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「あぁ……はあ……あぁぁ……うう……あああああぁ……」


 ひとまず夏月の寝所に戻ってきた黎珠は、うめきながら同じ場所をぐるぐると周回していた。


「お前、いつまでそうやってるつもりだ?」

〈一夜にして奴婢ぬひから次期皇帝になったのだ。当然の反応だろう〉


 黒影は言うが、夏月は納得しかねるように金の眼を伏せた。


「おれは、あんなにゃならなかったけどな」

〈それは、お前が後先考えん阿呆あほだからだ!〉

「考えたって、なっちまったもんは仕方ねぇだろ。おい、黎珠。あんま気にすんな。どうせお前、しばらくはおれの奴婢のまんまだ」


 そう夏月に声をかけられたものの、反応を返せずに黎珠はひざかかえてうずくまった。


「はあぁ……ふう……あうう……あー……」

「…………黎公主サマー」

「やめてください北嶽様ーッ‼」


 がばっと振り返り、夏月に抗議する。

 その様子に笑みを浮かべ、夏月は励ますように黎珠の肩を叩いた。


「気にし過ぎだ、どんと構えてろ。それに、おれのことも北嶽じゃなくて、名前で呼んで──」

「いえいえいえいえいえいえッ‼ 滅相もございません! ぜひ北嶽様で! 北嶽様の方向で! 北嶽様は北嶽様であらせられますからッ‼」


 冗談ではない。

 夏月まで名呼びなどしようものなら、精神崩壊を起こしてしまう。

 断固たる固辞こじに対し、渋い顔をした夏月を見逃さずに、黎珠はさらに言葉を重ねた。


「それに、くせでうっかり出てしまっては大変です! 盗聴の危険もありますし、周囲に気取られないためにも、ここは普段からしっかり北嶽様で通すべきかと!」

「まあ、それもそうか……」


 あまり乗り気ではなさそうだが、納得してくれたようだ。良かった。


「じゃ、黎珠。ちょっと奥に──」

〈気がかりと言えば、残る毒騒動の首謀者だが。黎公主様はいかがお考えだろうか?〉


 何か言いかけた夏月を遮り、黒影にたずねられる。

 それに黎珠は苦笑して問い返した。


「あのう、黒影殿も『黎公主様』はやめていただけますか? 普通に黎珠でお願いします」

〈それではお言葉に甘えて、黎珠殿のお考えを聞いても?〉

「申し訳ないですが、そちらに関してはさっぱりです。北嶽様と西嶽公を良く思っていない、この宮中の者だろう、くらいしか……」


 黎珠が言うと、横で不服そうに黒影を眺めていた夏月が、ふと口を開いた。


「それについては、心当たりがある」

「なんと! 北嶽様は、毒を盛った者は誰だとお考えなのですか?」


 黎珠が詰め寄ると、夏月は言いにくそうに間を置いてから、意外な者の名を口にした。


「……李」

「まさか。李君がそのようなことをするとは考えられません。何故、北嶽様はそのようにお考えになったのです?」

「ああ、お前は知らねぇのか」


 夏月はに落ちたように言うと、衝撃の事実を黎珠に語った。


あいつの実の親父おやじ孝燕コウエンを殺したのが、おれだからだ」

「李君が……孝燕殿の、子……?」


 そうか──()()()

 言われてみれば、確かによく似ている。

 思えば最初に会ったとき、黎珠は李の顔に既視感を覚えていた。似た者と、どこかで会ったような気はしていたのだ、あのときに。


 夏月は遠くを見るように視線を投げると、淡々と黎珠に告げた。


「おれは、李の目の前で父親を殺した。だから、あいつだけは、おれに復讐する権利がある」

「それなのに、李君をお側に置いていたのですか?」


 黎珠が問うと、夏月はどこか達観したような──夏楠によく似た微笑を浮かべて答えた。


「それだから、側に置いてたんだよ。おれは、李の地位も何もかも奪ったんだ。あれだけ頭が良くて、欠子けっしとは言え孝燕の子だったんだ。順当にいきゃ、次の北嶽になる可能性だってあった。それを台無しにしたんだ。……おれはずっと、あいつにだけは殺されても仕方ねぇし、文句も言えねぇと思ってた。親を殺された憎しみは、わかるしな」

