52
「あぁ……はあ……あぁぁ……うう……あああああぁ……」
ひとまず夏月の寝所に戻ってきた黎珠は、呻きながら同じ場所をぐるぐると周回していた。
「お前、いつまでそうやってるつもりだ?」
〈一夜にして奴婢から次期皇帝になったのだ。当然の反応だろう〉
黒影は言うが、夏月は納得しかねるように金の眼を伏せた。
「おれは、あんなにゃならなかったけどな」
〈それは、お前が後先考えん阿呆だからだ!〉
「考えたって、なっちまったもんは仕方ねぇだろ。おい、黎珠。あんま気にすんな。どうせお前、しばらくはおれの奴婢のまんまだ」
そう夏月に声をかけられたものの、反応を返せずに黎珠は膝を抱えてうずくまった。
「はあぁ……ふう……あうう……あー……」
「…………黎公主サマー」
「やめてください北嶽様ーッ‼」
がばっと振り返り、夏月に抗議する。
その様子に笑みを浮かべ、夏月は励ますように黎珠の肩を叩いた。
「気にし過ぎだ、どんと構えてろ。それに、おれのことも北嶽じゃなくて、名前で呼んで──」
「いえいえいえいえいえいえッ‼ 滅相もございません! ぜひ北嶽様で! 北嶽様の方向で! 北嶽様は北嶽様であらせられますからッ‼」
冗談ではない。
夏月まで名呼びなどしようものなら、精神崩壊を起こしてしまう。
断固たる固辞に対し、渋い顔をした夏月を見逃さずに、黎珠はさらに言葉を重ねた。
「それに、癖でうっかり出てしまっては大変です! 盗聴の危険もありますし、周囲に気取られないためにも、ここは普段からしっかり北嶽様で通すべきかと!」
「まあ、それもそうか……」
あまり乗り気ではなさそうだが、納得してくれたようだ。良かった。
「じゃ、黎珠。ちょっと奥に──」
〈気がかりと言えば、残る毒騒動の首謀者だが。黎公主様はいかがお考えだろうか?〉
何か言いかけた夏月を遮り、黒影に訊ねられる。
それに黎珠は苦笑して問い返した。
「あのう、黒影殿も『黎公主様』はやめていただけますか? 普通に黎珠でお願いします」
〈それではお言葉に甘えて、黎珠殿のお考えを聞いても?〉
「申し訳ないですが、そちらに関してはさっぱりです。北嶽様と西嶽公を良く思っていない、この宮中の者だろう、くらいしか……」
黎珠が言うと、横で不服そうに黒影を眺めていた夏月が、ふと口を開いた。
「それについては、心当たりがある」
「なんと! 北嶽様は、毒を盛った者は誰だとお考えなのですか?」
黎珠が詰め寄ると、夏月は言いにくそうに間を置いてから、意外な者の名を口にした。
「……李」
「まさか。李君がそのようなことをするとは考えられません。何故、北嶽様はそのようにお考えになったのです?」
「ああ、お前は知らねぇのか」
夏月は腑に落ちたように言うと、衝撃の事実を黎珠に語った。
「李の実の親父、孝燕を殺したのが、おれだからだ」
「李君が……孝燕殿の、子……?」
そうか──そうだ。
言われてみれば、確かによく似ている。
思えば最初に会ったとき、黎珠は李の顔に既視感を覚えていた。似た者と、どこかで会ったような気はしていたのだ、あのときに。
夏月は遠くを見るように視線を投げると、淡々と黎珠に告げた。
「おれは、李の目の前で父親を殺した。だから、あいつだけは、おれに復讐する権利がある」
「それなのに、李君をお側に置いていたのですか?」
黎珠が問うと、夏月はどこか達観したような──夏楠によく似た微笑を浮かべて答えた。
「それだから、側に置いてたんだよ。おれは、李の地位も何もかも奪ったんだ。あれだけ頭が良くて、欠子とは言え孝燕の子だったんだ。順当にいきゃ、次の北嶽になる可能性だってあった。それを台無しにしたんだ。……おれはずっと、あいつにだけは殺されても仕方ねぇし、文句も言えねぇと思ってた。親を殺された憎しみは、わかるしな」
「ですが、李君が北嶽様に毒を盛るとは、わたしには思えません」
黎珠が同意しかねて言うと、黒影もそれに頷くように告げた。
〈黎珠殿の言う通りだ。その推理では、お前はとうの昔に死んでいるだろう。相手が李であれば、毒を仕込む機会は無限にあったはずだ〉
