っていない。
氷雪に閉ざされしその山は、獄法山と云う。
「これは天麗公! 何故、このようなところへ?」
外の様子を窺おうと少し歩いたところで、夏楠は目敏い不寝番に見つかった。
こっそり天幕から抜け出したのだが、やはり我が州の龍兵は優秀である。
やれやれと思いながら、夏楠は不寝番の龍に訊ねた。
「ここは死峰、獄法山だ。兵の様子が気になってな。どうだ、皆、大事ないかね?」
「それはもう! 寒さには万全を期しております。ですからどうか、公は天幕へお戻りを。お風邪でも召されては、あとで丞相に叱られてしまいます」
だと思った。
万事、極めて優秀な玄州の丞相は、やや心配性が過ぎるところが玉に瑕だ。
「心配ない。孝燕には私から言っておこう。昨今、あいつはどうも口煩くてかなわんな。昔は可愛げがあったのだが、時間の流れは残酷だ」
〈誰のせいだ。誰の〉
すかさず佩いている黒影が言ったが、ここは華麗に無視した。
「天麗公、丞相は建前です。本当に、我々は問題ございませんから。早くお戻りください。お身体が冷えます」
「お前、その気遣いは逆に傷付くぞ? 私とて玄州生まれだ、寒さには自信がある」
獄法山とは言え、これだけ着込んで火の近くにいるのだ。それに夏楠は、真冬の玄州を薄着のままひと冬越え、風邪一つ引かなかった経験がある。
……まあ、二百年以上昔の話ではあるが。
「存じております、存じておりますとも。ですが、用心するに越したことはないでしょう、我が公」
〈引いてやれ、夏楠。兵が不憫だ。そして、お前は意地悪だ〉
黒影にも言われてしまい、仕方なく引き下がることにした。
確かに、孝燕にきつく言いつかったのであろう不寝番に罪はない。彼もそれが職務なのだ。
「わかった、わかった。だがくれぐれも、確認は怠らぬように」
「御意にございます」
不寝番の兵に追い立てられ、とぼとぼと帰路をたどる。
日が暮れ、吸い込む大気は冷たいというより、少し痛い。視線を転じ、藍色に沈む森に点々と佇む、黒い甲冑の兵を見た。
万全とは言うが、こんな極寒の夜に外の見張りは大変だろう。まめに交代するよう伝えてはいるが、それでも彼らの身を案じてしまう。
〈夏楠よ。今のお前は、雲翔を前にしたときの西嶽公と同じだぞ?〉
「白老師と? それはいかんな、悪いことをした。さぞかし皆は鬱陶しく、早く立ち去れ地平線の彼方へ吹き飛べ老害、と思ったことだろう」
〈そこまでか。そこまでなのか〉
黒影と軽口を叩き合いながら、天幕に入ろうとしたところで夏楠は足を止めた。
「黒影」
〈うむ。来たか〉
──龍討師だ。
数はざっと、四、五十人といったところか。
この数で、これほどまでに完璧な隠形は驚嘆に値するが、さすがに年の功で気づいた。
「囲まれたな。だが、思ったより数が少ない。もっと大人数かと──」
言いかけたとき、視界の端を、かすかな光が横切った。
光の正体である飛刀を手に、一人の龍討師が疾駆する。
ここからは距離があり、黒影は届かない。
討師の足を凌ぐ速さで、夏楠は懐から短刀を引き抜いた。
龍討師の狙いは夏楠ではなく、近くにいる兵だ。
彼は龍兵である。
龍討師の一撃を受ければ即、命を落とす。
狙われた龍兵はまだ若い。
彼の練度では、まず捌けないだろう。
龍討師は、殺意の感知に非常に特化した人種だ。
殺気をより明確にするためにも、あえて頸を狙い、短刀を投げた。
相手は龍討師だ。
手足に短刀が刺さったくらいでは、彼女らは動きを止めない。