「ですが、李君が北嶽様に毒を盛るとは、わたしには思えません」


 黎珠が同意しかねて言うと、黒影もそれにうなずくように告げた。


〈黎珠殿の言う通りだ。その推理では、お前はとうの昔に死んでいるだろう。相手が李であれば、毒を仕込む機会は無限にあったはずだ〉

「李は根が良いやつだ。気も弱い。だからそのことで、今までずっと悩んでたんじゃねぇか? で、こないだの茶席でついに腹を決めたって考えりゃ、筋が通る」

「では、西嶽公に罪を着せようとした件については?」


 西嶽は、李のを高く評価していた。彼に罪を着せて毒殺する理由は、李にはないはずだ。

 黎珠の問いに、夏月はよどみなくその根拠を伝えた。


「孝燕が死んだあと、一時的に西嶽が介入して、孝燕の息がかかった官吏を一掃いっそうしたんだよ。それで、あいつは後ろ盾をすべて失ってる。母親は李が生まれてすぐに死んでるしな」


 確かにそれなら、筋は通るかもしれないが──やはり李を知る身としては、違和感がある。

 少なくとも黎珠には、李が夏月を恨んでいるとは思えなかった。むしろ逆で、好意を持っているように見えたぐらいだ。


「北嶽様。この件、わたしにお任せいただけますか? 明日、李君に本心を確認します」


 黎珠が申し出ると、夏月は柔らかく笑って、それを了承した。


「お前、なつかれてるもんな。じゃあ、頼むわ」

「はい! お任せくださいませ」

〈では話がまとまったところで、もうこのような時間だ。早々に休み、明日のための英気をやしなった方が良いだろう。色々と今日の疲れも溜まっているだろうしな〉


 黒影のげんはもっともだ。

 西嶽との対決のあと、夏月も疲れから苛々(いらいら)していたようだし、今日は早めに床に入った方が良い。


「あっ、てめ──」

「黒影殿の言う通りですね。明日のためにも、今日は休みましょう!」


 黎珠も黒影にならい、夏月の言葉は聞かなかったことにして就寝にかじを切った。


 夏月はまだ起きていたいようだが、疲労が溜まってはいけない。

 夏月は自身で着替えることを好むため、このまま寝間にいると黎珠は邪魔になる。すぐに退散することとしよう。


「それでは、わたしはこれで失礼いたします。おやすみなさいませ、北嶽様」

〈ほれ! 黎珠殿がこう言っておられるぞ! お前も御休おやすみの挨拶をせんか!〉


 黒影にかされ、夏月は仏頂面で黎珠に告げた。


「……おやすみ。また明日な」


 不満げな様子の夏月に一礼し、黎珠は寝所をあとにした。

 やはり、今日の夏月は疲れていたのだろう。





 翌朝、黎珠は水汲みを終えると、真っ先に李のもとへ向かった。

 この時分、李は配膳の器の確認のため、厨房にいるはずだ。以前は昼まで自由時間だったが、後宮が閉鎖されて以降、夏月は朝餉あさげを食べるようになっている。その準備だ。


 厨房に着き、見知った顔を見つけると、黎珠はすぐに声をかけた。


「おはようございます、李君」


 李は、黎珠に気づくと笑顔で頭を下げた。


「李君、北嶽様には許可をいただいてますので、少し時間をもらっていいですか?」


 善は急げだ。

 さっそくそう持ちかけると、李は不思議そうな表情を見せつつも、黎珠の誘いに応じた。李と手をつないで厨房を出て、鳳炬ホウキョの蓮池に似た池のほとりに腰を下ろす。ここは夏月の寝所に近く、奥まっていて通行する者も滅多にいない。


 池で泳ぐ、まるまるとしたかもの親子に視線を投じつつ、黎珠は李に切り出した。


「あのですね、李君。これから話すことは、決して口外しないと約束します。ですから正直な気持ちを、わたしに教えて下さい」


 李に、搦手からめては使いたくない。

 黎珠は直球で、彼に核心をたずねた。


「単刀直入にきます。李君は、お父上のかたきである北嶽様を、どう思っていますか?」


 その問いで、李はすべてを察したようだった。

 寂しげな笑顔を見せると、逆に黎珠に問い返した。


『ぼくが、北嶽さまに毒をもったと?』

「わたしはそうは思っていません。だからこそ、李君に直接確認するために時間をもらいました。教えてはくれませんか?」

『その前に教えてください。北嶽さまは、ぼくを恨んでいましたか?』


 それに対し、黎珠ははっきりとくびを振って否定した。


「いいえ、ちっとも。李君からすべてを奪ってしまって、申し訳なさそうなご様子でした。むしろ、李君が北嶽様を恨んでいるのではと」

『そうですか』


 短く書き連ねると、そこで李はいったん筆を止める。

 そして何かを振り切るように、話の矛先ほこさきを変えて書き始めた。


『おねえさんは、ぼくの父がどんな男だったか知ってますか?』

「伝聞ばかりで、あまり詳しくは」

『ほんとうに、ひどかったですよ。息子のぼくが言うのもなんですが、殺されて当然のやつでした。北嶽さまなんて目じゃないくらい、悪逆の限りをつくして、玄州を壊したんです』


