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「桃だよ。……たま、死んじゃったんだってね。かわいそう」
言葉とは裏腹に、軽い口調で桃は言う。
たま、というのは黎珠のことだろう。この女は黎珠と懇意にしていたはずだが、随分と淡白な物言いだ。薄情な奴だと内心思ったが、それを口にするだけの気力は残っていなかった。
「だから桃、お前から離れるように言ったのに……やっぱり、こうなっちゃった」
「離れるよう、言った……?」
自問のような問いかけがこぼれ落ちた。
この女は、事前に黎珠に警告していたらしい。
桃は夏楠を無表情で眺め、抑揚のない声で淡々と答えた。
「うん。言った」
「それで……黎珠は、なんて言ったんだ?」
「できないって、言ってた」
何故だ、と夏楠が訊ねる前に、桃は次の言葉を口にした。
「お前のことが好きだから、無理なんだって」
ひゅう、と咽喉が壊れたような息が漏れた。
そのままぶっ壊れて、即座に絶命してしまえばいい。
そう思いながらも、口から出たのは、まったく別の問いだった。
「……お前、おれのこと嫌いなんだろ? なんで、こんなとこにいんだよ」
「うん、きらいだよ。でも、公にお前をまもれって言われたの。たまのかわりに。……これからお前は、今よりずっと危険になるからって」
「いらねぇよ。帰れ」
「無理。約束だから」
その応答には、今までの会話にない強さが込められていた。
桃の言う『約束』に、確信に近い予感が胸をよぎる。
半眼で夏楠を見つめながら、桃は言った。
「桃だって、お前なんか、ほんとはどうでもいい。でも……たまと死ぬ前にした、最後の約束だから」
「約束……」
「『何かあったときは、北嶽をたすけて』って。だから、桃が生きてる間は、たすけてあげる。……桃が死んだあとは、自分でなんとかして」
突き放すように言って、桃は肩越しに窓の外を振り返り、晴れた空を見上げた。
四角く切り取られた窓枠の中に、前日の大雨が嘘のような青空が広がっている。そよ風に髪を揺らしながら、桃は眼を細めて頭上の陽を仰いだ。
「……桃、もう一度たまと、お話ししたかったな。……だから、お前がうらやましい」
「羨ましい? おれが?」
「だってお前は、あえるじゃない。がんばったら、死ぬ前のたまとあって、また、おしゃべりできるんでしょ? 桃はがんばっても……もう二度と、たまとあえないもん」
それで、ようやく気づいた。
自分が、これ以上ないほど、とても恵まれているということに。
桃にはもう、黎珠と逢う機会は万に一つもない。だが、自分には──どれほど困難であろうとも、可能性が残されているのだ。
いや、それはむしろ、確約と言っていい。条件さえ満たせば、確実に再会できることはわかっている。自分には努力しだいで、再び黎珠と逢う未来が約束されているのだ。
「死ぬ前の、黎珠と──逢える……」
逢える。もう一度。
逢って、喋れる。死ぬ前の黎珠と。
あのとき黎珠は、天命には抗えないと言った。
ならば──ならば、己がそれを成せば良いではないか。
受け入れるのは、一つの答えかもしれない。
だが別の道を模索することとて、間違いではないはずだ。
──黎珠の亡骸と引き換えの平和なんて、糞喰らえだ。
この理不尽を、赦してはいけない。
誰もが幸福に生きる世が、陳腐なまやかしであることは知っている。
そんなもの、独りよがりな幻想だ。身をもって、嫌というほど理解している。
だが、まやかしだからと言って。
幻想だからと言って、諦める道理がどこにある?
