58
――そして物語は、新たな語り部へ。
間一髪のところで駆けつけ、鳳炬の大刀を払う。
「無事か⁉ 黎珠!」
名を呼ぶと、黎珠は泣きそうな笑顔を浮かべて、こちらを見た。
勝手な行動について文句を言おうと思っていたのに、こんな顔を見せられてしまうと、言葉が消えてしまう。
ほだされてるなと思いつつ駆け寄ると、腕にぐったりとした李を抱え、黎珠は声を上げた。
「北嶽様!」
「危なかったな。李は大丈夫か?」
「ご安心を。気を失っているだけです」
床にへたり込んだ黎珠に問うと、表情と裏腹にしっかりした回答が返ってくる。
黎珠自身にも、特に怪我はないようだ。
ほっと胸を撫で下ろしてから、視線を鳳炬へと移す。
すると、手元で黒影が愕然とした呟きを漏らした。
〈あれは、獅青の槍……何故、鳳炬が……〉
「槍? あれは大刀だろ?」
訊ねると、黒影は険しい声で獅青について語った。
〈宝具は持ち主に合わせ、多少変化するのだ。獅青の槍ならば、長柄武器の枠内で変わる。先の東嶽は、大刀の遣い手だったからな〉
「獅青がだんまりってことは、あの、あからさまに刃に書かれてるやつが西嶽が言ってた封印か?」
〈恐らくは〉
黒影の応答を聞きながら、大刀にべっとりと朱く記された文字を凝視する。
あれで獅青を黙らせ所持しているということは、毒事件だけでなく、東嶽殺しもこの女で確定だろう。東嶽を殺害したあと、理由は不明だが己を殺そうと毒を盛り、西嶽の手に見せかけ、最後は李に罪を着せようとしたのだ。
鳳炬は、汚物でも見るような眼をこちらに向けると、吐き捨てるように言った。
「ちっ、死に損ないが」
並々ならぬ怨念を感じるが、この女とは、さして面識がない。
過去に手酷く振ったことでもあればわかるが、鳳炬とは特に接点もなく、関係を持ったこともない。どこで殺されるほどの恨みを買ったか不明だ。
単に自分が憶えてないだけかもしれないが、李や黎珠に危害を加えようとした時点で、もはや厳罰対象である。
「黙れ、牛乳女。てめえがすべての元凶か」
黒影を構え、鳳炬に負けじと蔑みを込めて告げると、当てつけのような溜息が寄越された。
「相も変わらず、下品な小僧だこと。育て親の程度が知れるわね」
「んだと、この女ッ!」
身を乗り出しかけたところを、後ろから黎珠に制される。
冷静な様子で、黎珠は静かに鳳炬を見つめたまま口を開いた。
「いけません、北嶽様。ここはご辛抱ください」
経験上、こういった場面では圧倒的に黎珠の言うことが正しい。
と言うか、今までさんざっぱら助言を聞かずに下手を打ってきている。短気にまかせて、鳳炬の挑発に乗るべきではないだろう。
仕方なく黎珠に従って身を引き、対峙する鳳炬を睨みつけた。
「ちッ。鳳炬、お前は玄州の法にかけて裁く。よっぽど上手い言い訳でもなけりゃ極刑だ。覚悟しておけ、あばずれ女」
「ふん、身のほども知らぬ小童が。お飾りの北嶽の癖に、大層な口を叩くこと」
唇に尊大な笑みを刻むと、鳳炬はどこか陶酔したように瞳を伏せた。
「ああ、本当に。お前は存在からして害虫以下ね。何故、こんなものがこの世にあるのかしら? ああ、そうだわぁ。獅青もあることだし、お前、今ここで死んで頂戴な? わたくしが手伝ってあげる」
「うわ。駄目だ、黎珠。こいつ完全に頭がイッてる」
正直な感想が口をついて出た。
明らかに挙動のおかしい鳳炬にどん引きする。傍らを見ると、根の優しい黎珠は哀しげに眉尻を下げ、視線を床に落とした。
しかし、それでも鳳炬の恨み言は止まらない。
「ああ、どうしてお前のような愚物が存在するのかしら。美しいのは見てくれだけ。中身は犬畜生にも劣る」
〈鳳炬……〉
同情からか、黒影がいたたまれない様子で呟く。
が、当然向こうに変化はない。
この手合いの女は厄介なんだよな、と内心げんなりしつつ、横に立つ黎珠に話しかけた。
「あー……なんか、あいつと話すの疲れてきた。黎珠、外出て誰か適当に呼んでくれ。ここにいること、まだ誰にも言ってねぇんだよ」
その要請に黎珠が応えるよりも、耳障りな声で鳳炬が喋る方が早かった。
これからの戦闘に備えてだろう。自身の長袍の裾を裂き、白い太腿を露わにして、鳳炬は朗々と告げた。
「さあ。剣を抜きなさい、北嶽。わたくしと殺し合いましょう?」
「やなこった。誰がお前みたいな気狂い女と──」
「お前にも『母親と同じ末路』を辿らせてやるわ」
こちらを遮った鳳炬の台詞に、思考が止まった。
その意味を推察すると同時に、心臓が凍てつくような感覚に陥る。
──いま、この女は、なんと言った?
