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誰かと思い身構えていると、それは李だった。
ほっとして、肩の力が抜ける。
「李、ちょうど良かった。話が──」
言いかけて、夏楠は続く言葉を呑み込んだ。
入室した李は深く項垂れたまま、こちらを見ようとはせず、戸口で立ち尽くしている。明らかに様子がおかしい。
「どうした、李?」
夏楠が呼びかけたところで、耳の悪い李には聞こえない。うつむいているので、こちらの唇も読めないはずだ。
何事かと思いながら歩み寄り、その頭を起こしてやる。すると、そこには涙で赤く腫れた李の泣き顔があった。
「ご……ごめ……あい……」
かすれた声の発音で、上手く聞き取れない。
推考で一拍遅れて、「ごめんなさい」と言われたのだと気がついた。
「申……いわけ……あいま、えんでした。お……おく……」
謝られる理由がわからず、混乱している間も李は切々と言葉を紡いでゆく。
まずはそれを聞くため、夏楠は李のたどたどしい声に耳を傾けた。
「おくのせいで……おくが、つかあっ……つかまっあから、お、おええさんが……」
ぼくのせいで、ぼくが捕まったから、おねえさんが──。
その意味を理解したとき、目頭が再び熱くなった。
どう考えても、黎珠を死に追いやったのは自分だ。李は巻き込まれただけで、罪はない。なのにこの少年は、鳳炬に捕らえられたことを今日までずっと悔やんでいた。
自身の嘆きに酔い、今まで気づいてやれなかったことを恥じる。まるで自分だけが、この世の不幸を一身に背負ったように振る舞って──傲慢で、見苦しいことこの上ない。
黎珠と共に過ごした時間は、恐らく夏楠よりも李の方が長い。
失った哀しみは李とて同じか、それ以上なのだ。
「お前のせいじゃない」
それは偽りのない夏楠の本心だった。
だがそれでも、李は涙に濡れた声で否定した。
「ち、違います……ぼく、ぼくあ……」
「違う。あれは、おれの愚かさが招いたことだ。お前のせいじゃねぇよ」
夏楠の口元を読み、李は大きく頭を振る。
それはいつも物静かで、主張というものがごっそり欠如していた少年が、初めてまともに夏楠に見せた感情だった。
李は力強く、はっきりと、想いを振り絞るように語った。
「ほくあくさまは、愚かじゃらいです。ただ、つあ……つらくて、独いぼっちで、ずっと寂しあっただけですッ!」
──あなたは決して、独りではない。愛されているのですから。
李の叫びに、黎珠の声が重なった。
今になって、どうしようもなく取り返しのつかないこの状況に陥って、初めて理解が及んだ。どれほど彼女に救われていたか、どれほど彼女の言葉を取りこぼしていたかを悟る。
懺悔しようにも、すべてがあまりに遅すぎる気づきだった。
しかし、ならば、せめて。
今、ここで生きている李にだけは、声に出して伝えなければ。
「あ──ありがとう、李。でも、境遇は言い訳にできねぇよ。黎珠は、もっとつらかったはずだ。そうだろ?」
自分には、幼い頃に母に愛された記憶がある。貧しい暮らしではあったが、間違いなく幸せだったと断言できる過去があった。
だが黎珠には、それすら存在しなかったのだ。
「李、おれはもう逃げない。これからは正しく、この玄州の北嶽として生きる。今は何一つ満足にできねぇ北嶽だが、いつかは──あの西嶽ですら、必ず超えてみせる」
天下に轟く、北嶽となる。
そのためには、李の力が不可欠だ。
ただ救われるだけの身から、今度は救う側へと。
目の前で震えるこの小さな手は、決して離してはならないものだ。
「なあ、李。ずっと思ってたんだけどな。お前はずっと父親を嫌って、引きずって、悩んでただろ? でも、お前は父親とは違う。違うんだよ。だから何も引け目に思うな。顔を上げて、胸を張れ。……おれはさ、ずっと思ってたんだ」
そう、ずっと、もどかしく思っていた。
過剰に身を縮こませて、輝くような才を閉じ込めて──ただ背中を丸めて生きる李を、いつも勿体ないと思っていた。
