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「……結局、そのまま朝になったな」
頭上を仰ぎ、遠く鶏の鳴き声を聞いて夏月が呟く。
黎珠は恐縮しながら、玄関口でぺこぺこ頭を下げて言った。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません、北嶽様」
「いや、別にいいけどよ」
〈また日を改めれば良いのです。お気になさらず〉
夏月に続けて、黒影も気遣う声をかけてくれる。
ありがとうございます、と両者に礼を言ってから、黎珠は夏月の羽織の裾を引いた。
「あの、北嶽様。わたし……」
「無理に話さなくていい。話したくなったら、話してくれれば」
黎珠が顔を上げて見ると、夏月はそっぽを向いて、うっすら頬を染めている。
そんな彼に黎珠が声をかけるより早く、黒影が驚きの声を発した。
〈おお! お前も成長したな。「言わねば斬る」などと、まさに下衆の極みだったころが懐かし──ぐは!〉
「いいから、お前は黙ってろ‼」
途中で黒影を夏月が叩き、台詞が中断される。
くすくすと笑いながら掛け合いを見ていた黎珠は、ふと表情を変えると、夏月に向けてそっと言葉を紡いだ。
「ありがとうございます。確かに頂戴いたしました、北嶽様」
「ん? なんかお前にやったか、おれ?」
訊き返す夏月に、黎珠は満面の笑みで頷いた。
「はい。以前、北嶽様の笑顔を所望しましたから。先ほどの北嶽様、とても良いお顔でした。わたし、一生の宝物にします」
〈いやいやいや。それほどのものでは〉
「なんで、お前が謙遜すんだよ⁉ っとに余計なことしか言わねぇな、お前!」
すかさず黒影が否定し、それに夏月が異を唱える。
賑やかで、暖かくて、まるでかつての夏楠たちのようだ。
この光景をずっと見ていたいと思いながらも、黎珠は夏月に移動を進言した。
「北嶽様、じき諸官が起床します。そろそろお暇しましょう。お帰りは大丈夫ですか?」
「そこは問題ない。李にばっちり隠し通路聞いてある」
夏月からは明快な答えが返ってくる。
西嶽との対決もそうだったが、隠し部屋や隠し通路の類を、黎珠たちは李から情報を得ていた。
聞くところによると昔、倉庫の掃除を任された際に、古い層雲宮の図面を発見したそうだ。彼はこれを、驚くほど正確に記憶していた。
改めて、李の瞬時に見たものを記憶する力は凄まじいと実感する。
「雲将軍のときの隠し部屋といい、凄いですよね、李君は」
感嘆する黎珠に夏月も同意し、溜息まじりに言った。
「だよな。いっそあいつが北嶽だったらいいんじゃねぇかって、いつも思う」
〈だが残念なことに、現実は残念な莫迦たれが北嶽となってしまったのだった……残念極まりない〉
残念を連呼する黒影を、とうとう夏月は無視することに決めたらしい。
何事もなかったように振り返ると、晴れやかな笑顔でこう言った。
「じゃあ帰るか。二度寝する前に、面倒な風呂にも入らねぇとな」
〈二度寝するんかい!〉
即座に反応する黒影に、黎珠は笑みをこぼす。
そして名残を惜しみつつ、夏月に別れを告げた。
「それでは北嶽様、わたしはここで」
「おい」
背を向けかけた黎珠を、夏月が呼び止める。
黎珠が足を止めて振り返ると、腰をかがめて夏月は問いかけた。
「お前、化粧したか?」
「お化粧ですか? いいえ、何もしておりませんが」
言って、自分の酷い顔に思い当たった。
泣き腫れて見苦しいので、化粧で隠したらどうか、ということだろうか。
「すみません、酷い顔ですよね。あとで何かで隠して──」
「いや、そうじゃない。何もしなくていい」
「ですが、わたしの見栄えが悪いと北嶽様にご迷惑がかかりますし」
「だから、そうじゃなくて」
打ち消すことしか言えない夏月には、黒影が助け舟を出した。
〈今朝の黎珠殿は、とてもお綺麗だと言いたいのです。この莫迦は〉
「莫迦莫迦連呼すんじゃねぇ、駄剣!」
言い返す夏月を見て、また涙がこぼれ落ちそうになる。
黎珠は努めて顔をほころばせると、夏月に感謝を伝えた。
「もったいないお言葉。北嶽様には遠く及びませんが、とても嬉しいです。ありがとうございます、北嶽様」
「あ、ああ」
礼を述べると、夏月は曖昧に頷く。
そして去り際に、どこか嬉しげな様子で、こう付け加えた。
「なんか、雰囲気変わったな、お前。今の方がいい」
胸を締め付けられる思いで、黎珠は笑みを返した。
*
翌朝、黎珠は李と顔を合わせるなり、文を受け取った。西嶽からだ。
内容を確認すると、朝餉のあとに時間を作ったので、至急話をしたいとのことだった。合わせて裏口から入るための経路も書かれており、これなら今の黎珠でも接触できそうだ。
手早く朝餉を済ませて黎珠が西嶽のもとへ向かうと、何やら入り口が騒がしい。こっそり窺うと、どうやら警護の兵に朝餉を振る舞っているようだった。差し入れにしては随分と豪勢な食事である。これで一時的に、裏の警備を薄くしたのだろう。
