60
今にも心臓を穿たんとしていた刃が、空を裂く。
それは無音のままに、どこまでも流麗な軌跡によって、退けられた。
会心の一撃を躱され、鳳炬の愕然とした視線が注がれる。
「な……お前、その剣捌きは──ッ!」
とは言え、こちらは呆気にとられたままだ。
事態が掴めぬまま、驚愕と憎悪に顔を歪ませた鳳炬を眺めていた。
(なんだ、あれ?)
今しがた起きたことを思い起こす。
意識もせずに、身体が勝手に動いた。
自分にはとても真似できない、洗練された動作で、攻撃を凌いだ。
それは例えば、良い師に恵まれ、決して努力を怠らず、幾年も剣技を磨き続けたかのように。
そう、まるで──誰かが代わりにやってくれたように。
「認めない、何かの間違いよ! お前ごときに、そんな動きができるものかッ!」
叫びを上げ、鳳炬は獅青を片手に疾走する。
一撃必殺の再来。
呆けていて、完全に反応が遅れた。
受けることも避けることも、到底叶わぬような刺突が眼前に迫る。
終わった、と。
今度こそ本当に、死を覚悟する。
しかし心に反するように、身体は別の意思を纏い、動き出した。
──成る程、次はそう来るか、と。
端からすべてを知り、見透かした初動が始まる。
己の動きを視認することはできないが、それはきっと──。
極限まで無駄がなく、自然で、たいそう美しいものだったに違いない。
半歩、右足を進める。
手にした刀剣は流水のごとく。
抗わず、ただ白刃に添えるように。
水平に、静かに薙ぐ──いいや、凪ぐ。
「く……ッ!」
鳳炬から、初めて小さな苦悶を聞いた。
軌道を逸れた大刀が大きく傾ぐ。
追撃はない。
歩数は、たったの一歩。
そのわずかな動きで、鳳炬を制してしまった。
何故だ、と出血で鈍った頭を叱咤する。
片膝を付き、憤怒の形相でこちらを睨む鳳炬を見て、ようやく理解が追い付いた。
「黒影、か……?」
呟くような問いかけに、普段よりも明瞭な黒影の声が耳に響いた。
〈どうだ、身体は保ちそうか?〉
「気ィ抜くと、意識が飛びそうになるけどな。……黒影、今のは──」
〈うむ。少しばかりお前の肉体を拝借した。我が身には、主となった歴代北嶽の技能が蓄積されているからな〉
それで、あんな芸当ができたわけか。
いまだに魂が侵食されるような嫌悪感は続いているが、それで鳳炬を倒せるなら安いものである。
「へー。便利なもんだな……」
頭が回らないので、とりあえず適当な相槌を打つ。
すると、黒影は声を翳らせてこちらに念を押した。
〈だが、お前は圧倒的に修練が足りんからな。長くは憑依できぬ上、遣えるのは直近の、ごく限られた動きのみだ。無論、大技も遣えん〉
「直近って、なんだよ?」
そう訊ねると、黒影はしばし間を置いてから答えた。
〈──お前の、父の動きだ〉
軽い驚きに眼を瞬かせる。
対して鳳炬は、がりがりと頭を掻き毟ると、ひび割れた声で絶叫した。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! わたくしは認めない! あれは兄様の薙ぎだ! 兄様だけの──兄様だけに許された動きだッ!!」
龍は、情が深いがゆえに、執着心が強く、苛烈に狂う。
その典型とも言える鳳炬を目の当たりにしながら、両手に黒影を構えた。
少しでも鳳炬から平静さを奪えるなら、願ったり叶ったりだ。
「利用できるもんなら……なんだって利用してやるさ……」
〈うむ、その意気だ〉