諦めては、いけない。
天命に屈してはならない。
それがどれほど困難で、過酷な選択だったとしても。
奇跡のような明日を、未来を信じることを、やめてはいけない。
──変えるのだ。すべてを変えるのだ。
──何故なら彼女は、その『いまだ見ぬ先』で生きているのだから。
「ああ、そうか……おれ、死なねぇと」
取るべき道が定まり、我知らず呟く。
すると、弾かれたように黒影が制止の声を上げた。
〈な、何を血迷ったことを! 莫迦なことを考えるな!〉
「そんなことしたら、たまの命が無駄になる」
続けて冷ややかな視線を送る桃に、夏楠は薄く笑ってみせた。
「安心しろ、命を絶つとは言ってない」
黎珠が命がけで救った命だ。
天地がひっくり返っても、そんなことできるわけがない。
抹殺すべきは命ではなく、自分──自分という『個』である。
「今までのおれを、『夏楠』を殺すだけだ。こんな莫迦、この世にいらない。存在が悪だ。おれは、おれではない、正しい北嶽──天麗公で、あるべきだ」
〈夏楠……〉
そうだ。負け犬は負け犬らしく、神様に従ってやる。
それでもう一度、黎珠に逢えるなら本望だ。
喜んで『夏楠』を葬ってやろう。
「完璧な、非の打ち所のない天麗公。この玄州を治めるに足る北嶽になって、昔のように──いや昔以上に、玄州を蘇らせてやる」
要望通り、神の思惑に乗ってやる。
だが、忘れるな。
おれは決して、黎珠を譲らない。
貴様の天命通りにはさせない。
天命なぞ――。
「天命なんぞ、このおれが覆してやる……ッ!」
〈ああ、そうだ。そうだとも! 強き意志を前に、切り開けぬ未来などない!〉
力強く、黒影が背中を押す。
後押しを受けて、四肢を奮い立たせる。
そして窓辺の桃に歩み寄ると、正面から向き直った。
「ありがとな、桃。これから、よろしく頼む」
そう言うと、桃は無表情を崩して瞳を丸くした。
しばしの間、ぱちぱちと眼を瞬かせていた桃だが、やがてゆっくりと口端を持ち上げて言った。
「いいよ。よろしく頼まれてあげる」
鉄面皮のように思えたこの女も、こんなふうに笑うことがあるのだ。
きっと黎珠に対しては、いつもこんな顔だったのだろう。
感慨深く思っていると、何かに気づいた桃が素早く扉に眼を移し、その場で立ち上がった。
「……だれか、こっちくるみたい。桃は下がってるね」
言うやいなや、桃は大きく後ろに跳び、音もなく姿を消した。
さすがは龍討師だ。暗殺者顔負けの軽業である。
夏楠は桃のいた窓から視線を外すと、座卓の黒影を手に取り、腰に帯びた。
黒影は肌身離さず、と黎珠に何度も注意されている。何かがあったとき、頼りになるのは黒影だと。
「黒影も、頼む。これからもおれに、小煩い説教を垂れてくれ」
驚くほど素直な気持ちが、するりと出た。
黒影は朗らかにそれを了承し、こう告げた。
〈心得た。だが夏楠、一つ約束してはくれんか?〉
「なんだ?」
〈二百年後、無事、黎珠殿にお逢いできたならば。そのときは『夏楠』に戻れ〉
それは、俄に同意できない要望だ。
即答できずに口を噤んでいると、黒影はさらに言葉を重ねた。
〈黎珠殿は『夏楠』を好いていた。その日が来たならば、『夏楠』を赦してやれ。それくらい、罰は当たらんだろう〉
「……わかった。でも今度は、黎珠にうんと優しくする。あーでも、度が過ぎてまたあいつに好かれるのはまずいな」
そうなると、再び同じ歴史をたどる可能性が高い。
天命を覆すためには、黎珠が情に流されない程度に嫌われる必要がある。あるいは、そのときこそ己の命を絶つべきだろう。早々に夏楠が消えれば、黎珠も命と引換えに助けようなどとは考えないはずだ。どうせ、その頃には余命もたいして残っていない。
つらつらと考えていると、それを断ち切るように黒影が割って入った。
〈お前が、過去へ行かせねば良いだけの話だ。黎宝珠さえお前が手放さず所持し続ければ、黎珠殿は助かる〉
「でも万一のとき、またおれを救ってもらっちゃ困るからな。ほどほどに意地悪して、ほどほどに嫌われねぇと。難しいな……二百年かけて考えとくか」
〈夏楠……〉
囁くように黒影が名を呼んだ直後、室の扉が静かに動いた。
桃の言っていた来訪者だろう。
誰かと思い身構えていると、それは李だった。




