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 いまだに思う。

 層雲宮での日々は、本当に夢のようだったと。


 ――奇跡のような日々だった。

 ――まぼろしのようなはかなさがあった。

 ――祈るような哀切あいせつが満ちていた。


 夏楠は、黎珠が皇家の血を引くことを知り、これを助けた。

 黎珠は、黎宝珠の能力ちからによって、ときを駆けた。

 辻褄つじつまは合っている。


 散らばっていた破片は、あらかた手中に収めたと思う。推測は、決して的外れではない気がする。しかし、何かを決定的に、たがえているように思えてならない。

 何か──としか言いようのない、その違和感。

 何か。何かが。


(……駄目だ。眠れない)


 少し頭を冷やさねば、と小屋の外へ出る。空を仰ぎ見ると、晴れ渡った良い夜だ。星の位置から、夜明け近い刻限であることを黎珠は知った。


 ……少し、歩こうか。

 一連の騒動で強化された警備も、夏月と西嶽の近辺以外は、比較的(ゆる)んでいる。疑わしい者が多く、首謀者がなかなか見つからないため、兵を守備に割いているのだと鳳炬ホウキョから聞いた。


 分散させるより要点に集中する、その対応は理解できる。特に、西嶽に何かがあっては一大事だ。彼を無事白州へ帰すまでは、まもりに徹することにしたのだろう。


 つらつら考えて夜の散歩をしていると、闇夜に見知った姿を発見し、黎珠は驚きの声を上げた。


「ほ、北嶽様⁉」

「ぎゃあ!」


 夜目のかない夏月は、黎珠の接近に気づかなかったらしい。

 必要以上に驚かせてしまったようなので、黎珠は平身低頭、謝罪をした。


「申し訳ございません、北嶽様。このような場所でお会いできると思わず、つい、お声がけしてしまいました」

「お前、こんな時間に何してんだよ?」

〈それは黎珠殿のげんではないか?〉


 すかさず黒影が物申すが、ひとまず夏月の問いに黎珠は答えた。


「わたしは、眼がえてしまいまして。少し散歩をして、頭を冷やそうと思っておりました」

「へー、奇遇きぐうだな。おれも似たようなもんだ」

〈白々しい。イロゴトシの常套句じょうとうくだな〉


 黎珠に同調する夏月のあとに、ぼそりと黒影が呟く。

 イロゴトシ──色事師、だろうか。


「色事師とは、どのような意味ですか?」


 純粋にたずねた黎珠だが、光の速さで夏月が命じた。


「忘れろ! 即刻速やかに忘れ去れ! あと、黎珠に変な言葉教えんな、駄剣!」

〈確かに。面目ない〉


 今回ばかりは夏月に一理あったらしく、殊勝な様子の黒影に、黎珠は微笑ほほえんだ。


「何はともあれ、お会いできて良かったです。北嶽様、黒影殿」

「ほんとにな! マジで玄州官あいつら、おれの言うこと聞かねぇし! 下手すると小便にも見張り付けやがるからな。抜け出すのにすげぇ苦労したぜ」

〈それだけ警戒されるに足る存在になった、ということだろう。以前の虫螻塵屑むしけらごみくずからは格段の進歩だ。大いに喜べ〉


 ここぞとばかりに愚痴をこぼす夏月に対し、黒影は晴々とした声だ。


「黙れ、なまくら! 溶かして仏像にすっぞ!」

「ふふふ。お二方とも仲がよろしいですね」


 そのやり取りに黎珠が声を漏らすと、夏月は猛反発した。


「なわけねぇだろ! って、そうだ、黎珠。お前、時間あるよな? ちょっとおれに付き合え」

〈拒否権はなしか? まるで拉致(らち)だな〉

黒影てめえはちょっと黙っとけ! つーか、最近やけに口数多いな、お前?」

〈日頃、不細工ぶさいくな性分の男と接していると、心根の優しい女子じょしとの会話が至福でな〉


 黒影が答えると、夏月は苦虫を噛み潰したような顔で声を落とした。


「駄剣の分際で、色気づきやがって」

〈それはこちらの台詞せりふだ。お前を放置などしてみろ、即日、黎珠殿が毒牙にかけられてしまうではないか!〉

「はいはい、お二方ともそのあたりで」


 黎珠が間に割って入ると、渋々ながらも両名はいったん押し黙る。

 そして気を取り直したように向き直ると、夏月は黎珠に告げた。


「とにかく、ここで話すのもなんだ。いい場所知ってるから、おれについて来い」


 そう言って黎珠の手を取り、場所を移動する。

 そこで、おやと気づいた。歩き出した夏月に、小走りにならずに付いて行けている。

 歩幅を確認したあと、黎珠は(かたわ)らの夏月を見上げた。元来、彼は歩くのがとても早いのだ。


「おれ、名前戻そうと思うんだ」


 話を振られ、黎珠は慌てて声を発した。


「は、はい。なんの名前でしょうか?」

「『洛邑』と『斜陽宮』。おれは糞親父くそおやじなんざどうでもいいが、玄州の人間には親父あいつ、やたらと人気があんだよ」


 そう言い、夏月はまぶたを伏せる。


「変えたところで腹が膨れるわけじゃねぇが、おれの采配でできんのは、それくらいだしな。ここが糞親父くそおやじのときの名前に戻って、少しでも玄州が変わった感じがすんのは、民にもいいことかと思ってさ」