最悪、当たっても即死はせぬように、投擲の的は少しずらす。
しかしその心配も杞憂で、件の討師は器用に体転し、短刀を躱してみせた。
短刀は討師の外套を引っかけ、背後の木の幹に突き刺さる。
刃が少し頸をかすったようだが、ほかは怪我もなく壮健だ。
──上手く躱してくれて良かった。
無駄な殺生は極力控えたい。
内心感謝しつつ、夏楠は戦線に出て龍討師と向かい合う。
討師の方は敵意を隠しもせず、剣呑な瞳でこちらを振り返った。
雲間から月光が差し込み、周囲を照らす。
暗さに慣れた眼では、やや眩しささえ感じる。
その光は、対峙した討師の白い容貌を鮮やかに浮かび上がらせた。
その──顔立ち。
紅玉を思わせる紅い瞳に、黒檀のような長い髪。
ひと目でわかった。
すぐに気がついた。
胸が熱い。泣きそうだ。
万感の思いとともに、白い吐息が漏れた。
ああ──。
ようやく、ようやく逢えた。
私の夜明け、私の天黎──黎珠。
*
あの、夜明けの空を思い出す。
地平線まで続く、折り重なった雲の帯。
藍から赤紫、薄紫、そして最後が黄金色。
緩やかに色づく世界を、向けられた笑顔を、違えようはずもない。
あれは正真正銘、天麗と謳われた彼の、彼だけの笑顔なのだから。
そう、あなたは──あなたは、夏楠。
──炎が舞い上がる。
吹きつける熱風に逆らい、黎珠は食い入るように宙を見つめた。
「ごめんなさい、夏楠……」
夏楠が去り、わずかに残された光の残滓に告げる。
彼が、その生涯のほとんどを費やして為そうとしたことを、黎珠は否定した。
字すら読めない、なんの後ろ盾もなかった青年が、あれほどまでに至るのに──いったい、どれだけの苦労があったことか。
考えるだに、申し訳なさで胸が締め付けられた。
「げほッ……けほ……ッ」
炙られた眼球がひりつく。煙で呼吸が詰まる。
激しく咳き込みながら、黎珠は膝を折った。
瞼の裏がいやに明るい。まるで大気が汚染されているようだ。煤臭く、息苦しく、そして恐ろしく熱い。近くで、何かが爆ぜる音がする。
ふわりと鼻先を過ぎる火の粉を追い、黎珠は頭を持ち上げた。
――朱い。ただ、ひたすらに。
仰いだ空は、炎の天井に覆われていた。
霊廟に似た、装飾のなされた広い室。四方は火の海に囲まれ、明らかに生存を許すような環境ではない。まばゆいまでの世界は、地獄のような荘厳さに満ちていた。
熱さよりも、息苦しさが先に立つ。
これなら死ぬ前に、意識を失うだろう。
我が身を灼き尽くす、炎の熱を感じることもなく。
爆ぜる。
眼を開けているのも辛くなり、黎珠は瞳を閉じた。
その拍子に、ぼろりとまた涙が頬を伝った。
──悔いはない。だが、心残りはあった。
未来に置いてきてしまった夏楠が、ただただ気がかりでならなかった。
自分は最期の言葉一つ、残せぬままここへ来てしまった。
彼のことが本当に心配で心配で、申し訳なくて。
叶うことならば、最期に一度だけ。
たった一度だけでいい。
成長した夏楠に、逢いたかった。
「夏楠……」
愛しい、その名を呟く。
涙のようにこぼれ落ちた言葉は、無慈悲な炎の中へと消えた。
これは、哀しい、恋の物語──。
「──黎珠……ッ」
そう、呼ぶ声が聞こえた気がした。
──幻聴だろうか。
黎珠は閉じていた瞼を持ち上げ、ゆっくりと頭をもたげた。
視線の先には、やはり揺らめく炎しか見えない。
──気の所為か。
結論づけて眼を閉じようとしたとき、先ほどよりもはっきりとした声が耳に届いた。