そうさせる最大の原因は、彼の父である『浩燕』だ。
李には常に、浩燕の暗い影が付き纏っている。
それを解くには、どうすれば良いだろうか。
多分、黎珠なら──きっとこう言う。
「お前は、父親と同じ音のコウエンって名が嫌で、ずっと母方の姓を名乗ってたけどさ。でも、おれはお前の名前、結構気に入ってんだぜ?」
指の腹で涙を拭ってやりながら、夏楠は李に告げた。
「孝行の孝で、『孝燕』。いい名じゃねぇか」
「ほ……ほくあく、さま……ッ」
「孝燕、おれには学がねぇ。字もさっぱりだ。だからおれに、読み書きを教えてくれ。その代わり、おれは声を教えられる。お前はおれに字を教えて、おれはお前に、声を教えるんだ」
言い終えてから、おもむろに床に両手を突く。
そして額が付くまで深く、頭を下げた。
「頼む、孝燕。力を貸してくれ。おれには、お前の力が必要だ」
黎珠がいなくなり、もう自分には、黒影と孝燕しかいない。
この二名。たった二名しか。
祈るようなその懇願を、李は──孝燕は、ぼろぼろと泣きながら了承した。
「……はい」
「今の発音は完璧だ、孝燕」
「はい!」
今にも壊れそうな、痛々しい表情で。
それでも孝燕は、笑いながら力強く頷いた。
*
「……大丈夫でしょうか」
ふと立ち止まり、背後を見遣った息子を見て、双僖は回廊を進む足を止めた。
「何がだ、雲?」
「その……北嶽公の、気がふれてしまわないかと」
「まず、問題なかろう。あれはやはり天武の子だ、心が強い。千の弾劾、万の呪詛にすら耐えるだろうよ」
断言してから、しかし言葉に反して双僖は視線を落とした。
確かに、公主と再会するまでは、北嶽の心が折れることはないだろう。
このようなとき、あの鳳炬のように、龍の性が強力に作用することを双僖は知っている。良くも悪くも、龍の情念には凄まじいものがあるのだ。
問題は、そのあとである。
「むしろ私が心配なのは、『二百年後の方』だ。いったい、この世のどこまでが神の思惑で、どこからが我らの意思なのか──」
果たして、天はこの蛮行を赦すだろうか。
絶えず苦難をもたらし、我々を試そうとする、神は。
「仮に。仮にすべてが上手くいったとして。それまでに築かれた玄州は、根本から塗り替えられることとなる。その際、二百年後の彼奴は消えてしまうのだろうか。過去という名の、前提が崩れた結果は?」
〈あるいは、歴史が覆る、か……〉
白亜の呟きを聞き、双僖はゆっくりと金の瞳を閉じた。
「そのようなことが、可能なのだろうか。天命に逆らい、神の裏をかくような真似が……」
「あの、父上?」
雲翔の呼びかけに瞼を持ち上げると、双僖は表情をすげ替えて破顔した。
「すまん、壮大な独り言だ。ちゃんと自覚してるから、聞き流してくれ」
「はあ、それなら良いのですが。……父上」
「うん?」
雲翔を見上げると、聡明な息子は少し考える素振りを見せてから、ひたと双僖を見据えた。
「私には、詳しいことはわかりかねます。ですが、北嶽公が悲劇に屈しないと言うのなら、我らも信じるべきではないでしょうか。その心を」
「ああ、やはり私の子は天才だ! わからずとも、物事の核心を突いている!」
雲翔は昔から、そういう子だ。
改めて賢い我が子を誇らしく思っていると、当の息子は溜息混じりで目線を明後日の方向に飛ばした。
「ああ、また」
〈始まったのぉ、親莫迦発作が〉
白亜も何やら言っているが、そんなものは黙殺する。
親莫迦であろうがなんだろうが、雲翔が正しいことに変わりはないのだから。
「お前の言う通りだ、雲。信じよう。絶望にうつむいていては、変わるものも変わらない。嘆きに、歩みを止めてはならない。すべては、そこからだ」
仰いだ空は、どこまでも青く鮮やかに澄み渡っている。
この青空のように、若き北嶽のゆく苦難の道程が、光と幸多からんことを。
「これからの北嶽を、よく見ておきなさい、雲翔。玄州は変わるぞ──劇的にな」
予言はその後、わずか五十年を待たずに現実のものとなる。
それは双僖も、当の天麗ですら、まだ知る由もないことだった。




