59
「が……ッ、く……はッ!」
唇から苦悶が漏れる。
正確無比な、心臓狙いの一撃。
咄嗟に致命傷は避けたものの左肩を突かれ、左腕は遣い物にならなくなった。
「お返しさせていただいたわ。 どう? わたくしの一撃は?」
嘲る声に応じることもできず、床に両膝をつく。
──やられた。完全に油断した。
後悔と苦痛で顔が歪む。
身体に穴が開けられたように左肩が痛い。
衝撃で黒影を取り落とさなかったのは僥倖だ。
吹き出す真紅を吸い切れず、外套を伝い、ぼたぼたと血が床に滴り落ちる。
からくも、即死は免れた。
まさに、そんな状況だった。
「げほッ、けは……ッ!」
嫌な音の咳がする。
口に手を当てると、わずかに血が滲んでいた。
……まずい。どうやら、肺も少し傷付けたらしい。
〈莫迦な。致命傷のはずでは……〉
愕然とした様子で黒影が呟く。
すると、打てば響くような軽やかな返事が、鳳炬から返された。
「ええ、とても痛かったわ。でも、わたくしが負けるはずないじゃない。だって、わたくしは天に選ばれたのよ?」
〈なッ⁉ お前、声が──〉
黒影の驚きを受け、なんとか視線を持ち上げて鳳炬を見る。
鳳炬は、頸から大きく袈裟懸けに裂傷を負いつつも、平然と立っていた。
ややあって、足元の血溜まりが音を立てて舞い上がる。それは時間を巻き戻すような、実に気味の悪い再生だった。
まるで意志を持ったかのように、床に落ちた血液が傷口に吸い込まれ、跡形もなく消え去ってしまう。あとに残るのは、斬り裂かれた服と、傷一つない鳳炬の真っ白な柔肌のみだ。
これは、この異常な治癒力は、獅青の槍の能力ではない。
確信を持って、前方の敵を見据える。
それに、鳳炬は化け物じみた邪悪な笑みで応えた。
「姓は母に給いし郭。名は鳳炬。我は、郭鳳炬。南方朱州を担いし、南嶽なり!」
〈再起を司る戒朱の指輪か! しかし、あれは朱州に安置されているはず〉
黒影の指摘に、鳳炬は動じることなく微笑みかけた。
「ああ、あれは硝子玉よ。先代南嶽の葬儀のときに、差し替えさせてもらったわ。折よく宝貝が変化したから、手元にあった指輪と差し替えたの」
「お前……指輪なんか……ッ、して、ないじゃ……」
今、鳳炬の両手に指輪は見当たらない。
息も絶え絶えに言うと、鳳炬は小頸を傾げてこちらに眼を向けた。
「あの程度の大きさの指輪なら、飲み込むのはさして難しくなかったわね」
「はッ……そりゃ、気の毒に……出すとき地獄だな、戒朱……」
「本当に下品な男だこと、お前は。今すぐその口、二度と利けなくしてやるわ」
笑みを消し、殺意を撒き散らしながら、鳳炬は足を踏み出す。
しかし、それを遮るようにして小柄な人影が立ちはだかった。
──黎珠だ。
「させません!」
「ば……ッ」
莫迦、と声にならない息を吐く。
とてもではないが、黎珠に勝てる相手ではない。
普段は賢い癖に、ときおり恐ろしく莫迦になるこの娘は、一歩も引くことなく鳳炬に宣言した。
「これ以上、北嶽様を傷付けると言うなら、今度はわたしがお相手をします!」
「あら、黎珠じゃ無理よ。多少はできるみたいだけど、あなたまだ、自分の手を汚したことないでしょう?」
「では、鳳炬様が最初になるやもしれませんね。わたしは龍討師です。龍である鳳炬様に、勝ち目はありませんよ?」
「嘘が下手ねぇ、黎珠」
黎珠の虚勢に、鳳炬はいくらか狂気の和らいだ表情で苦笑してみせた。
「そう、確かにあなたは龍討師なのかもしれない。でもどっちにしたって、あなたには無理よ。討師は陰陽の関係で、同姓の龍脈は視えない──でしょ? わたくしも一応、南嶽の直系なの。そのくらいの知識は持ち合わせていてよ?」
はったりが不発に終わり、黎珠は唇を噛む。