黒影の声援を受け、気合で剣を握り締める。
鳳炬はぎろりと目玉を回すと、羅刹のような殺気を撒いて、大刀を振り上げた。
「おのれ、駄作の分際で! 兄様の真似事をするなど、万年早いわッ!」
高らかに吠え、獰猛な獣さながらに鳳炬は息の根を止めに来る。
幾重にも技巧を凝らし、力を込めた、当代最高の斬撃が降り注ぐ。
そのことごとくを、黒影は躱し、逸らし、受け流す。
攻撃の合間を突き、いったん鳳炬から距離を取ると、途端にがくりと片足が折れた。
「はあッ、はあ……けほッ。畜生……血が足りねぇ…………」
まずい、と本能的な焦りが込み上げてくる。
黒影ではなく、自分自身に対して。
悔しいが、父の動きは神業だ。
それに引き換え、己の動作のなんと無駄が多かったことか。
だが、ここで過去を悔やんでも仕方がない。
今は、鳳炬だ。
鳳炬を打倒せねば。
ぜいぜいと肩で息をする。
意思と無関係に視界がかすみ、手足が震える。
いかに最小の動きで圧倒しようとも、力の天秤は変わらない。
勝敗は確実に鳳炬へと傾きつつある。
受け流すだけでは意味がない。
決定打に欠けるのだ。
せめて止血する時間さえあれば、と唇を噛む。
いや、そんな仮定の話など考えるな。
鳳炬を倒すことだけを考えろ。
早く。早く。早く。
見かねた黎珠が飛び出して、串刺しにされる前に──。
「ッ⁉」
それは、思案した一瞬の隙を突いてのことだった。
ぐいっと頭を後ろに引かれ、上体が大きく仰け反ってしまう。
編んでいた髪を掴まれた──と認識する前に、黒影が自身の刃でそれを断ち切る。
自由を得た身で半転し、後方に跳ぶと、際どいところで大刀が咽喉をかすめていった。
手に残された髪を、鳳炬はつまらなそうに床に放る。
こちらは体勢を立て直すため、敵と充分に距離を取りながら、肩で息を繰り返す。
斬られた髪が頬に落ちて、鬱陶しい。
これはいよいよまずいと思い始めたところで、黒影が囁くように言った。
〈──おい〉
静かな、それでいて、どこか鬼気迫る呼びかけ。
珍しく、このときはそれだけですべてを察した。
そして、即答した。
「やる。どうすればいい?」
すると、驚いたのか黒影が息を呑む音がする。
それに少し気分を良くして、さらに追い討ちをかけた。
頭の悪い自分にだって、無茶をしなければ鳳炬に勝てないことぐらいわかる。
「あんだろ、一つくらい。なんか……一発逆転の秘策が」
〈しくじれば即死だが〉
「いい、やる。……どのみちこのままじゃ死ぬ」
それに、もたもたしていると、黎珠が割り込みかねない。
やるなら、少しでも体力が残っているうちにするべきだ。
想いが通じたのか、黒影はすべて心得たように淡々と告げた。
〈鳳炬は強い。付け焼刃の技など、まず防がれる。そして相手が獅青である以上、大刀の破壊も不可能だ。であれば──……〉
そうして黒影の話を聞き終わると、鳳炬が嘲るように問いかけてきた。
「ふふっ、相談は終わったかしら?」
どうやら、こちらの体勢が整うのを待っていたらしい。
冷静さが戻り、自身の優位と勝利を確信したのだろう。
鳳炬の問いには答えず、了承の意味で手元の黒影に頷き返し、告げた。
「わかった。それで行く」
〈いいか、肝要なのは『機』だ。機を決して失するな〉
「ああ」
黒影の忠告を胸に、剣尖を持ち上げる。
鳳炬はにたりと嗤うと、獅青を高く掲げて言った。
「行くぞ。宝具に頼らねば、まともに戦うこともできぬ小僧」
「来やがれ、妄執に取り憑かれた発狂女」