「お前、今なんつった?」
「母親と同じ末路、と言ったのよ?」
鳳炬は平然と言ってのける。
脳裏で、過去のとある光景が明滅した。
幼い自分が必死の形相で、雪林をひた走る姿だ。
確信となりつつある予感に、呼吸が乱れる。
どくどくと鼓動が速まっていく。
耳鳴りが煩い。
狭まる視界の中、かろうじて絞り出した声で、鳳炬に訊ねた。
「お前は、母さんを知ってるのか? おれの母親が、どんな死に方をしたか――」
「ええ、勿論。天武兄様を誑かした売女の顔を、わたくしが忘れると思って?」
「売女だと……?」
にいっ、と鳳炬は醜悪に嗤いかける。
こちらの問いには答えず、ただ、過去を回想するようにその女は語った。
「この世の者とは思えぬほど、美しい女だったわ。腸が煮えくり返るほど、見てくれだけは完璧な女だった。お前は本当に、あの女と瓜二つだこと。……兄様の、面影すらない」
──母さん、と声を張り上げながら。
凍傷寸前の真っ赤な手足で、雪の降り積もった林を駆ける少年。
貧しく、いつも腹を空かせて、棒切れのように細った体躯。
あの頃の──自分。
「ねえ、わたくしがどれほどあの女が憎かったかわかる? どれほどあの女が嫉ましかったか、わかる? あの女は、わたくしが咽喉から手が出るほど欲しかったものを、なんの苦労もなく全部を掻っ攫っていったのよ?」
──ほう? それがどうした?
「『考えよう』って、言ってくれたの。何年も何年も焦がれて、想い続けて、ようやく。次、武邑に戻ったら、真剣に考えてくれるって。なのにあの女は、あとから出てきて、一瞬でわたくしから兄様を奪った。わたくしには、兄様しかいなかったのに! 兄様がわたくしのすべてだったのに‼」
――へえ? それで?
「お前を初めて見たときの、わたくしの衝撃がわかる? 子を産めぬ身体の、わたくしの眼の前に――お前が現れたときのわたくしの憎悪が、わかるかしら?」
――知るか、そんなこと。問題はそこじゃない。
「じゃあ、お前は……おれの母さんの最期を、知っているか?」
その、問いに。
不愉快にも、鳳炬は実に愉しげに頷いてみせた。
「ええ、死に様すら絵になる美しさだったわ。わたくしが殺すはずだったのに、コウエンに先を越されてしまったの。だから――」
息を継ぎ、言葉を切る。
愉悦の滲む艶笑とともに、女は、言った。
「だから、あの美しい顔を、二目と見れない顔にしてやったわッ‼」
「お前かぁぁぁぁぁぁぁッ‼」
咆哮は、昔、母の亡骸を眼にしたときの絶叫と重なった。
絶句する黒影と黎珠を置いて、床を蹴り上げる。
鳳炬の脳天に振り下ろした黒影の剣は、獅青の柄によって阻まれた。
「殺すッ! 殺してやる! お前も母さんと同じ目に遭わせてやるッ‼」
「両眼を潰して、鼻を砕いて、眼鼻の判別もできないほど? およそ、人の顔とは思えぬほど醜悪にッ」
「貴ッ様ぁぁぁぁぁぁぁッ‼」
嗤いながら告げる鳳炬に、爆発的な殺意が迸る。
柄を持つ手に力を込めた矢先、黒影の声が耳に届いた。
〈いかん! 怒りを鎮めろ。このままでは――〉
「死ねぇぇぇぇぇぇぇッ‼」
黒影に構わず、渾身の力で押し切る。
その意図を察したように、鳳炬は獅青の柄を傾けた。
黒影の剣身が滑り、絡め取られると同時に、柄による打撃が右肩を襲う。
「痛ぅッ!」
反射的に後退し、威力を減退させたが、攻撃はこれで終わりではない。
見計らったように獅青の片刃がきらめき、追撃が鼻先に迫る。
斬撃は刹那の差で、刃が頸筋をかすめて、宙を斬った。
さらに背後に跳躍し、獅青の槍の間合いを離脱する。
そこで、ようやく先ほどの死の恐怖が胸に去来した。
烈火の怒りが、つかの間消え去るほどに、鳳炬の斬撃は際どかった。