西嶽らしい配慮に感謝しつつ、がら空きの裏口から敷地に入ると、さっそく雲翔が黎珠を出迎えた。
「お待ちしていました。こちらへ」
余計なことは口にせず、妙にかしこまった口調で雲翔が告げる。それに懸念を抱きつつも、黎珠は彼の案内に従った。
いくつかの回廊を渡り、小さな滝の流れる庭に着くと、
「よく来たね。待っていたよ」
屋外に出した小ぶりの円卓と、それ合わせて二脚並べた椅子の一方に腰かけ、西嶽が優雅に微笑んでいた。場所を野外にしたのは、前回のような盗聴を気にしてのことだろう。この庭であれば、滝が流れる音である程度の声はかき消すことができる。
「お忙しい中、お目通りいただきありがとうございます、西嶽公」
黎珠が叩頭すると、雲翔は心得たように西嶽に一礼した。
「では、私は邪魔が入らぬよう、回廊に出ております。どうぞごゆっくり」
そう言って、颯爽と来た道を戻ってゆく。
雲翔の姿が見えなくなったことを確認してから、西嶽は改めて黎珠に声をかけた。
「ようこそおいでくださいました、黎公主様。急にお呼びだてして申し訳ありません」
その口振りに途轍もない違和感を覚えつつも、黎珠は西嶽に訊ねた。
「滅相もございません。あの、それよりも……西嶽公は雲将軍に、わたしのことを?」
〈何も告げてはおりませぬよ、公主様〉
白亜の鏡が言い、西嶽が微塵も困ったように見えない困り顔で続けた。
「申し訳ありません。うちの息子は妙に勘が良いもので、このように細やかな気遣いを……。まあ、あの子なら上手く立ち回りますので、ご心配には及びませんでしょう。どうぞ、おかけください」
「失礼いたします」
言いながら、さすがは雲将軍、と内心称賛の拍手を黎珠は送る。
勧められた椅子に黎珠が着席すると、間髪入れずに西嶽は口火を切った。
「さっそく本題に入りましょう。本日お呼びしたのは、黎宝珠の頸飾りについて、公主様にお伝えせねばならぬことがあったからです」
「この黎宝珠についてですか?」
「はい。天宝貝はものを言いません。ですから私めの口から、知りうる限りのことをお伝えいたしたく」
「ぜひ、お願いいたします」
居住まいを正した黎珠の緊張を解すように、西嶽は朗らかに笑って言った。
「ちなみに公主様、私は名をソウキと申します。双璧の双に人偏の喜びで、双僖。事の是非を見極めし宝貝、白亜の鏡を継いでおります、白州西家筆頭、西双僖でございます。以後、お見知りおきを」
「こ、これはご丁寧に……」
引き攣った顔で黎珠は返すが、西嶽は気に留める様子もなく、話を続けた。
「まず、先に申し上げてしまいますが、私は黎宝珠の真の能力を存じ上げません。そもそも天宝貝は、基本的に四嶽の罷免に用い、それ以外の権能は謎に包まれております。また、四嶽の宝貝のように受け継げば必ず遣えるものでもなく、力を引き出せた者はごくわずか。──ただ、いくつかの注意点はお教えできます」
「注意点ですか?」
黎珠が復唱して訊ねると、それには白亜が応じた。
〈左様。天宝貝には、古い言い伝えがありましてのう。『黎宝珠を遣うは、天に選ばれし者のみ。黎宝珠にて天翔けるは、宝珠に護られし者のみ』と〉
「ですので今後もし、公主様が黎宝珠を扱う際は加護を得るため、肌身離さぬようお願いいたします」
「はい」
黎珠が首肯するのを見ると、西嶽は人差し指を立て、さらに話を続けた。
「そして、もう一つ。宝珠の加護は、常に所持した者にのみ与えられるものです。肝心の黎宝珠の能力がわからんので、具体的な状況をご説明できんのですが……宝珠を同時に別の者にも行使すると、その者に災が起こるそうなのです。察するに『複数で遣うな』ということだと思うのですが」
「大丈夫です。良くわかります」
言い淀む西嶽に、黎珠は迷いなく答える。
その意味は恐らく、二名や三名で刻を飛ぶことはできない、ということだろう。
例えるなら、仮に誰かとともに黎宝珠の能力で助かろうとしても、飛べるのは天宝貝を持つ黎珠のみ。宝珠を持たぬ者には何かしらの災禍が起こる、という警告に違いない。
〈この双僖が、公主様に黎宝珠の能力をお伝えできれば良かったのですがのう〉
口惜しげに言う白亜に、黎珠は頭を振って答えた。
「それでしたら、ご心配には及びません。わたしは黎宝珠の能力を、すでに知っています」
「なんと! それは重畳。もしや、例の偽者に聞いたのですかな?」
そう訊く西嶽にすぐには答えず、黎珠は一度、大きく息を吸った。
──これで、本当の意味で、すべての謎が解明される。
黎珠は声を潜めて、西嶽に語りかけた。
「この件について、実はわたしからも、西嶽公にお話しせねばならないことがあります。黎宝珠の能力だけでなく、わたしが何者で、何故ここへ来たのかを。そして、『彼』のことを」
「『彼』とは?」
訊ねた西嶽に、黎珠はすべてを決定づける、その問いを口にした。
「ただ、その前に一つだけ。北嶽様の、玉音の御名を教えていただけますか?」
そして、賽は投げられた。




