表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/81

64

 誰かと思い身構えていると、それは李だった。

 ほっとして、肩の力が抜ける。


「李、ちょうど良かった。話が──」


 言いかけて、夏楠は続く言葉を呑み込んだ。

 入室した李は深く項垂れたまま、こちらを見ようとはせず、戸口で立ち尽くしている。明らかに様子がおかしい。


「どうした、李?」


 夏楠が呼びかけたところで、耳の悪い李には聞こえない。うつむいているので、こちらの唇も読めないはずだ。

 何事かと思いながら歩み寄り、その頭を起こしてやる。すると、そこには涙で赤く腫れた李の泣き顔があった。


「ご……ごめ……あい……」


 かすれた声の発音で、上手く聞き取れない。

 推考で一拍遅れて、「ごめんなさい」と言われたのだと気がついた。


「申……いわけ……あいま、えんでした。お……おく……」


 謝られる理由がわからず、混乱している間も李は切々と言葉をつむいでゆく。

 まずはそれを聞くため、夏楠は李のたどたどしい声に耳を傾けた。


「おくのせいで……おくが、つかあっ……つかまっあから、お、おええさんが……」


 ぼくのせいで、ぼくがつかまったから、おねえさんが──。


 その意味を理解したとき、目頭が再び熱くなった。

 どう考えても、黎珠を死に追いやったのは自分だ。李は巻き込まれただけで、罪はない。なのにこの少年は、鳳炬に捕らえられたことを今日こんにちまでずっとやんでいた。


 自身の嘆きにい、今まで気づいてやれなかったことを恥じる。まるで自分だけが、この世の不幸を一身に背負ったように振る舞って──傲慢で、見苦しいことこの上ない。


 黎珠と共に過ごした時間は、恐らく夏楠よりも李の方が長い。

 失ったかなしみは李とて同じか、それ以上なのだ。


「お前のせいじゃない」


 それは偽りのない夏楠の本心だった。

 だがそれでも、李は涙にれた声で否定した。


「ち、ちあいます……ぼく、ぼくあ……」

「違う。あれは、おれの愚かさが招いたことだ。お前のせいじゃねぇよ」


 夏楠の口元を読み、李は大きくかぶりを振る。

 それはいつも物静かで、主張というものがごっそり欠如していた少年が、初めてまともに夏楠に見せた感情だった。

 李は力強く、はっきりと、想いを振り絞るように語った。


「ほくあくさまは、おおかじゃらいです。ただ、つあ……つらくて、ひといぼっちで、ずっと寂しあっただけですッ!」


 ──あなたは決して、ひとりではない。愛されているのですから。


 李の叫びに、黎珠の声が重なった。

 今になって、どうしようもなく取り返しのつかないこの状況におちいって、初めて理解が及んだ。どれほど彼女に救われていたか、どれほど彼女の言葉を取りこぼしていたかを悟る。

 懺悔ざんげしようにも、すべてがあまりに遅すぎる気づきだった。


 しかし、ならば、せめて。

 今、ここで生きている李にだけは、声に出して伝えなければ。


「あ──ありがとう、李。でも、境遇は言い訳にできねぇよ。黎珠は、もっとつらかったはずだ。そうだろ?」


 自分には、幼い頃に母に愛された記憶がある。貧しい暮らしではあったが、間違いなく幸せだったと断言できる過去があった。

 だが黎珠には、それすら存在しなかったのだ。


「李、おれはもう逃げない。これからは正しく、この玄州の北嶽として生きる。今は何一つ満足にできねぇ北嶽だが、いつかは──あの西嶽ですら、必ず超えてみせる」


 天下にとどろく、北嶽となる。

 そのためには、李の力が不可欠だ。

 ただ救われるだけの身から、今度は救う側へと。

 目の前で震えるこの小さな手は、決して離してはならないものだ。


「なあ、李。ずっと思ってたんだけどな。お前はずっと父親を嫌って、引きずって、悩んでただろ? でも、お前は父親とは違う。違うんだよ。だから何も引け目に思うな。顔を上げて、胸を張れ。……おれはさ、ずっと思ってたんだ」