「はい、良いお考えだと思います。今、玄州の民は不安を抱いているでしょうから、どんな形であれ変化を見せるのは良いことかと」

「そうか。なら良かった」


 なごやかな会話を交わしつつ、夏月は鳳炬の蓮池近くにある離宮に黎珠をいざなった。中に入ると、少しほこり臭い。長く使われていないようだ。


 しかし、夏月は行き慣れている場所らしい。薄暗い回廊を、迷いのない足取りで進んでゆく。夏月に手を引かれて歩くうち、黎珠は強烈な既視感に、ぴたりと足を止めた。


 ──ここは、知っている。見たことがある。


「どうした?」


 振り返った夏月に、黎珠はくびを振って答えた。


「あ、いえ。あの……ありがとうございます、北嶽様」

「あ?」

「北嶽様は、御御足おみあしが長いですから。わたしに歩調を合わせてくださったのですよね」

「べ、別に。ゆっくり歩きたい気分なだけだ」


 照れたように夏月が言うと、またもやぼそりと黒影が呟いた。


かゆ台詞せりふだな〉

「あー、うぜぇー……真っ二つに折りてぇー……」

〈聞こえんな。ふむ、そろそろ頃合だぞ?〉

「よし。黎珠、今からいいもん見せてやる」


 楽しげに扉の前に立った夏月を見て、黎珠は笑みをこぼした。

 とっておきの宝物を見せる前の、小童こどものような顔だ。

 この扉の先に、何かがあるらしい。


「いいもの、とは?」

「それは見てからのお楽しみだ。ほら、入れよ。手入れされてねぇへやだから、足元気をつけろよ」

「はい」


 手招きする北嶽に従って、黎珠は扉をくぐる。

 そして、言葉を失った。


 憶えのある室内。外の景色を最大限にせる間取り。大きな明かり取りの窓と、そこから差し込む薄紅色の光は、黎珠の記憶のままだ。


 ここへ何度も暗殺に訪れて、そのたびに失敗して。

 最後は夜通し泣いて、れた眼にその光景を焼き付けた。

 ……ここは、夏楠のへやだ。


「ちょっと待ってろよ」


 夏月はそう言って窓に寄り、そのふちに手をかける。音を立てて窓枠を押し上げると、その先には荘厳な風景が広がっていた。


 ──朝雲ちょううん、層となりし龍の宮。

 まさしく眼下に、美しく折り重なった雲の帯が、地平線までつらなっていた。新たな朝の訪れとともに、空が色づき始めている。


「いい景色だろ?」


 夏月が視線で示す先を、黎珠は身を乗り出して見つめた。

 紺青からあかねへと光り輝く世界。

 記憶のままの景色だ。


「ほ、北嶽様……これは……」

「ここからの眺めが、一番好きなんだ」


 曙光しょこうを全身に浴びながら、穏やかに夏月がささやいた。

 知っている。知っている。知っている。

 この声を、この横顔を。

 わたしは知っている。


「一度、お前に見せたかった」


 呼吸も忘れて、黎珠が見上げた先で。

 夏月は──()()()




 ――黎公主、真実ニ至レリ。




 唐突に。

 しかし、閃光のような確信が胸を突く。


 ああ、もし。

 恋に落ちた瞬間があったとすれば。

 それはきっと、このときだったのだろう。


「黎珠? どうした?」

〈いかがなされた、黎珠殿?〉


 夏月と黒影が、不思議そうにたずねてくる。

 黎珠は音もなく、はくはくと唇を動かした。


 何を言う?

 何を告げればいい?

 想いばかりが込み上げてくる。

 涙がとめどなくあふれて、止まらない。


 ──夏楠カナン

 あなたは、だから──()()()


「っふ……うぁっ…………ふわあぁぁぁぁぁぁん‼」


 突如、号泣し始めた黎珠に、夏月はぎょっとして声を裏返らせた。


「お、おいッ!」

〈……お前、今度は何をした?〉

「いや、何もしてねぇよ! ……多分」


 少しばかり、自信なげに付け足す。

 その声が。

 表情が。

 仕草が。

 全部。


「ふえぇぇぇぇぇぇぇぇん‼」

「な、泣くなよ、黎珠。落ち着け、ちょっと落ち着け。な?」


 しゃくりあげながら、なんとか落ち着きを取り戻そうと黎珠は鼻をすする。

 そのさまを見て「よしよし」と頷くと、夏月は改めて黎珠に問いかけた。


「じゃあ、なんで泣いたのか理由わけを言ってみろ。おれは莫迦ばかだし、字が読めなけりゃ品もねぇし、何ひとつ、満足にできない北嶽だけどな。それでも、お前と一緒に考えることくらいはでき──」

「うわあああああああああああああぁん‼」


 再び、火が付いたように黎珠は泣き出す。

 それを見て、黒影がぽつりと夏月に言った。


〈悪化したぞ?〉

「なんでだよッ⁉ おれ今、すげーいいこと言っただろ⁉」

〈日ごろの行いが悪い所為せいではないか?〉


 やれやれと黒影が嘆息し、夏月が戸惑い、黎珠は泣く。

 ただただ、泣き続ける。

 泣き続けた。




 ――天命は下った。

 ――天意にうか、あらがうか。


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