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黎珠がすべてを話し終えても、西嶽はしばらくの間、身動きが取れずにいた。
さしもの西嶽にとっても、それは驚愕の事実だったのだろう。平素の飄々とした雰囲気とはほど遠い顔で、彼はかすれた声を発した。
「なんと……そのようなことが……」
状況を西嶽が理解したのを見計らい、黎珠はさらに重ねて告げた。
「そこで、西嶽公にお願いがございます」
「北嶽のことですね」
さすがに話が早い。
西嶽の即時の応答に、黎珠は頷き返した。
「はい。北嶽様は齢若く、玄州の諸侯を牛耳るだけのお力を、まだお持ちではありません」
「おつむも足りませんよ、公主様。礼儀も知らず、品もない。浅はかで傲慢。卑屈で横暴で、何より他者を思い遣る配慮に欠ける」
「ですが――」
言い募ろうとした黎珠を、西嶽は手で制した。
「だが、育てる価値はある。あれは苗だ。大樹となるには、少々時間をやらねばなりますまい」
〈御下命、しかと承りました。北嶽めのことは、どうぞ御心配めされぬよう〉
西嶽に続いて、そう白亜が請け負う。
「ありがとうございます、西嶽公、白亜殿」
黎珠が頭を垂れると、「お顔をお上げください」と告げて、西嶽は複雑な笑みを浮かべた。
「このようなこと、以前の私ならば考えもなかったことでしょう。しかし、今なら私にもわかります。何故、公主様ほどの御方が、あの男に価値を見出したのか。私にもわかりますよ、主上」
「その呼び方だけは、どうかご勘弁ください」
黎公主でも頭痛がするのに、さらに主上などと呼ばれては、卒倒しそうだ。
黎珠が拝み倒すようにして訴えると、西嶽はけらけらと声を立てて笑った。
「本当に、欲のない御方だ」
「……あの、前から疑問に思っていたのですが。西嶽公は、女のわたしが黎宝珠を継ぐことに、抵抗はないのですか?」
黎珠の問いに西嶽は迷いもなく、さらりと答えた。
「私は根っからの実力主義です。そこに能力がともなうならば、身分性別は気にしません。しかしまあ、これは我が州府独自の考え方ですから、他州では通用せんでしょう」
「しかしだからこそ、白州はこんなにも繁栄したのですね」
「過分なお言葉、痛み入ります」
目礼して言う西嶽を苦い表情で見送ってから、黎珠は庭先に視線を転じた。
「すみません、西嶽公。桃さんとお話しても?」
「無論です。──桃」
西嶽が声をかけると、黎珠が眼を向けた先の木陰から、ひょっこりと桃が姿を見せた。
「なあに、たま?」
「黎公主様と呼びなさい、桃」
無邪気に呼びかけた桃の呼称を、西嶽が優しく正す。
「いえ! たまがいいです! たまのままで!」
黎珠が高速で訂正すると、桃は困り果てた様子で西嶽を見つめた。
「……公? どうしよ?」
「では、お言葉に甘えさせてもらいなさい」
「うん!」
笑顔で応じると、桃は小頸を傾げて黎珠に訊ねた。
「桃に用? たま」
「はい。桃さんにぜひ、お願いしたいことがありまして」
そう言って椅子から立ち上がり、きちんと向き直ってから、黎珠は桃に乞うた。
「今後もし、北嶽様に何かがあったときは──桃さんも助けてくれませんか?」
「北嶽を、たすけるの? 桃が?」
「はい。お願いできないでしょうか?」
少し考えてから、桃はこくりと頷き、承諾した。
「……いいよ。たまのお願いだから、聞いてあげる」
「ありがとうございます、桃さん。これで安心して、北嶽様のもとを離れることができます」
そうして桃に、黎珠が笑いかけたときだった。
俄に回廊が騒がしくなり、何かを叫ぶように言葉を交わす声が庭まで届いた。
黎珠が西嶽の宮を訪れたことが、玄州官に知れたのかもしれない。
「そろそろ失礼した方が良さそうですね。それでは、わたしはこれにて」
