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 ざあざあと、鬱陶しい雨が降っている。

 その翌日の天候は、一転してどしゃぶりの大雨だった。


 雨粒が間断なく玻璃ガラスを叩く音を聞きながら、叩頭こうとうする龍官に視線を落とす。放たれる怒気でおびえきったその男に、夏楠カナン抑揚よくようなく問い返した。


屍体したいがあがった、だと?」


 はい、とかすれた声で龍官は答える。


いくつだ」


 龍官は沈黙する。

 夏楠は再度、男にたずねた。


「言え。殺すぞ。何名の死体があがった」


 ──二名です。両名とも、女性です。


「片方は鳳炬だな?」


 ──はい。


「もう片方は?」


 問いに、またもや龍官は答えない。


「誰だ、言え」


 それでも、龍官は答えない。

 がたがたと身体からだを震わせ、どうかご容赦を──と涙を流してうずくまる。


 夏楠はそれを無表情で一瞥いちべつし、唐突に立ち上がった。

 突っ立ったまま、ぼろぼろと涙を流す李を横切り、回廊へ出る。

 黒影が控えめに、へやに引き返すようすすめてきたが、もちろん無視した。


 目的の場所の目星は、だいたい付いている。

 途中、何度も官吏とすれ違ったが、皆一様に顔色を変えると、飛び退すさるように道をけた。

 唯一の例外は、偶然居合わせた、雲翔だけだ。


 ──いけません! 北嶽様‼


 こちらに気づくなり、雲翔は眼をいて進路を妨害した。

 どけ、といくら命じてもいっこうに譲らない。

 しまいには北嶽の権限で龍兵に命じ、取り押さえさせた。

 それでも雲翔は引き下がらず、しつこく夏楠のあとを追って来た。


 ──お気持ちはお察しいたします!

