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「…………黎珠?」
背後からかけられた声に、硬く身をこわばらせる。
聞き覚えのある、耳に馴染んだ声だ。
鈴を転がしたような優しい旋律に、血の気が引く。
──莫迦な。何故、彼女が。
こうあって欲しい、という願望に心を支配されそうになる。
偶然という便利な単語によって、脳裏で理屈が並べ立てられる。
きっと、たまたま居合わせただけだ。
偶然。そう偶然、李を追って、ここへ来てしまっただけ。
彼女であるはずがない。
しかし。
──でも、と公正な心が反駁した。
すべてが彼女の手によるものならば、納得がいく。
雷光のような閃きが、論理が構築されてゆく。
東嶽、北嶽、西嶽、そして李の共通点。
ああ、そうだ。
彼女には、堯を──世界を憎むだけの、理由があった。
「こんなところで何をしているの、黎珠?」
重ねて訊ねられ、黎珠は背後を振り返る。
そこには普段通りの笑顔で、けれど見たこともない大振りの武器を手にした、鳳炬が立っていた。
あれは、大刀だ。偃月刀などとも呼ばれる、長い柄に幅広の片刃を付けたもの。槍と同じ、長柄武器の一つである。
鳳炬が手にした大刀の刃には、朱色の文字で何やら呪のようなものが書かれていた。その刀身に取り付けられた、青色の房から黎珠は眼が離せない。
青は──東方、青州の州色だ。
事態をいまだ呑み込めないまま、黎珠は呆然と鳳炬に言葉を返した。
「わたしは……李君を、捜して……」
「まあ、黎珠は知らなかったのね? 李は、北嶽公に毒を盛った暗殺者なのよ」
そう言って、鳳炬はにっこりと黎珠に笑いかけた。
本当に、昨日話したときと、なんら変わらない顔で。
「北嶽公だけじゃないわ。なんと、西嶽公にも毒を盛ろうとしたの。それに気づいたわたくしが、李を──」
「李君は、そのようなことはしません」
震える声で黎珠は否定する。
鳳炬は口元を笑みの形に固定したまま、ゆるりと頸を傾げた。
「人も龍も、見かけにはよらないものよ、黎珠?」
「ええ──ええ、そうですね。それは否定しません」
「でしょう? それにね、李には動機があるの。李の父親はね、あのコウエンなのよ。天武兄様を殺した、品性下劣な悪鬼の」
「存じています」
遮るように告げて、黎珠は鳳炬を見つめた。
「ですが、李君の犯行とするには、毒の入手先が不明ではないでしょうか?」
「烏頭は少し山の中に入れば、誰だって手に入れられるわ。あなたが言っていたことじゃない、黎珠」
その回答は、黎珠の期待したものではなかった。
断腸の思いで、黎珠は鳳炬に告げる。
「その通りです。ですが烏頭なら、もっと近くにあるではないですか。以前、雲将軍の薬草をいただいたとき、鳳炬様の畑でも見かけましたよ? あれは正しく処方すれば、良薬となります。ご存知でしたよね?」
黎珠の指摘に対し、鳳炬は表情を変えぬまま、低く言葉を発した。
「……わたくしには、北嶽公や西嶽公を殺す理由なんてないわ」
「確かに北嶽様は、鳳炬様が敬愛してやまない天武様のご子息です。ですが、天武様と見知らぬ女性との間の子です。それに北嶽様は、どちらかと言うと、お母様似ですよね?」
「そうだわね。どう見積もっても北嶽に、天武兄様の面影は見いだせないわ。見てくれだけでなく、中身も救いようがなく乖離している。あんなのが兄様の子だなんて、いまだに嘘なんじゃないかって思うもの」
吐き捨てるように鳳炬は告げる。
その姿から眼を背けるように、瞳を伏せて黎珠は続けた。