振り返って告げた黎珠に、西嶽はにこやかな笑みを返した。
「どうぞお気をつけて。何かあれば、いつでも私をお呼びください」
〈茶の一杯も出さず、申し訳ございませんのう〉
「ふふ。どうぞお気遣いなく、白亜殿」
そう白亜に告げて庭を出ようとした黎珠は、血相を変えて登場した雲翔と鉢合わせし、その足を止めた。
「西嶽公! また毒を盛られました‼」
「なんだと⁉」
〈なんと!〉
西嶽と白亜が、同時に声を上げる。
黎珠も驚きを隠せないまま、棒立ちで雲翔の言葉に聞き入った。
「お茶をお出ししようかと思い、お淹れしたのですが、その茶葉に仕込まれました。幸い毒味が気づき、事なきを得ましたが」
「その毒味の方は大丈夫ですか?」
黎珠が問うと、雲翔はわずかに相好を崩して言った。
「すぐに吐き出しましたので、ご心配には及びません」
西嶽は腰を上げて雲翔に歩み寄ると、鋭い声音で雲翔に問いかけた。
「北嶽の一件以降、飲食の経路は徹底させていたはずだ。どこで入手した茶葉だ?」
「それが──この茶葉は、李が持参したものでして」
「李君が⁉」
黎珠が訊き返すと、雲翔は表情を曇らせて首肯した。
「はい。良い茶葉なので、ぜひ西嶽公にと」
「李が私に毒を盛るとは考えにくい。誰ぞに差し向けられたか」
即座に西嶽が呟くと、雲翔もそれに同意した。
「私も同感です。あれは頭の良い子だ。毒を盛るにしても、このやり方は稚拙に過ぎる」
つまり、毒事件の首謀者か共犯者、あるいは、それと知らず第三者が李に毒を渡した可能性があるということだ。しかし、狙いすましたように西嶽が狙われたあたり、これは前者と考えた方が良いだろう。
「北嶽様の毒事件の直後に、このような形で毒を仕込んでも成功するとは思えません。ということは、目的は西嶽公の殺害ではなく、犯行を──李君に?」
言いながら、黎珠は自分の推察に悪寒を感じた。
李には一応、動機があり、犯行も可能だ。現に一度、夏月も疑っている。
李は茶葉を受け取る際、首謀者か共犯者の顔を見た可能性が高い。この状況下、手渡しで信頼の置ける者から受け取りでもしない限り、李は安易に茶葉を持参したりはしないだろう。
ならば──李に顔を明かした黒幕は、そう長く李を生かしておくだろうか?
今、李が死ねば、すべての罪を彼に被せることができる。
「まずいな。李はどこだ?」
西嶽も、黎珠と同じ結論に至ったらしい。
険しい声での質問には、すぐに雲翔が答えた。
「恐らくは、北嶽公のもとです」
「でしたら、わたしが行きます!」
走り出そうとした黎珠だったが、その腕を雲翔が掴んで引き止めた。
「危険です。私が行きましょう。暗殺者に鉢合わせする可能性があります」
そう告げた雲翔に対し、黎珠は不敵に笑んだ。
──むしろ、望むところだ。
李に西嶽への茶葉を届けさせたということは、その者は、それなりに高位の龍だ。龍が相手であれば、黎珠はほぼ無敵である。
「だからこそです。相手は恐らく龍。そしてわたしは、元龍討師なのですから」
「しかし」
「それに雲将軍では、北嶽様の寝所に立ち入るには時間がかかります。門衛に止められるでしょう。わたしが一番早く行けます。申し訳ありません、失礼いたします!」
「待っ――」
雲翔が言い終わる前に手を振りほどき、黎珠は駆け出した。
──先ほどから、嫌な予感がする。
寝所には立ち入り禁止と言われているが、そんなもの無視だ。
寝所に着くと、幸運なことに禁止の指示は門衛に浸透しておらず、黎珠はすんなり夏月のもとにたどり着くことができた。
息を切らして室に飛び込むと、驚いた顔をした夏月が黎珠を出迎えた。
李は、見当たらない。
「お前、こっちに顔見せられるようになったのか? まあいいや、李知らねぇか?」
まさに夏月に問われ、黎珠は顔面を蒼白にして訊き返した。