 ──ですが、ご遺体はお顔の一部が炭化せず、通常の肌で……。

 ──私も拝見しましたが、あの、お顔立ちは……。


 雲翔の訴えが、断片的に伝わってくる。

 まるで夢のような、ひどく現実味の薄れた空間を、それでも足を止めずに歩き続けた。耳障りな雨音を聞きながら、どこかふわふわとした足取りで、機械的に前進する。


 ぱくぱくと口を開け締めする雲翔を視界のすみえ、ただ歩いた。

 奥歯を噛み、ひたすらに歩く。


 その屍体したいは、雲翔の見間違いかもしれない。

 たまたま通りかかった、女官かもしれない。

 理由も、可能性も、いくらだって考えられる。


 ──北嶽様! 北嶽様ッ‼


 回廊を曲がると、そのへやの前には龍兵が立っていた。

 気にせず、おもむろに扉に手をかける。

 薄く、すすの匂いが鼻をかすめた。


 ──ご覧になってはいけません、北嶽様‼


 違う。

 黎珠じゃない。

 黎珠のはずがない。

 どうせ焼け焦げて、判断がつかなかったんだろう。


 黎珠じゃない。

 黎珠のはずがない。

 おれが見ればわかる。

 あいつは、こんなところで死んでいい奴じゃない。


 ──北嶽様ッ‼


 ひときわ大きな雲翔の声を黙殺し、扉を開ける。

 薄暗い室内に、『それ』は安置されていた。

 この屍体したいは、黎珠じゃない。

 黎珠、では──。







 前触れもなく西嶽が訪れたのは、さらにその翌日のことだった。


「北嶽、私だ。入るぞ」


 そうして返事も聞かずへやに入るなり、西嶽はそでで口元を覆い、顔をしかめた。


「酒か。……よくもまあ、一日でこれだけ飲み干したものだ」


 床に無数に転がる酒瓶を避けつつ、素知らぬ顔で近寄ってくる。途中、西嶽は酒の間にまぎれていた黒影を拾い上げると、何も言わずに座卓の上に置いた。


 それきり、西嶽は何も言わない。

 我ながら、北嶽にあるまじき醜態を晒しているという自覚があるが、普段真っ先に己をいさめる黒影も、西嶽も、夏楠をとがめる気配はなかった。


〈西嶽公……〉


 小さな黒影の呼びかけに、西嶽は穏やかな笑みのみで応じた。


「なんだ、西嶽」


 座椅子から上体を起こし、非難を込めて問いかける。

 それに、西嶽は極めて簡潔に答えた。


「話がある」

「あとにしろ。今は聞きたくない」

「そうはいかん。私は明日、玄州を発つ。白州へ戻らねばならんのだ」

「なら、さっさと帰りゃいいだろ」

「断じてできん。私には、公主様との約定がある」


 この古狸ふるだぬきは、折衝せっしょうというものを良く心得ている。その魂胆こんたんをわかっていても、『公主様』という単語一つで、夏楠は西嶽をあしらえなくなった。


「……なんだって?」

「公主様との約定だ。お亡くなりになる前に、私に託された」


 亡くなる、という直接的なその表現は、思った以上に心にこたえた。

 思えば、面と向かってまともに聞いたのは、これが最初だ。


 あえて言葉を選び、強制的に会話を続けさせる西嶽を恨めしく思いながら、それでも夏楠はき返した。


「黎珠が言ったんだな?」

「そうだ」

「なら聞いてやる。黎珠はなんて言った?」


 すると、自分から切り出したにもかかわらず、西嶽は突然黙り込んだ。

 この期に及んで、嫌がらせでもする気なのだろうか。


「なんだよ、さっさと言え。お前が言い出したことだろ」


 先をうながすと、西嶽は痛ましいものを見るような双眸そうぼうを夏楠に向けた。

 嫌になるほど、その表情かおは昨日の雲翔と酷似している。

 だから余計に、鬱憤うっぷんは心に降り積もった。


「心して聞け、北嶽。私はお前に、これ以上ない残酷な真実を告げねばならん」

「御託はいい、早く言え。もう、何を言われたって驚きゃしねぇよ」


 そうだ、断言できる。

 これ以上傷つくことなど、決してない。

 その気構えがあったからこそ、次に西嶽が発したげんは、夏楠を酷く拍子抜けさせるものだった。


「北嶽、来年の元号が決まったよ」

「は?」

〈西嶽公?〉


 脈絡のない発言には、座卓の黒影も疑問をていした。

 黎珠の遺言の話で、何故、元号が出てくるのか意味がわからない。

 しかし、西嶽は構わずにその話を継続した。


黎峯レイホウ様の安否がわからず、ずっと後回しになっていただろう? それがようやく、定まったそうだ。明くる年の元号は、黄無おうむ主上しゅじょう()き、黄無おうむ元年だ」

