54
いまだに思う。
層雲宮での日々は、本当に夢のようだったと。
――奇跡のような日々だった。
――幻のような儚さがあった。
――祈るような哀切が満ちていた。
夏楠は、黎珠が皇家の血を引くことを知り、これを助けた。
黎珠は、黎宝珠の能力によって、刻を駆けた。
辻褄は合っている。
散らばっていた破片は、あらかた手中に収めたと思う。推測は、決して的外れではない気がする。しかし、何かを決定的に、違えているように思えてならない。
何か──としか言いようのない、その違和感。
何か。何かが。
(……駄目だ。眠れない)
少し頭を冷やさねば、と小屋の外へ出る。空を仰ぎ見ると、晴れ渡った良い夜だ。星の位置から、夜明け近い刻限であることを黎珠は知った。
……少し、歩こうか。
一連の騒動で強化された警備も、夏月と西嶽の近辺以外は、比較的緩んでいる。疑わしい者が多く、首謀者がなかなか見つからないため、兵を守備に割いているのだと鳳炬から聞いた。
分散させるより要点に集中する、その対応は理解できる。特に、西嶽に何かがあっては一大事だ。彼を無事白州へ帰すまでは、護りに徹することにしたのだろう。
つらつら考えて夜の散歩をしていると、闇夜に見知った姿を発見し、黎珠は驚きの声を上げた。
「ほ、北嶽様⁉」
「ぎゃあ!」
夜目の利かない夏月は、黎珠の接近に気づかなかったらしい。
必要以上に驚かせてしまったようなので、黎珠は平身低頭、謝罪をした。
「申し訳ございません、北嶽様。このような場所でお会いできると思わず、つい、お声がけしてしまいました」
「お前、こんな時間に何してんだよ?」
〈それは黎珠殿の言ではないか?〉
すかさず黒影が物申すが、ひとまず夏月の問いに黎珠は答えた。
「わたしは、眼が冴えてしまいまして。少し散歩をして、頭を冷やそうと思っておりました」
「へー、奇遇だな。おれも似たようなもんだ」
〈白々しい。イロゴトシの常套句だな〉
黎珠に同調する夏月のあとに、ぼそりと黒影が呟く。
イロゴトシ──色事師、だろうか。
「色事師とは、どのような意味ですか?」
純粋に訊ねた黎珠だが、光の速さで夏月が命じた。
「忘れろ! 即刻速やかに忘れ去れ! あと、黎珠に変な言葉教えんな、駄剣!」
〈確かに。面目ない〉
今回ばかりは夏月に一理あったらしく、殊勝な様子の黒影に、黎珠は微笑んだ。
「何はともあれ、お会いできて良かったです。北嶽様、黒影殿」
「ほんとにな! マジで玄州官ら、おれの言うこと聞かねぇし! 下手すると小便にも見張り付けやがるからな。抜け出すのにすげぇ苦労したぜ」
〈それだけ警戒されるに足る存在になった、ということだろう。以前の虫螻塵屑からは格段の進歩だ。大いに喜べ〉
ここぞとばかりに愚痴をこぼす夏月に対し、黒影は晴々とした声だ。
「黙れ、なまくら! 溶かして仏像にすっぞ!」
「ふふふ。お二方とも仲がよろしいですね」
そのやり取りに黎珠が声を漏らすと、夏月は猛反発した。
「なわけねぇだろ! って、そうだ、黎珠。お前、時間あるよな? ちょっとおれに付き合え」
〈拒否権はなしか? まるで拉致だな〉
「黒影はちょっと黙っとけ! つーか、最近やけに口数多いな、お前?」
〈日頃、不細工な性分の男と接していると、心根の優しい女子との会話が至福でな〉
黒影が答えると、夏月は苦虫を噛み潰したような顔で声を落とした。
「駄剣の分際で、色気づきやがって」
〈それはこちらの台詞だ。お前を放置などしてみろ、即日、黎珠殿が毒牙にかけられてしまうではないか!〉
「はいはい、お二方ともそのあたりで」
黎珠が間に割って入ると、渋々ながらも両名はいったん押し黙る。
そして気を取り直したように向き直ると、夏月は黎珠に告げた。
「とにかく、ここで話すのもなんだ。いい場所知ってるから、おれについて来い」
そう言って黎珠の手を取り、場所を移動する。
そこで、おやと気づいた。歩き出した夏月に、小走りにならずに付いて行けている。
歩幅を確認したあと、黎珠は傍らの夏月を見上げた。元来、彼は歩くのがとても早いのだ。
「おれ、名前戻そうと思うんだ」
話を振られ、黎珠は慌てて声を発した。
「は、はい。なんの名前でしょうか?」
「『洛邑』と『斜陽宮』。おれは糞親父なんざどうでもいいが、玄州の人間には親父、やたらと人気があんだよ」
そう言い、夏月は瞼を伏せる。
「変えたところで腹が膨れるわけじゃねぇが、おれの采配でできんのは、それくらいだしな。ここが糞親父のときの名前に戻って、少しでも玄州が変わった感じがすんのは、民にもいいことかと思ってさ」