〈鳳炬の得手は大刀だ。剣のお前は分が悪い。その上、あれは宝具だ〉
すぐさま黒影が忠言する。
大刀と剣では、攻撃範囲が違う。
間合いの長さは、そのまま有利不利の差に繋がる。
呼応するように、鳳炬はその視線を黒影に注いだ。
「すべてを絶ち、すべてを滅す、黒影の剣。武器形状の宝具を持ってて良かったわぁ。ほかのじゃ、槍ごと分断されかねないもの」
〈獅青の能力を遣えんのが、せめてもの救いか〉
黒影は呟くが、知ったことではない。
「御託はいい! おれはあいつを殺す! ぶっ殺してやる‼」
今度は油断しない。
確実に仕留めてみせる。
再び黒影を構え直すと、その腕を横から黎珠が掴んだ。
「落ち着いてください、北嶽様。このままでは、北嶽様まで憎しみの連鎖に呑まれてしまいます」
「煩い! お前は黙ってろ! 親も知らない奴が、口出しすんな!」
乱暴に黎珠の手を振り払うと、黒影が非難の声を上げた。
〈お前! その言葉はあまりにも――〉
「あらあら、内輪もめ? いいわねぇ、傍で見ていて、無様で最高」
節操もなく毒を吐き続ける鳳炬には、同じく毒の応酬で返した。
「心配すんな。すぐにお前も無様な格好にしてやるよ。あの世で糞親父に顔合わせらんねぇくらいにな!」
「まあ、大きく出たこと。技量も経験もおつむも足りないお前に、兄様仕込みのわたくしの刃を捌けると思って?」
「へぇ、そりゃ安心だ! あの糞親父の手ほどきなら、どーせ大したことねぇだろうからよ!」
「天武兄様を侮辱するなッ!」
突如、声色を変えて鳳炬は怒鳴る。
そして一分の隙もなく獅青を構えると、低く宣言し、地を蹴った。
「行くぞ、小童」
瞬間、先ほどとは比べものにならぬ速度で、間合いが詰められる。
反応しきれぬまま、疾風と呼ぶに相応しい打突が繰り出された。
この間合いでは、躱し切れない。
──避けられないなら、弾くまでだ。
閃光のような決断は、もはや本能に近い。
疾風を凌駕し、神速と呼べる速さで剣を振るう。
確かな手応えとともに、獅青は逸れる。
目論み通りだ。
──よし、防いだ。
口角を上げた瞬間、それは唸りを上げた。
防いだはずの打突は横薙ぎの払いへと変化し、第二撃が迫る。
またもや完全には避けきれず、衝撃を腹に受け、背後の壁に激突した。
「かはッ!」
「北嶽様!」
黎珠がこちらに駆け寄り、ずり落ちた身体を起こそうとする。
それを、鳳炬は聞くに堪えぬ高笑いとともに睥睨した。
「あははははははははははッ! ざまあないわね、惰弱な餓鬼が! 努力を怠り、天から授かった才に胡坐をかいた結果が、これよ」
〈逸るな、落ち着け! 大刀の真価が発揮されるのは、突きではない。『払い』にこそあるのだ。強く弾けば、返す刃で腹を裂かれかねんぞ?〉
黎珠に助け起こされる間も、黒影はくどくどと説教を垂れる。
それを撥ね退けるように、血の滲んだ唾液を吐いて言った。
「うっせえッ!」
そして、改めて鳳炬を睨めつける。
払いについては、今、身をもって知った。
あと、わずかでも反転が遅れれば、黒影の言う通り腹を裂かれていただろう。忌々しい。
「怪力女が! 糞ッ! 肋が何本かイった」
〈鳳炬を女と侮るな。単純な力量は、お前を凌ぐぞ。あの娘は千年に一度と言われた、長器の申し子だ。その技巧は他の追随を許さん。大刀の名手、今は亡き東嶽ですら、その多彩な槍術には手を焼いたほどだ〉
「は! それがどうした? おれは万年に一度って言われたぜ?」
軽口を叩くと、黒影は叱り飛ばすように声を荒げた。