「そして西嶽公は天武様逃亡の際、その助けを断りました。李殿は天武様を貶めたコウエンの息子。そして東嶽公は、天武様逃亡の折に大怪我を負わせた……そうですよね?」
「黎珠は本当に、頭が良い子よねぇ」
くすくすと笑う──嗤いながら、鳳炬は大刀を掲げた。
その刃先を見つめながら、歌うような口調で黎珠に語りかける。
「そうよ。東嶽は生前あれほど兄様の世話になり、懇意にしておきながら、あっさりと掌を返したの。だから、南嶽公の葬儀で会ったとき──わたくしが葬ってやったわ」
「しかし、鳳炬様。それも西嶽公と同じように、自州の民を護るためには、仕方がなかったのではないでしょうか? 天武様と対立せねば、東嶽公にも逆賊の疑いがかけられて──」
「『仕方がなかった』? 黎珠、あなたまでそんなことを言うの? 天武兄様の死を、そんな言葉で済ませるの?」
鳳炬はそこで初めて表情を凍らせると、焦点の定まらない眼で黎珠を睥睨した。
そして一転して声を荒らげ、大刀の石突を床に打ちつける。
「兄様は正しいことをしたのよ⁉ この国の誰よりも正しいことをした! 次代の君主たる、黎峯様をお護りした! なのに寄ってたかって、この国の莫迦どもは兄様を貶めて……天に選ばれし、正当な継承者を死に追いやったのよ‼」
そう言って紅を引いた唇を歪め、彼女は断言した。
「天意に逆らうなど、思い上がりも甚だしい。その罪、万死に値する!」
「ほ、鳳炬様……」
「わたくしは、神に選ばれたの。お役目をいただいたのよ。愚民どもが住まう国を滅ぼせとね!」
「いいえ、違います! それでは新たな憎しみの連鎖を生むだけです! そんなことはきっと、天武様も望んでは──」
「お前に何がわかる!」
叩きつけるような怒声に、黎珠は息を呑む。
もはや憎悪を隠そうともせず、撥ね退けるように鳳炬は黎珠を拒絶した。
「知った風な口きかないで! あなたに何がわかるって言うの? 兄様に会ったことすらない、あなたが」
「鳳炬様……」
「この世で一番、兄様を理解しているのは、わたくしよ。わたくしが『兄様の一番』なの。……残念だわ、黎珠。主をなくしたあなたなら、きっと理解してくれると思ったのに」
うっとりとした微笑を浮かべ、鳳炬は大刀を構える。
刀身に刻まれた禍々しい血色の字を睨み、黎珠は李を庇うように背に隠した。
「鳳炬様、それは──その大刀は、獅青の槍ですね?」
「ええ、そうよ。後々必要になると思ったから、東嶽を殺したときにいただいたの」
金の双眸を細め、鳳炬は肯定する。
あふれそうになる涙を堪えて、黎珠は必死で鳳炬に懇願した。
「鳳炬様、お願いします。お考え直しください。どうかいつもの、優しい鳳炬様に──」
「黎珠はお友達だもの、殺しはしないわ。だから、すべてが終わるまで眠っていて頂戴」
会話は絶望的に噛み合わない。
為す術もなく、黎珠は獅青を手にした鳳炬を見上げた。
……駄目だ、勝てない。
その構え一つ、見ればわかる。
実力に差があり過ぎるのだ。同性では龍脈も視えず、黎珠ではとても太刀打ちできない。
鳳炬は顔面に嗜虐じみた笑みをたたえると、先に黎珠に謝罪した。
「ちょっと怪我をするかもしれないけど……ごめんなさいねぇ、黎珠」
唇の片端を釣り上げ、嗤いながら繰り出された突きは──。
甲高い金属音とともに、漆黒の刃によって阻まれた。
黎珠の眼前で、見慣れた黒衣が翻る。
「無事か⁉ 黎珠!」
「北嶽様!」
歓喜に心を震わせ、黎珠はその名を叫んだ。
──そして物語は、新たな語り部へ。