「元号なんかどうでもいい。おれは黎珠の――」

「公主様は、私におっしゃった」


 先をく夏楠を強い語調でさえぎり、西嶽は告げた。


「自分は、『黄無おうむ二百年から来た』と」

「──────……は?」


 何を言っているのかわからず、ほうけた声しか出てこない。

 それでも西嶽は根気強く、ゆっくりと言葉を区切るようにして語った。


黄無おうむ二百年だ。二百年後の世から、公主様はこの時代にいらした。この意味がわかるか、北嶽? 公主様のおっしゃっていたことを、憶えているか?」

〈な……〉


 いち早く内容を理解したらしい黒影が、かすれた声を漏らす。

 だが、こちらはまだ頭が追いつかない。

 それを見越したように、西嶽は直截な表現で、夏楠に核心を突きつけた。


「獄法山で囚われていた公主様を救い、介抱し、知識を与え、惜しみなくいつくしんだ相手は、北嶽──『お前』だ」

「な……なに、莫迦ばかなこと言って――」

「正確に言えば」


 鋭く語尾を奪い、西嶽は重ねて言った。


「正確には、『二百年後のお前』だ」

「に──ひゃく、ねん?」


 芸もなく繰り返すと、西嶽のたずさえる白亜の鏡がこう付け加えた。


〈これより二百年ののち、北嶽、そなたはもう一度、公主様とお逢いする。ただし、公主様にとっては初見だがの〉

「もう一度逢う? 初見? なんだよ、それ……」


 言いつつも、頭はゆっくりと状況を理解し始めている。

 口先で否定したのは、その事実があまりにも受け入れがたいものだったからにほかならない。

 西嶽は眉を寄せ、強い憐憫れんびんを見せながらも、話すことをやめなかった。


「それが天宝貝てんほうばい能力ちからなのだ。いいか、北嶽。黎宝珠の真の力は、四嶽の罷免などではない。『ときける能力』だ。公主様は本来、この時代の方ではない。あの御方の生きる世界は、今から二百年後の世にある」


 黎珠は二百年後──黄無おうむ二百年から、この時代にやってきた。

 黎宝珠の頸飾くびかざりの能力ちからによって。


〈これより二百年後、公主様はそなたと初めて対面し、龍討師の呪縛から開放された。その後、予期せぬなんらかの事情により、公主様はわしらのおる二百年前の世にいらしてしまったのじゃ〉


 西嶽から引き継ぎ、白亜が語る。

 そしてまたそれを、西嶽がいで言った。


「公主様は、世知にうとい。ゆえに、ここが二百年も昔の玄州であることに、つい先日まで気が付かなかったそうだ」

「嘘だ!」


 反射的に、否定が口をついて出た。

 ない。それは断じて、あり得ない。


「だって、あいつ言ってただろ⁉ その偽野郎にせやろうは、おれなんかと全然違って――」


 西嶽は忘れたのだろうか。

 その男について、黎珠がなんと言っていたか。

 夏楠の言わんとしたことを西嶽は正確に汲み、正確に暗唱してみせた。


「聡明で思慮深く、礼に厚い。所作は優雅で美しく、万民に愛され──その治世、天下に並びなしと」

〈二百年後、そうなるのであろうよ〉


 白亜が続けざまに言うが、それでもまだ信じられない。

 仮にそうだとして、ならば何故、黎珠はそれを放置したのだ。


「だったら……だったらなんで、あいつはおれを助けたりしたんだよ⁉」


 事前にわかっていたなら、避けられたはずだ。

 斜陽宮から逃げ出すでも、西嶽のもとに身を寄せるでもいい。

 いくらでも、簡単に結末は変えられたはずだ。


「西嶽、お前知ってるだろ⁉ おれが今まで黎珠に何したか、なんて言ってたか、わかってるよな⁉ 二百年後、おれがどんだけ優しくしたって、この時代でおれがしたことは消えねぇだろうが! おれは最初──本気であいつを殺そうとして、めんと向かって死ねとまで言ったんだぞッ⁉」


 そう、死ねと言った。本気で言った。

 あのとき黎珠が浮かべた顔は、今でも鮮明に憶えている。

 これ以上ないほどぞんざいに、心を床に叩きつけられて、粉々に砕かれたような──そんな、泣き腫らした顔をしていた。

 だがそれでも生きたいと、死にたくはないと、黎珠は確かに言っていたのだ。


「黎珠は、自分が死ぬこと知ってたんだよな⁉ それを、二百年後のおれは教えたんだろ⁉ おれなら絶対言う! だったら黎珠は、それを変えることだってできたはずだ! なのになんで、なんであいつは──」


 ──ごめんなさい、夏楠。わたし……あらがえません。


 唐突に、あのときの光景が思い起こされた。

 ()()()()