鳳炬はにっこりと極めて親しげに笑い、黎珠に話しかけた。
「でも、黎珠。あなたはわたくしのお友達ですもの。そこの莫迦とは違って、賢くて優しい、心の綺麗な子。だから、あなたは殺さないわ。見なかったことにしてあげる。今すぐ、ここから立ち去って頂戴」
〈黎珠殿! どうか我らには構わず!〉
鳳炬に続き、黒影も撤退を後押しする。
その意見に完全に同意しながらも、絶望的な気持ちで、黎珠の後ろ姿を見上げた。
──ああ、それでも。こいつは莫迦だから、きっと。
「いいえ! わたしは引きません!」
黎珠の決然とした声が、だだっ広い広間に響く。
その返答を聞き、決死の思いで崩れそうになる膝に力を込めた。
床を睨み、少しでも痛みが紛れるように、心中で盛大に悪態をつく。
──畜生。なんだってお前は、そんなに頑固なんだよ。
それでも、黎珠は止まらない。
「それにわたしは、犯罪者の友を持った憶えなどありません! 勘違いをしないでください!」
──煽るな、阿呆が。逃げろ。一目散に逃げろ。
「どうしても、考えは変わらない?」
「変わりません!」
鳳炬の問いかけにも、黎珠は即答する。
それを聞き、鳳炬は沈んだ声で、最後にもう一度訊ねた。
「そう。これは、わたくしの最大の譲歩だったのだけど……やっぱり、黎珠は駄目なのね?」
「譲歩? それはわたしの台詞です。今すぐ己の罪を認め、武器を捨てなさい! それがわたしの最大の譲歩です!」
──命令形かよ、大莫迦が。お前がそんなだから、気絶もできねぇだろうが。
「せっかくお友達に慣れたと思ったのに、とても残念だわ。……さようなら、黎珠」
すべてを見限ったように、鳳炬が告げる声がする。
最大限の気力を振り絞り、床から膝を持ち上げる。
立ち上がる前に、鳳炬の殺気が高まった。
気配で、獅青の槍が黎珠に向けられたことがわかる。
大刀が唸りを上げ、両手を広げて立ち止まったままの黎珠を襲う。
──もう、誰も。お前を、死なせはしない。
渾身の力で、地を蹴った。
技術も、何もない。
無様に血を撒いて、黒影を横に薙ぐ。
ただそれだけ。
ただそれだけのことに、気が遠くなるほどの精神力を要した。
がん、と鈍い金属音が響く。
手に重みが伝わる。
止まるな。
振り抜け。
気合で放った横薙ぎが、獅青を押し戻す。
鳳炬が瞠目し、素早く後ろに跳び退くのが見えた。
「かは……ッ……痛ぇ…………」
堪らず、黒影を杖代わりに片膝を付く。
肩で息をしていると、背後から抱擁するように黎珠が上体を支えた。
「北嶽様! こんなに血が……お下がりください。ここはわたしに──」
「逃げてくれるか? おれを置いて?」
語尾を奪うように問う。
黎珠は唇を結び、何も答えない。
押し黙った黎珠に、笑いながら言ってやった。
「逃げねぇだろ……お前は」
そうだ、黎珠は逃げない。
ならばもう、やることは一つしかない。
「なら、おれが……戦う」
「そのお身体では無理です! 北嶽様が死んでしまいます!」
「もう、嫌なんだよ……目の前で、大切な誰かが──死ぬのを、見るのは」
「北嶽様……」
取り縋る黎珠を押しのけ、鳳炬を凝視する。
視線は外さず、声だけで黒影に訊ねた。
「黒影……戒朱の能力は、なんだ?」
〈『再起』だ。見ての通り、何度でも蘇る〉
「なんだよ、その反則技ッ……それ、頸を落としても死なねぇのか……?」
〈恐らくは。だが、そこまでできれば再生は容易ではない。黎珠殿とともに逃げる時間を稼げるはずだ〉
「わかった……」
黒影は簡単に言うが、この傷では相当な離れ業だ。
──が、やるしかない。
奮起して立ち上がると、鳳炬はあからさまな嘲りを込め、顎を逸らした。
「あらあら。少しは色が付いて、ましな男になったかしら? まさか、その身体でわたくしと張り合う気?」