「ごめんなさい、黎珠! なんにもしてあげられなくて、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
空耳ではない。
誰かがいる。
女性の声だ。
黎珠は身を起こし、声のした方角を凝視した。
炎と煙にまみれ、よく視えない、が──確かに『誰か』がいた。
「お前と一緒に、黎宝珠なんて遣うべきじゃなかった! 最初からお前を……お前だけを逃がすべきだった! なのに、黎珠……ごめんなさい……」
いつの間に現れたのか。
その『誰か』はひたすら謝罪を繰り返し、うずくまるように身を丸めていた。
近寄ってみると、彼女は酷く場違いな衣装の女性であることがわかった。
たっぷりと生地を取った長い裾の襖裙が、可憐な一輪の華のように床に広がっている。錦糸の刺繍が全面に施された、見るからに高価そうな服だ。
絢爛な衣装に対し彼女の黒髪は乱れ、結われもせずに背中に流れていたが、居住まいから高位の女性であろうことはうかがい知れた。
「黎珠……どこにいるの……黎珠…………」
女性は顔を伏せ、涙で肩を震わせている。
復唱されているのは、何度聞いても自分の名だ。
黎珠は熱でぼんやりとした頭で、その呼びかけに応えた。
「は、はい……」
女性が、勢いよく黎珠を見上げた。
顕になった面には、涙と金の双眸が煌めいている。
外見の齢は黎珠と同じくらいだろうか。
不思議と、どこか見憶えのある顔立ちをした龍女だった。
「あなた……誰?」
怪訝な顔で龍女が問いかける。
それに戸惑いながらも、黎珠は名乗りを上げた。
「その……わたしは、黎珠です」
我ながら間の抜けた返事だが、事実なのだからしょうがない。
「あなたが、黎珠……? ──まさかッ!」
龍女はしばし、不審な顔を黎珠に向けていたが、途中で何かに気づいたように立ち上がった。駆けるようにして黎珠に腕を伸ばし、その頬を両手で包み込んだ。
「黎珠! こんなに大きくなって……ああ、お前の眼は、あの人にそっくりね」
「あの、あなたは……?」
事態が呑み込めぬまま、泣きながら笑いかける龍女に問う。
彼女は黎珠を見つめ、ゆっくりと唇に弧を描いた。
「──天命は、覆ったわ」
その言葉に黎珠が問い返す間もなく、しゃらりと金属音が鳴る。
龍女は懐から黄金の頸飾りを出すと、それを黎珠の頸にかけた。
つい先刻、夏楠に託した──黎宝珠の頸飾りだ。
黎珠は瞠目し、龍女を見上げた。
「これは、黎宝珠。これをどこで……何故、わたしに?」
「お前にあげる」
簡潔に言うと、龍女は愛おしげに黎珠の頬をさすった。
「いいこと? どんなに追い詰められても、黎宝珠を誰かとともに遣っては駄目よ。加護のない者は、一緒には飛べない。恐らく、どこか別の時軸に弾かれるのでしょう……お前のように」
そう早口で戒めて、ふっと表情から力を抜く。
不思議と懐かしさを感じる龍女は、堪らなく優しい微笑みで、黎珠に告げた。
「お行きなさい、黎珠。お前は──いいえ、お前も、幸せにおなりなさい」
そこでようやく、黎珠は龍女の正体に思い至った。
確信が波紋のように胸に広がる。
黎珠を見つめる彼女の容貌は、水瓶に映った自分の顔と、よく似ていた。
「あ、あなたは──」
「黎宝珠よ!」
凛とした龍女の声に反応し、ぶわりと黎宝珠から光があふれた。
合わせて黎宝珠の、あの独特な音が連続して鳴り響く。
既視感のある光景に、どくりと心臓が跳ねた。