 だからあいつは、黎珠は、謝ったのだ。

 自分を見捨てられず、天命にはあらがえないと──そう、謝ったのだ。

 動きを止めた夏楠を、西嶽はあわれみを含んだ眼で見つめ、ぽつりと呟いた。


「そうか、北嶽。お前は、わからなかったのか……」


 瞳を伏せ、それきり西嶽は口をつぐむ。

 代わって白亜が、公主様は──と語り始めた。


〈公主様は幼少期より、龍討師として育てられた。名もなく、親もなく、心を殺され、常に死と向き合う過酷な暮らしじゃ。わしらの想像を絶するその世界は、それでも公主様にとっては、ごく当たり前のものだったのであろう〉


 西嶽は言った。

 それが黎珠にとっての普通だった、と。


「そう。公主様にはそれが普通だった。苦痛を苦痛だとも感じなかったのだ。何故なら、何も知らなかったから」


 ──知らずに終わっていたかもしれない。

 ──それを思うと、わたしはとても幸せなんです。


「だから、お前の仕打ちなぞ気にならんほど、公主様は嬉しかったのだよ。それで充分、幸せだったのだ。──誰からも愛されたことがなかったから」


 誰からも。

 愛されたことがなかった。

 だからこそ、彼女は生まれて初めてそれを与えた相手を慕ったのだ。

 無自覚に。無条件に。おぼれるように。

 そしてどこかで彼女は、自分を虐げていたあるじが、まさにその相手であると気づいた。


 ──どこだ。どの時点で?

 ──ああ、きっと『あのとき』だ。


 夜明けの空を背に、泣きじゃくっていた黎珠を思い出す。

 何故かはわからないが、黎珠はあのときに、ここが二百年前の過去だと気づいたのだ。

 あのときにはもう、黎珠は知っていた。全部わかっていた。

 それなのに黎珠は、ずっと側にい続けた。

 そんな黎珠に、おれは今まで、()()()()


 くびねろ──

 死ね、女──遅ぇよ、莫迦がッ!──

 頭の悪い女だな──勝手に信じて、勝手に死ね──         

 泣くな、見苦しい。泣いてる女ほど、うぜぇもんねぇってのに──

 詫びる以外なんもできねぇな──存在価値なさ過ぎて、使い道に困る──


 ──もう死ねよ、お前。


「時間だ」


 西嶽に告げられ、意識が引き戻された。

 息ができない。指先が熱を失い、小刻みにふるえている。

 またたきもずに床を凝視していると、音もなく水滴が下に落ちた。

 少し遅れて、それが涙だと気づく。

 ここに至り、やっと涙がこぼれた。


 北嶽、と声をかけられ、のろのろと頭を持ち上げる。

 すると存外近くに、西嶽の沈痛な面持ちがあった。


「北嶽、私は白州へ帰る。だが忘れるな。私は今度こそ、お前の味方だ。困ったことがあれば、いつでも私を頼りなさい。私は我が名に誓い、我が名に懸けて――天麗公てんれいこう、貴公の力となろう」

天麗公てんれいこう……」


 それは、黎珠が言っていた言葉だ。

 あれは、自分を指して言っていたのか。


 ぼんやりと考えているうちに、西嶽はこちらに背を向け、扉へと歩を進めた。そして肩越しに振り返ると、最後に「お前の自由だ」と夏楠に告げた。


「玄州をおこすもたおすも、お前の自由だ。……ではな」


 静かに扉が閉まり、室内には黒影と、自分だけが取り残される。

 死んだように活動を止めたあるじを心配してか、黒影がひっそりと口を開いた。


〈……夏楠〉


 名を呼ばれる。

 もう、そうして自分を呼ぶのは、黒影だけになった。


 北嶽でもなんでもない、剣と見てくれだけが取り柄の俗悪な莫迦ばかを、そうと知りつつ対等に支えてくれる存在は──もう、この口の悪い宝貝ほうばいを置いてほかにない。

 夏楠、と親しみを込めて呼んでくれた黎珠は、もういないのだ。


 その現実に改めて打ちのめされそうになったとき、ふと、窓辺から平坦な少女の声が聞こえた。


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