「李は根が良いやつだ。気も弱い。だからそのことで、今までずっと悩んでたんじゃねぇか? で、こないだの茶席でついに腹を決めたって考えりゃ、筋が通る」
「では、西嶽公に罪を着せようとした件については?」
西嶽は、李のを高く評価していた。彼に罪を着せて毒殺する理由は、李にはないはずだ。
黎珠の問いに、夏月はよどみなくその根拠を伝えた。
「孝燕が死んだあと、一時的に西嶽が介入して、孝燕の息がかかった官吏を一掃したんだよ。それで、あいつは後ろ盾をすべて失ってる。母親は李が生まれてすぐに死んでるしな」
確かにそれなら、筋は通るかもしれないが──やはり李を知る身としては、違和感がある。
少なくとも黎珠には、李が夏月を恨んでいるとは思えなかった。むしろ逆で、好意を持っているように見えたぐらいだ。
「北嶽様。この件、わたしにお任せいただけますか? 明日、李君に本心を確認します」
黎珠が申し出ると、夏月は柔らかく笑って、それを了承した。
「お前、懐かれてるもんな。じゃあ、頼むわ」
「はい! お任せくださいませ」
〈では話がまとまったところで、もうこのような時間だ。早々に休み、明日のための英気を養った方が良いだろう。色々と今日の疲れも溜まっているだろうしな〉
黒影の言はもっともだ。
西嶽との対決のあと、夏月も疲れから苛々していたようだし、今日は早めに床に入った方が良い。
「あっ、てめ──」
「黒影殿の言う通りですね。明日のためにも、今日は休みましょう!」
黎珠も黒影に倣い、夏月の言葉は聞かなかったことにして就寝に舵を切った。
夏月はまだ起きていたいようだが、疲労が溜まってはいけない。
夏月は自身で着替えることを好むため、このまま寝間にいると黎珠は邪魔になる。すぐに退散することとしよう。
「それでは、わたしはこれで失礼いたします。おやすみなさいませ、北嶽様」
〈ほれ! 黎珠殿がこう言っておられるぞ! お前も御休みの挨拶をせんか!〉
黒影に急かされ、夏月は仏頂面で黎珠に告げた。
「……おやすみ。また明日な」
不満げな様子の夏月に一礼し、黎珠は寝所を後にした。
やはり、今日の夏月は疲れていたのだろう。
*
翌朝、黎珠は水汲みを終えると、真っ先に李のもとへ向かった。
この時分、李は配膳の器の確認のため、厨房にいるはずだ。以前は昼まで自由時間だったが、後宮が閉鎖されて以降、夏月は朝餉を食べるようになっている。その準備だ。
厨房に着き、見知った顔を見つけると、黎珠はすぐに声をかけた。
「おはようございます、李君」
李は、黎珠に気づくと笑顔で頭を下げた。
「李君、北嶽様には許可をいただいてますので、少し時間をもらっていいですか?」
善は急げだ。
さっそくそう持ちかけると、李は不思議そうな表情を見せつつも、黎珠の誘いに応じた。李と手を繋いで厨房を出て、鳳炬の蓮池に似た池のほとりに腰を下ろす。ここは夏月の寝所に近く、奥まっていて通行する者も滅多にいない。
池で泳ぐ、まるまるとした鴨の親子に視線を投じつつ、黎珠は李に切り出した。
「あのですね、李君。これから話すことは、決して口外しないと約束します。ですから正直な気持ちを、わたしに教えて下さい」
李に、搦手は使いたくない。
黎珠は直球で、彼に核心を訊ねた。
「単刀直入に訊きます。李君は、お父上の仇である北嶽様を、どう思っていますか?」
その問いで、李はすべてを察したようだった。
寂しげな笑顔を見せると、逆に黎珠に問い返した。
『ぼくが、北嶽さまに毒をもったと?』
「わたしはそうは思っていません。だからこそ、李君に直接確認するために時間をもらいました。教えてはくれませんか?」
『その前に教えてください。北嶽さまは、ぼくを恨んでいましたか?』
それに対し、黎珠ははっきりと頸を振って否定した。
「いいえ、ちっとも。李君からすべてを奪ってしまって、申し訳なさそうなご様子でした。むしろ、李君が北嶽様を恨んでいるのではと」
『そうですか』
短く書き連ねると、そこで李はいったん筆を止める。
そして何かを振り切るように、話の矛先を変えて書き始めた。
『おねえさんは、ぼくの父がどんな男だったか知ってますか?』
「伝聞ばかりで、あまり詳しくは」