これはつい先ほど、自分が夏楠に取った行動だ。
黎珠は慌てて、眼前の龍女の袖に取り縋った。
「ま、待ってください。まだ……まだ、もう少しだけ――」
「行け。この子を待つ者のもとへと」
毅然と命じる、龍女の姿が涙で歪む。
彼女の服を掴んでいた手が、虚しく宙を切る。
そこにいるのに、確かに視えているのに、触れられない。
「お──おかあさま‼」
その叫びは、母に届いただろうか。
視界が、真白い光に埋め尽くされる。
床が抜け、どこまでも落ちてゆく感覚に身を委ねながら、黎珠は嗚咽を漏らした。
──いた。
自分にも、母がいた。
最期に、命と引換えに、助けてくれた。
涙の雫が、流れるそばから上空へ落ちてゆく。
永遠のような落下は前回同様、突如として終わりを迎えた。
なんの脈絡もなく浮遊感が消え、出現した地面に背中が激突する。
「お母様……」
全身に走る痛みも、今は気にならない。
みっともなくしゃくりあげながら、黎珠はのろのろと上体を起こした。
光で眩んだ眼に、徐々に視力が戻る。
下は、硬い地面だ。
土ではなく、石──石畳である。
小さな呻き声を発し、黎珠はその場で立ち上がった。
閑散とした、広場のような場所。
ところどころ、野放図に雑草が生えている。
一面に敷き詰められた、ひび割れ、褪色した石畳。
振り返った先には、朽ちた門を戴く大階段が、青い空へと伸びている。
黎珠がその場所を特定するとほぼ同時に、階段の奥から立て続けに破裂音が響いた。
銃声──銃声、だ。
どくどくと心臓が早鐘を打つ。
考えるより先に、黎珠は一目散に階段を駆け上がっていた。
息が上がる。
身体が前へ進まない。
気持ちばかりが急く。
期待と不安がない交ぜになって猛る。
無我夢中で、ままならない手足を必死で動かした。
行かなければ、行かなければ。
早く、早く。早く。早く。早く。早く。
光のもとへ。
わたしの夜明けのもとへと。
早く、早く──早く。
「はッ、はあ……ッ、はあッ、はあ……ッ!」
頂上に着き、古びた門をくぐる。
その左右に、三本爪の龍の彫刻を通り過ぎて。
走り抜け、そして──ついに黎珠は、『そこ』に至った。
「あ、あれ──はッ……」
呼吸の間隙を縫い、黎珠は呟いた。
銀糸の髪に、漆黒の外套。その、後ろ姿。
彼の裾を掴む、流血した姐姐の姿。
さらにその先に──崖から落ちる、自分の姿。
瞬間、閃光が立ち上り、上空へと突き抜けた。
あまりの光量に、思わず掌で両眼を覆う。
瞼の裏に感じる光が止み、眼を向けた先にあったのは、事切れた姐姐と──呆然とした様子で立ち尽くす、銀髪の彼の姿だった。
「か──な、ん……」
夏楠だ。
銀色の、銀髪の夏楠だ。
つい先刻、地毛を見たら驚くぞ、笑っていた黒髪の彼を思い出す。
あえぐように息を吸い込んでから、黎珠は、もつれる足で懸命に彼のもとに駆け寄った。
「夏楠ッ!」
その声にびくりと肩を震わせ、夏楠が振り返る。
黎珠は脇目も振らず、両手を広げて、その胸に飛び込んだ。
かくして。
のちに正史は、以下の如く語る。
黎正元年。黎公主改め、黎帝帰還す──と。
天黎之刻 完
ということで、龍遊戯伝<天黎之刻>、本編完結です!
このあとの投稿に、キャラクターコメンタリーや続編の次回予告などを予定していますので、よろしければそちらもお付き合いいただけると幸いです。
それでは、龍遊戯伝を最後までお読みいただき、ありがとうございました‼
ミヤマカエデ