〈たわけ! 己を過信するでないわ! 良いか? お前にあるのは、その化け物じみた身体能力のみ、天賦の才のみだ! そして、努力のともなわぬ才は、真の強者の前で必ず敗北する。……お前、このままでは鳳炬に勝てんぞ?〉
「ねえ、そろそろ再開してもいいかしら?」
黒影の話を断つように、鳳炬が問いかける。
それに、身体を支えようと寄り添う黎珠を押しのけて、言い返した。
「言われなくてもやってやるよ、怪力婆!」
「冥府に堕ちろ、愚物が」
鳳炬に応じず、今度はこちらから間合いを詰める。
大刀は槍と同じく、射程が長い。
当然、迎撃が来る。
避けるか、弾くか、いなすか。
どれも却下だ。
心臓を突かれるか、頸を落とされるか。
予測は付かないが、とにかくそれでは死亡が確定する。
引いてはいけない。
ここは、あえて踏み込む。
鳳炬の攻撃は、またしても刺突だ。
突きは所詮、点の動きでしかない。
躱すのは容易いが、横に動いては薙ぎで殺られる。
そうは言っても、防げば先ほどの二の舞となるのも事実。
ならば、前へ進むのみ。
左頬を、獅青の刃がかすめる。
耳に逆巻く風の音を聞いた気がする。
左肩の上を大刀が突き抜け、そして――黒影による渾身の斬撃が、鳳炬の頸から胴を切り裂いた。
頸の血管を斬ったからだろう。
鮮血が勢いよく吹き出し、頬に生ぬるい感触が伝わる。
無様に床に転がった鳳炬を見下ろすと、会心の笑みで勝鬨を上げた。
「……ははッ。あははははははははははははッ! ざまあみろ、屑が!」
蒼白となった黎珠が手で口元を覆い、その亡骸から眼を逸らす。
でも、自分は逸らさない。
視線を鳳炬に固定したまま、畳み掛けるように続けた。
「あの世でせいぜい悔やみやがれ! お前は、墓にだって入れねぇからな! 糞親父と同じところへ行けると思うなよ、あばずれが‼」
そう言って、血まみれの鳳炬を足蹴にする。
それでも、気は治まらない。
憎しみは消えない。
まだ、復讐が足りないのだろうか?
──ああ、そうか。
ふと思い付いて、黒影を持ち直した。
己もまた同じことをしないと、怒りは鎮まらないだろう。
剣先を下に向けると、意味を悟った黒影が、恐怖と怯えの混じった声を上げた。
〈よ、よせ! それだけ止めてくれ!〉
「いけません、北嶽様! それだけは、決してなりません!」
黎珠が腕に取り付き、必死で行動を阻止しようとする。
振ってもがんとして離れないため、肘で叩きつけるように黎珠を振り解いた。
「黙れ! お前におれの気持ちがわかってたまるか!」
「あぅ!」
黎珠は苦悶の声を発し、血の広がり始めた床に身体を打ち付ける。
それを無感動に見下ろし、命じるようにこう告げた。
「お前はそこで大人しくしてろ。口出しすんな」
「いいえ、口出しします! いかに、わたしに親がなかろうと、北嶽様に嫌われようとも!」
黎珠は、なおも喰い下がってくる。
その双眸に強い決意を灯して、黎珠は声を張り上げた。
「亡骸を貶めるなど、あってはならないことです! それでは、北嶽様は鳳炬様と同じです!」
それは──その発言は、聞き捨てならない。
ゆっくりと振り返りると、再度、黎珠に訊き返した。
「お前、今なんつった……?」
〈いかん! 逃げろ、黎珠殿! こやつは今、正気では――〉
黒影が何か言いかけるが、黎珠は微動だにせず、こちらを見据えた。
よく通る、清らかで凛とした声音で、
「『鳳炬様と同じだ』と申し上げました! どう取り繕おうとも、北嶽様がなさろうとしていることは、間違っています!」
「お前――ッ」
かっとして黎珠に一歩踏み出したとき、黎珠の顔色がさっと変わった。
その視線が向く先は、自分ではない。
「北嶽様!」
その呼びかけに、反応するよりも早く──左肩を、激痛とともに衝撃が貫いた。