『ほんとうに、ひどかったですよ。息子のぼくが言うのもなんですが、殺されて当然のやつでした。北嶽さまなんて目じゃないくらい、悪逆の限りをつくして、玄州を壊したんです』
綺麗な文字で、流れるように言葉が紡がれてゆく。
『天武さまに汚名をきせて、殺して、自分を北嶽と偽って、州公の座についた。でも、だれも父の独裁に異を唱えることはできませんでした。異を唱えた者は、かたっぱしから一族みな殺しにされましたから。当時、玄州が誇った名だたる名臣は、残らず父に惨殺されました』
黎珠が黙読する先で、李は瞳を伏せて続ける。
『まわりのみんな、実の子のぼくですら、父が怖くて怖くて。毎日ふるえながら過ごしてました。次はどんな怖いことが起こるんだろうって。それで次の日、廊下をとおると、庭にだれかの屍体がぶら下がってるんです。毎日がそんなで、そんな血が、ぼくにも流れてるなんて……ほんとうにおぞましい』
「李君……」
声を漏らした黎珠に応じることなく、筆は進む。
『でも、やっぱり天は公平でした。王母さまは悲劇を好むけれど、悪は決してゆるさない。父は、北嶽さまが討ちとりました。北嶽さまは乱暴者かもしれないけど、勇敢な方です。ずっと、だれにもできなかったことをしてくれた。ぼくらを救ってくれた。なのにだれも、北嶽さまにお礼の一つも言いません。手のひらを返したように、心の中で北嶽さまを見下している……あの丞相みたいに。そしてそれを、北嶽さまはちゃんと承知しています』
かすれた筆に墨を含ませ、懸命に文字を連ねてゆく。
『北嶽さまのお母さまは、ひどい殺され方をしたって聞きました。その仇の子のぼくを生かしてくれたばかりか、北嶽さま、恨みごとの一つも口になさらないんですよ? そんな方を、どうして恨むことがあるでしょうか』
文字が、わずかに乱れる。
それでも速さを損なうことなく、李は書き続けた。
『北嶽さまがぼくを助けたのは、ただの気まぐれだって、みんなは言います。それでもいい。それで構いません。ぼくはその気まぐれが、とても嬉しかった。涙が出るほど嬉しかったんです。だって、』
そう書いた字の上に、ぽたりと雫が落ちる。
滲んだ文字の横に、さらに言葉が書き記された。
『だってそんな気まぐれ、起こしてくれたのは北嶽さまだけだったから。ぼくは欠子で、ずっといらない子だったから。死ねばよかったって、いつも言われていたから。父が死んで、憎悪を感じたことがあったとすれば──それは父が死んだときに、ほんのわずかでも悲しいと思ってしまった、自分自身に対してです。断じて、北嶽さまに恨みなどありません』
ぱたぱたと涙を落として、帳面にたくさんの染みを作りながら書き切ると、李は最後に黎珠を見上げた。
『ぼくは、うまくしゃべれないから。おねえさんから、北嶽さまに伝えてもらえますか? ぼくは、北嶽さまのこと大好きだって』
「もちろんです」
その気持ちを、健気さ思うと、たまらなく胸が締め付けられる。
両手でそっと李を抱き寄せると、震える声で黎珠は告げた。
「つらいことを思い出させてしまって、ごめんなさい。でも、李君の気持ちを聞けて良かったです。本当に良かった……これで、北嶽様に真実をお伝えできます」
そう言って身体を離すと、黎珠は李の涙を拭い、笑いかけた。
「これからも一緒に北嶽様にお仕えしましょうね、李君」
それに、李は満面の笑みで応えた。
その後は他愛のない会話を交わし、お互い涙が引いたところで、黎珠は李と別れた。すんすん鼻をすすりつつ、庭園を裏から回り込むように歩いていると、思いがけない光景に出くわして足を止める。
朝日を浴びて佇む、その黒髪の青年は、
「北嶽様?」
驚いて黎珠が呼びかけると、夏月はきまりの悪そうな顔で、ぼそぼそと喋った。
「あー。その、気になって……」
見れば、衣服は寝間着のままだ。
起床してからずっと、付近をうろうろしていたらしい。
爪先に視線を落とし、落ち着かない様子でもじもじする夏月を見て──黎珠はなんだか泣きたい気持ちで、へらりと笑った。
「北嶽様──」
不器用な主に吉報を届けるべく、黎珠は夏月に駆け寄った。