 そう、ずっと、もどかしく思っていた。

 過剰に身を縮こませて、輝くような才を閉じ込めて──ただ背中を丸めて生きる李を、いつも勿体もったいないと思っていた。


 そうさせる最大の原因は、彼の父である『浩燕コウエン』だ。

 李には常に、浩燕コウエンの暗い影が付きまとっている。

 それを解くには、どうすれば良いだろうか。

 多分、黎珠なら──きっとこう言う。


「お前は、父親と同じおんのコウエンって名がいやで、ずっと母方の姓を名乗ってたけどさ。でも、おれはお前の名前、結構気に入ってんだぜ?」


 指の腹で涙をぬぐってやりながら、夏楠は李に告げた。


孝行こうこうの孝で、『孝燕コウエン』。いい名じゃねぇか」

「ほ……ほくあく、さま……ッ」

「孝燕、おれには学がねぇ。字もさっぱりだ。だからおれに、読み書きを教えてくれ。その代わり、おれは声を教えられる。お前はおれに字を教えて、おれはお前に、声を教えるんだ」


 言い終えてから、おもむろに床に両手を突く。

 そしてひたいが付くまで深く、頭を下げた。


「頼む、孝燕。力を貸してくれ。おれには、お前の力が必要だ」


 黎珠がいなくなり、もう自分には、黒影と孝燕しかいない。

 この二名。たった二名しか。

 祈るようなその懇願を、李は──孝燕は、ぼろぼろと泣きながら了承した。


「……はい」

「今の発音は完璧だ、孝燕」

「はい!」


 今にも壊れそうな、痛々しい表情かおで。

 それでも孝燕は、笑いながら力強く頷いた。





「……大丈夫でしょうか」


 ふと立ち止まり、背後を見遣みやった息子を見て、双僖ソウキは回廊を進む足を止めた。


「何がだ、雲?」

「その……北嶽公の、気がふれてしまわないかと」

「まず、問題なかろう。あれはやはり天武の子だ、しんが強い。千の弾劾だんがい、万の呪詛にすら耐えるだろうよ」


 断言してから、しかし言葉に反して双僖は視線を落とした。

 確かに、公主と再会するまでは、北嶽の心が折れることはないだろう。

 このようなとき、あの鳳炬のように、龍のさがが強力に作用することを双僖は知っている。良くも悪くも、龍の情念には凄まじいものがあるのだ。

 問題は、そのあとである。


「むしろ私が心配なのは、『二百年後の方』だ。いったい、この世のどこまでが神の思惑で、どこからが我らの意思なのか──」


 果たして、天はこの蛮行をゆるすだろうか。

 絶えず苦難をもたらし、我々を試そうとする、神は。


「仮に。仮にすべてが上手くいったとして。それまでに築かれた玄州は、根本から塗り替えられることとなる。その際、二百年後の彼奴あやつは消えてしまうのだろうか。過去という名の、前提が崩れた結果は?」

〈あるいは、歴史がくつがえる、か……〉


 白亜の呟きを聞き、双僖はゆっくりと金の瞳を閉じた。


「そのようなことが、可能なのだろうか。天命に逆らい、神の裏をかくような真似が……」

「あの、父上?」


 雲翔の呼びかけにまぶたを持ち上げると、双僖は表情をすげ替えて破顔した。


「すまん、壮大な独り言だ。ちゃんと自覚してるから、聞き流してくれ」

「はあ、それなら良いのですが。……父上」

「うん?」


 雲翔を見上げると、聡明な息子は少し考える素振りを見せてから、ひたと双僖を見据えた。


「私には、詳しいことはわかりかねます。ですが、北嶽公が悲劇に屈しないと言うのなら、我らも信じるべきではないでしょうか。その心を」

「ああ、やはり私の子は天才だ! わからずとも、物事の核心を突いている!」


 雲翔は昔から、そういう子だ。

 改めて賢い我が子を誇らしく思っていると、当の息子は溜息混じりで目線を明後日あさっての方向に飛ばした。


「ああ、また」

〈始まったのぉ、親莫迦おやばか発作が〉


 白亜も何やら言っているが、そんなものは黙殺する。

 親莫迦おやばかであろうがなんだろうが、雲翔が正しいことに変わりはないのだから。


「お前の言う通りだ、雲。信じよう。絶望にうつむいていては、変わるものも変わらない。なげきに、歩みを止めてはならない。すべては、そこからだ」


 仰いだ空は、どこまでも青く鮮やかに澄み渡っている。

 この青空のように、若き北嶽のゆく苦難の道程みちが、光とさち多からんことを。


「これからの北嶽を、よく見ておきなさい、雲翔。玄州は変わるぞ──劇的にな」


 予言はその後、わずか五十年を待たずに現実のものとなる。

 それは双僖も、当の天麗てんれいですら、まだ知る由もないことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