「はい、良いお考えだと思います。今、玄州の民は不安を抱いているでしょうから、どんな形であれ変化を見せるのは良いことかと」
「そうか。なら良かった」
和やかな会話を交わしつつ、夏月は鳳炬の蓮池近くにある離宮に黎珠を誘った。中に入ると、少し埃臭い。長く使われていないようだ。
しかし、夏月は行き慣れている場所らしい。薄暗い回廊を、迷いのない足取りで進んでゆく。夏月に手を引かれて歩くうち、黎珠は強烈な既視感に、ぴたりと足を止めた。
──ここは、知っている。見たことがある。
「どうした?」
振り返った夏月に、黎珠は頸を振って答えた。
「あ、いえ。あの……ありがとうございます、北嶽様」
「あ?」
「北嶽様は、御御足が長いですから。わたしに歩調を合わせてくださったのですよね」
「べ、別に。ゆっくり歩きたい気分なだけだ」
照れたように夏月が言うと、またもやぼそりと黒影が呟いた。
〈痒い台詞だな〉
「あー、うぜぇー……真っ二つに折りてぇー……」
〈聞こえんな。ふむ、そろそろ頃合だぞ?〉
「よし。黎珠、今からいいもん見せてやる」
楽しげに扉の前に立った夏月を見て、黎珠は笑みをこぼした。
とっておきの宝物を見せる前の、小童のような顔だ。
この扉の先に、何かがあるらしい。
「いいもの、とは?」
「それは見てからのお楽しみだ。ほら、入れよ。手入れされてねぇ室だから、足元気をつけろよ」
「はい」
手招きする北嶽に従って、黎珠は扉をくぐる。
そして、言葉を失った。
憶えのある室内。外の景色を最大限に魅せる間取り。大きな明かり取りの窓と、そこから差し込む薄紅色の光は、黎珠の記憶のままだ。
ここへ何度も暗殺に訪れて、そのたびに失敗して。
最後は夜通し泣いて、腫れた眼にその光景を焼き付けた。
……ここは、夏楠の室だ。
「ちょっと待ってろよ」
夏月はそう言って窓に寄り、その縁に手をかける。音を立てて窓枠を押し上げると、その先には荘厳な風景が広がっていた。
──朝雲、層となりし龍の宮。
まさしく眼下に、美しく折り重なった雲の帯が、地平線まで連なっていた。新たな朝の訪れとともに、空が色づき始めている。
「いい景色だろ?」
夏月が視線で示す先を、黎珠は身を乗り出して見つめた。
紺青から茜へと光り輝く世界。
記憶のままの景色だ。
「ほ、北嶽様……これは……」
「ここからの眺めが、一番好きなんだ」
曙光を全身に浴びながら、穏やかに夏月が囁いた。
知っている。知っている。知っている。
この声を、この横顔を。
わたしは知っている。
「一度、お前に見せたかった」
呼吸も忘れて、黎珠が見上げた先で。
夏月は──笑った。
――黎公主、真実ニ至レリ。
唐突に。
しかし、閃光のような確信が胸を突く。
ああ、もし。
恋に落ちた瞬間があったとすれば。
それはきっと、このときだったのだろう。
「黎珠? どうした?」
〈いかがなされた、黎珠殿?〉
夏月と黒影が、不思議そうに訊ねてくる。
黎珠は音もなく、はくはくと唇を動かした。
何を言う?
何を告げればいい?
想いばかりが込み上げてくる。
涙がとめどなく溢れて、止まらない。
──夏楠。
あなたは、だから──だから。
「っふ……うぁっ…………ふわあぁぁぁぁぁぁん‼」
突如、号泣し始めた黎珠に、夏月はぎょっとして声を裏返らせた。
「お、おいッ!」
〈……お前、今度は何をした?〉
「いや、何もしてねぇよ! ……多分」
少しばかり、自信なげに付け足す。
その声が。
表情が。
仕草が。
全部。
「ふえぇぇぇぇぇぇぇぇん‼」
「な、泣くなよ、黎珠。落ち着け、ちょっと落ち着け。な?」
しゃくりあげながら、なんとか落ち着きを取り戻そうと黎珠は鼻をすする。
そのさまを見て「よしよし」と頷くと、夏月は改めて黎珠に問いかけた。
「じゃあ、なんで泣いたのか理由を言ってみろ。おれは莫迦だし、字が読めなけりゃ品もねぇし、何ひとつ、満足にできない北嶽だけどな。それでも、お前と一緒に考えることくらいはでき──」
「うわあああああああああああああぁん‼」
再び、火が付いたように黎珠は泣き出す。
それを見て、黒影がぽつりと夏月に言った。
〈悪化したぞ?〉
「なんでだよッ⁉ おれ今、すげーいいこと言っただろ⁉」
〈日ごろの行いが悪い所為ではないか?〉
やれやれと黒影が嘆息し、夏月が戸惑い、黎珠は泣く。
ただただ、泣き続ける。
泣き続けた。
――天命は下った。
――天意に添うか、抗うか。