「おれは、まだやれる」
虚勢を張った。
本当は今にも倒れこんでしまいそうだ。
左肩に受けた傷が、脈打つように事態の深刻さを告げる。
だが、それでも──そうでも言わねば、制止も聞かずに黎珠が前へ出ることが、わかっていた。
下手に鳳炬に攻撃を仕掛ければ、返す刃で切り裂かれかねない。
駄目だ。それだけは、絶対に避けなければならない。
あれだけ助けられて。何度も救われて。
自分がやらずに、誰がやるのだ。
誰が、黎珠を護るのだ。
あれだけ心を占めていた憎悪が消え、かつてない決意が思考を占拠する。
それに呼応したように、高らかに黒影が告げた。
〈我は黒影の剣。万物を死へと至らしめる宝貝だ。今こそ全霊をもって、お前の力となろう〉
「黒影……お前、なんかあいつ倒せる必殺技とか、ないか?」
藁にも縋る思いで問う。
それ対する黒影の返事は、明快だった。
〈今のお前に扱えるものは、ない〉
まあ、そうだろう。本当に何もしてこなかったのだから、仕方ない。
諦めた矢先に、だが、と黒影は否定の言葉を続けた。
〈だが、鳳炬の技はすべて知っている。少しこちらへ、心を開けるか?〉
「心を……開く?」
鸚鵡返しに訊く。
すると説明の時間が惜しいのか、黒影は端的な指示だけを早口で捲し立てた。
〈こちらに意識を集中させろ。何も考えるな。最初は違和感があるだろうが、耐え抜け。拒むな。そのまま受け入れろ〉
「おい、意味が全然……」
黒影に物申す間もなく、それまで静観していた鳳炬が先に動いた。
「いつまで話しているつもり? そっちが動かないなら、わたくしから行くわよ」
言うやいなや、初手から必殺の一撃が放たれる。
眼は迫る刃を捉えているが、いかんせん身体が追い付かない。
全快なら手の打ちようもあっただろうが、今は無理だ。
──糞ッ、どうにでもなりやがれ! 死んだら化けて祟ってやる!
半ばやけっぱちで、黒影の指示通り、頭を空にする。
傷が酷くて、考えるのも億劫だったところだ。丁度いい。
瞼を閉じ、黒影を握る手に意識を集中する。
拒むなと言われたので、ついでに肩の力も抜いてみる。
すると唐突に、それは訪れた。
ぞわり、と腕を這い上がる悪寒。
冷たいような、温かいような未知の感触に、戦慄する。
誰に教わるともなく、『これ』が異物であると認識する。
抵抗せず身を委ねれば、すべてを持って行かれると理解する。
すべて──己の、すべて。
当たり前のように自分のものだったものが、自分でなくなる感覚。
眼も、耳も、鼻も、口も、手足も、一切合切が。
爪先から髪の一筋に至るまで、さらには意識までも、自分を構成するすべてが奪われてしまう。
〈──受け入れよ〉
唐突に黒影の声がした。
本能的に嫌だと、心が悲鳴を上げる。
今すぐにでも振り払いたいと切望する。
決して黒影に対する嫌悪ではない。
これは命ある者の本能として、生命に組み込まれた恐怖だ。
抗い難いそれは、死の恐怖に近いものがあるだろう。
だが厳かに、黒影は重ねて問いかけた。
〈黎珠殿を、救いたくはないのか?〉
静かだが、それは雷のような衝撃をもたらす言葉だった。
本能を理性が制するのに、充分な言葉だった。
──ああ、そうだった。
おれが、黎珠を助けねぇと。
おれ以外の誰が、あのお人好しを護るんだ。
母さんは助けられなかった。
だから今度は──今度こそ必ず、黎珠を護る。
護って、みせる。
──よし。来やがれ、黒影。
──自分の一つや二つ、てめえにくれてやる。
軽口を叩く余裕すら生まれる。
永遠のような、刹那の刻。
どこかとても近いところで、黒影が笑う声がした。
〈心得た、我が主よ〉
機は熟した。
いざ、怨敵を討ち滅ぼさん。