「ふん。いいだろう。我が死刀、存分にその身に刻むがいい」
直後、空気ががらりと変わる。
柄を握る手を持ち替えると、鳳炬は半身に開き、大刀を上段に構えた。
違和感から眉を寄せ、眼を眇めてその姿を凝視する。
腹部ががら空きで、隙の多い構えだ。
鳳炬らしくない。
〈あの構えは──いかん! 下がるぞ!〉
突然、黒影の焦った声が飛ぶ。
それを問いただす間もなく、その死突は唸りを上げた。
「死ね、小僧」
一足飛びで間合いが詰められ、凄まじい速度の打突が大気を切り裂く。
近い──速い。
黒影でも躱しきれない。
突きが、合わせて、一、二──三。
「がはッ!!」
命からがら逃げ切ると、負荷のかかった身体が悲鳴を上げた。
唾液とともに、ごぽりと血の塊が吐き出される。
それを見て、今まで静観していた黎珠がこちらに駆け寄ろうとした。
「北嶽様!」
「来るな! 来たらぶっ飛ばすぞッ!!」
怒鳴りつけると、黎珠はぼろぼろ涙をこぼし、足を止める。
それを見た鳳炬は大刀を肩に担ぎ、芝居がかった口調でこちらを責め立てた。
「あらあら、女の子を泣かすなんて。つくづく最低な男ねぇ、お前は?」
「げほッ……かは……ッ。ぬかせ、糞女が……ッ」
「存外、しぶとい」
言い返すと、鳳炬はつまらなそうな呟きを落とす。
それと前後して、焦った声で黒影が詫びを口にした。
〈すまん! お前を労わる余裕がなかった! まさか『連獅子』を会得していようとは〉
「いい……お前が動かさなきゃ、死んでた……ッ」
レンジシ──連獅子。連なる獅子。
響きだけでも、なんとなくわかる。
眉間・喉・心臓と、すべて急所を狙った三段突き。
厄介なのはそれが恐ろしく速く、回避も受け流しも困難なところだ。
眼の良い黎珠でも、三段すべての攻撃は視えなかったのではないだろうか。
傷が開き、ぼたぼたと流れる血を視界の隅に捉えつつ、呼気を整える。
脳天から血の気が引く感覚を味わいながら、小さくぼやいた。
「やべ……次喰らったら終わるな、これ」
〈あれは致命傷は避けられても、勢いは殺せん。次撃で終わらせねばなるまい。幸い、あれは──〉
「ああ。連獅子は……突きだ。だから……抜きやすい」
復習を兼ねて黒影に言うと、力強い応答が返ってきた。
〈うむ、その通りだ。切っ先は視えるな?〉
「眼には自信がある。……夜目は利かねぇけどな」
細く息を吐き、鳳炬を見据える。
対峙した鳳炬は舞うように獅青を回転させると、再び連獅子の構えを取った。
「安心なさい、小童。次で確実に終わらせてあげる」
そして一呼吸の間ののち、床を蹴り上げた。
「喰らえッ!!」
再度、必殺の刺突が放たれる。
──初撃が生死の分かれ目だ。
先ほどの黒影の言が、鮮やかに蘇った。
──途中までは、肉体を運んでやれる。
半歩、足を動かす。
半身に構える。
──だが、あとの動きは助けてやれん。
連獅子はもはや、回避不可能だ。
立ち止まれば、横薙ぎの第二波で仕留められる。
かと言って、今の自分にこの技を受け流すことはできない。
黒影で獅青は壊せない。付け焼き刃の技も阻まれる。八方塞がりだ。
だから、あえて──黒影を手離す。
黒剣が大刀に弾かれ、宙を舞う。
鳳炬が歪な笑みで嗤いかける。
確定した勝利に、酔いしれているのがわかる。
ここに至りようやく鳳炬が見せた、ごくごく僅かな隙。
これを待っていた。
突き出された白刃。
勢いは殺さず。
さりとて伸び切っては意味がない。