「こちらに、李君はいないのですか!?」
「ああ。普段ならとっくに来てる頃だから、時間に正確なあいつにしちゃ珍しいと思って」
黎珠は絶句し、両手で口元を押さえた。
ここまで符合すれば、まず間違いはないだろう。
唯一の目撃者である李の口封じのため、連れ去られた可能性が高い。
黎珠の挙動を不審に思ったのか、顔色を窺うように黒影が言葉を発した。
〈黎珠殿、ただならぬ様子ですが、いったい――〉
「すみません、時間がありません! 仔細は雲将軍に聞いてください!」
早口で黒影に告げ、黎珠は転げるようにして寝所を飛び出した。
まだ、そう遠くへは行っていないはずだ。
取る物も取り敢えず、黎珠は心当たりの場所を片っ端から捜し回った。
厨房、倉庫、厩、黎珠の小屋。厠の中まで調べたが、李は見つからない。
冷や汗が背筋を伝い、焦りが加速度的に上昇する。
どこだ、どこだ、どこにいる。
考えろ。考えろ。考えろ。
「ッ!?」
動転し、ろくに自分がいる場所も考えずに、階段を駆け上がっていたときだ。
足元が疎かになっていた黎珠は段差に足を取られ、体勢を崩した。
勢いで足がもつれ、石畳の上で派手に転倒する。
咄嗟に受け身を取ったため、無傷だ。
肘で身体を押し上げると、黎珠は地面に手をついて身を起こした。
鼻先に、石畳が見える。
再び、強い既視感が黎珠の胸を突いた。
似たような石畳の上で、同じように過去、黎珠は這いつくばった経験がある。
あのときは、もっと古くて、ひび割れ、褪色していた。
両腕を縛られて、額に短銃を突きつけられた。
この場所は──。
「――ッ!」
弾かれたように起き上がる。
眼前には、見事な大階段が広がっている。
階段を上がった先には見事な大門があり、扉の両端には、精緻な三本爪の龍が彫られていた。
そして、そのさらに奥には──黎珠の記憶にはない、巨大な塔がそびえ立っていた。
反りの強い屋根が、一、二……五つ。五つ円筒が重なった、五重塔だ。
これだけ豪奢な建築物であるにも関わらず、周囲に人龍の気配はまったくない。
まだ建造中なのか、あるいは、完成したばかりなのだろう。
層雲宮は、山の絶壁を開拓して栄えた、玄州有数の景勝地だ。
目新しい、玲瓏たる佇まいのその塔は、さながら空中楼閣のように黎珠の眼には映った。
胸に、確信が湧く。
そうなのか、と凪いだ心で悟る。
そう――今、この刻なのだ。
黎珠は立ち上がると、ゆっくりと塔へ向けて足を踏み出した。
門をくぐり、塔の足元に到達すると、ひときわ豪華な装飾の扉が、黎珠を出迎えた。
手をかけて押すと、動く。
錠はかかっていない。
重い音を立てて扉を開けると中は暗く、光の帯とともに黎珠の影が長く伸びた。
足音を忍ばせて塔に入り、周囲を見渡す。
やはり内装は未完のようで、がらんとした暗闇が一面に広がっていた。
天井を見上げると存外高く、何か装飾らしきものがいくつも吊り下がっている。
生活の場所と言うよりは、何かの儀式──崇拝するための建物のようだ。
視線を戻し、不気味に広がった薄暗い空間を丁寧に見て回る。
しかし、誰もいない。
引き返したい衝動を必死で押さえ込みながら、黎珠は階を上がった。
あれほど急いていた足は、いつの間にか歩みに変わっている。
息を殺して一つ一つ、黎珠は各階を確認して回った。
鼓動が早まる。
咽喉の奥がちりちりと痛む。
手足が小刻みに震えて、止まらない。
その恐怖の所以を理解しながら、黎珠は歩みを進めた。
そして最上階にたどり着き、ついに、
「李君──」
埃っぽい床に無造作に横たえられた、李を発見した。
駆け寄って呼吸と脈を診るが、大事はない。
気を失っているだけだ。
「李君。良かった、無事で……」
涙声で呟いた黎珠は、
「…………黎珠?」
背後からかけられた声に、硬く身をこわばらせた。