 綺麗きれいな文字で、流れるように言葉が紡がれてゆく。


『天武さまに汚名をきせて、殺して、自分を北嶽といつわって、州公の座についた。でも、だれも父の独裁に異を唱えることはできませんでした。異を唱えた者は、かたっぱしから一族みな殺しにされましたから。当時、玄州が誇った名だたる名臣は、残らず父に惨殺されました』


 黎珠が黙読する先で、李は瞳を伏せて続ける。


『まわりのみんな、実の子のぼくですら、父が怖くて怖くて。毎日ふるえながら過ごしてました。次はどんな怖いことが起こるんだろうって。それで次の日、廊下をとおると、庭にだれかの屍体がぶら下がってるんです。毎日がそんなで、そんな血が、ぼくにも流れてるなんて……ほんとうにおぞましい』

「李君……」


 声を漏らした黎珠に応じることなく、筆は進む。


『でも、やっぱり天は公平でした。王母さまは悲劇を好むけれど、悪は決してゆるさない。父は、北嶽さまが討ちとりました。北嶽さまは乱暴者かもしれないけど、勇敢な方です。ずっと、だれにもできなかったことをしてくれた。ぼくらを救ってくれた。なのにだれも、北嶽さまにお礼の一つも言いません。手のひらを返したように、心の中で北嶽さまを見下している……あの丞相じょうしょうみたいに。そしてそれを、北嶽さまはちゃんと承知しています』


 かすれた筆にすみを含ませ、懸命に文字を連ねてゆく。


『北嶽さまのお母さまは、ひどい殺され方をしたって聞きました。そのかたきの子のぼくを生かしてくれたばかりか、北嶽さま、恨みごとの一つも口になさらないんですよ? そんな方を、どうして恨むことがあるでしょうか』


 文字が、わずかに乱れる。

 それでも速さを損なうことなく、李は書き続けた。


『北嶽さまがぼくを助けたのは、ただの気まぐれだって、みんなは言います。それでもいい。それで構いません。ぼくはその気まぐれが、とても嬉しかった。涙が出るほど嬉しかったんです。だって、』


 そう書いた字の上に、ぽたりとしずくが落ちる。

 にじんだ文字の横に、さらに言葉が書き記された。


『だってそんな気まぐれ、起こしてくれたのは北嶽さまだけだったから。ぼくは欠子で、ずっといらない子だったから。死ねばよかったって、いつも言われていたから。父が死んで、憎悪を感じたことがあったとすれば──それは父が死んだときに、ほんのわずかでも悲しいと思ってしまった、自分自身に対してです。断じて、北嶽さまに恨みなどありません』


 ぱたぱたと涙を落として、帳面にたくさんの染みを作りながら書き切ると、李は最後に黎珠を見上げた。


『ぼくは、うまくしゃべれないから。おねえさんから、北嶽さまに伝えてもらえますか? ぼくは、北嶽さまのこと大好きだって』

「もちろんです」


 その気持ちを、健気けなげさ思うと、たまらなく胸が締め付けられる。

 両手でそっと李を抱き寄せると、ふるえる声で黎珠は告げた。


「つらいことを思い出させてしまって、ごめんなさい。でも、李君の気持ちを聞けて良かったです。本当に良かった……これで、北嶽様に真実をお伝えできます」


 そう言って身体からだを離すと、黎珠は李の涙を拭い、笑いかけた。


「これからも一緒に北嶽様にお仕えしましょうね、李君」


 それに、李は満面の笑みでこたえた。


 その後は他愛のない会話を交わし、お互い涙が引いたところで、黎珠は李と別れた。すんすん鼻をすすりつつ、庭園を裏から回り込むように歩いていると、思いがけない光景に出くわして足を止める。


 朝日を浴びてたたずむ、その黒髪の青年は、


「北嶽様?」


 驚いて黎珠が呼びかけると、夏月はきまりの悪そうな顔で、ぼそぼそとしゃべった。


「あー。その、気になって……」


 見れば、衣服は寝間着のままだ。

 起床してからずっと、付近をうろうろしていたらしい。

 爪先つまさきに視線を落とし、落ち着かない様子でもじもじする夏月を見て──黎珠はなんだか泣きたい気持ちで、へらりと笑った。


「北嶽様──」


 不器用なあるじに吉報を届けるべく、黎珠は夏月に駆け寄った。


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