目指すは常に中庸。
烈火のごとく迅速に、氷雪のごとく繊細に。
穏やかに両手を獅青の柄に添え、そして──引き抜く。
「な──ッ⁉」
刺し出される──差し出される。
それを受け取り、引き寄せる。
最後まで勢いは殺さない。
鳳炬の手を離れた獅青を手に、半円を描く。
決して逆らうことなく、たおやかに流れる水のごとく。
三日月のような軌跡を描き、白刃は主の元へと還ってゆく。
──流水をもって月と為す。ゆえに、その名を『水月』。
武器を壊せず、技が通じないなら、武器を取り上げて技を通じさせれば良い。
絵空事のような言葉は、それでも奇跡的に現実のものとなった。
肉が絶たれ、落ちる音。
集中のあまり無音だった世界に、音が戻る。
床には獅青に斬り伏せられ、左半身が胴と分離しかかっている鳳炬がいた。
びくびくと痙攣する鳳炬を見下ろし、獅青を遠くへ投げ捨てる。
頸は落としていないが、もうこれで充分だろう。
その場で両膝をついた。
ぜえぜえと己の呼吸がうるさい。
それでも、生きていると実感できる。
やったと思う間もなく、黒影の急かす声が飛んだ。
〈早く、黎珠殿とともに逃げろ!〉
一息つく間もない。
ずたぼろの身体に鞭を打ち、黎珠を振り返った。
「ああ……黎珠……悪ぃ、手貸してくれ……」
「はい。北嶽様!」
泣きながら駆けてくる黎珠を眺める。
充足感で瞳を閉じたとき──。
〈なッ⁉〉
床に転がる黒影の戦慄が、耳を打った。
「まだだッ!!」
千切れかけた腕で床を引っ掻き、なおも鳳炬は起き上がろうとする。
その身が、唐突にぼこりと膨れ上がった。
身に纏う衣服がはち切れ、膨張した皮膚にめきめきと深紅の鱗が生える。
真昼だった外の景色が急速に陰り、夜の帳の中、稲光が変貌した鳳炬を照らした。
鋭い爪と、獣のような牙。無数の鱗。
鹿のような角に、蛇のような肢体。
とぐろを巻くその身が閃光を放つ。
突如、広間に突風が吹き荒れ、慌てて黎珠とともに身を伏せた。
まるで竜巻でも起きたかのような轟音が鳴り響き、風がある程度収まったところで身体を起こす。
そして天を見上げ、絶句した。
天井が屋根ごと綺麗に消え去り、暗雲が立ち込める空が見える。
ときおり走る閃光に照らされ、まるで神話を思い起こさせるような、巨大な赤龍が上空に出現していた。
「これが、顕現……」
横で同じように空を仰いだ黎珠が、かすれた声を漏らす。
龍が、その莫大な寿命を代償として為す、最後の切り札。
中でも直系の血族が顕す龍は別格で、天候すら自在に操るという。
赤龍は、よく見ればその身の半ばがもげ、はみ出た内臓が見えていた。
腕は不自然に曲がり、硬い鱗で覆われた肌も無残に傷ついて、満身創痍だ。
戒朱の指輪の能力で生き延びているのだろうが、顕現の影響で四肢に相当な負荷がかかっていることが、ひと目でわかる。
しかし、それでもなお、赤龍から吹き出す憎悪に際限はなかった。
『──ス……殺ス! 決シテ、赦シハ、シナイ!』
赤龍の咆哮と同時に雷が落ち、周囲が火炎に包まれる。
四方を燃え盛る炎に囲まれ、恐怖で全身の血が凍り付いた。
凄まじい、妄念──執念。
もはや、この世のものではない、その見目。
逃げねば、と頭のどこかで思うが、鉛のように手足が重く、動かない。
胃に冷たいものが走る。
絶望的な気持ちで歯を食いしばる。
ついに己の死を悟ったとき、それを撥ね退けるように、決然と黎珠が立ち上がった。




