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「じゃ、あとはお前の判断に任せる。雲翔」
夏月の呼びかけに応じ、雲翔は悲痛な面持ちで室に足を踏み入れた。
絶句し、息子を見つめる西嶽を見て、黎珠は自身の推測が正しかったことを知る。
「父上」
西嶽公、ではなく、父上、と。
そう口にした雲翔に、西嶽は音を立てて椅子から立ち上がった。
「なっ……雲翔、お前いつから──」
取り乱した様子の西嶽に、黎珠は静かな声で告げた。
「初めからでございます、西嶽公。わたしにご学友の話をしてくださった、あのときから北嶽様と一緒に聞いていただきました」
「なんだと……」
西嶽は言葉を失い、呆然とした顔で黎珠を見た。
高位の龍の宮、それもあまり友好的ではない玄州の用意した室に、盗聴の可能性があることは西嶽も承知していたはずだ。事実、李に聞いたその仕組みを使い、夏月は話を聞いていた。しかし──彼の想定は、あくまで玄州側による盗聴だ。
たとえ、北嶽である夏月が白州官に盗聴を頼んだとしても、誰も見向きもしなかっただろう。その真偽に関わらず、西嶽が不利になるような行動を実行する者は、白州にはいない。いない、はずだったのだ──ただ一名を除いて。
立ち上がったまま身動きできない西嶽に、夏月は言った。
「西嶽、あんたの息子は自慢するだけあって、本当に出来た男だったよ。何せ、このおれが言うことも真面目に聞くんだからな。正直、おれはいくら北嶽の立場があっても、雲翔がおれの話を聞くとは思わなかったぜ。玄州の丞相だって、こうはいかねぇしな。すげぇよ、ほんと」
手放しで褒める夏月に、雲翔は俯いたまま頸を左右に振った。
「いいえ。私はただ、父の汚名を晴らしたい一心で、北嶽公の話に乗ったに過ぎません。決して、話を信じたわけではありませんでした」
「信じる信じないは、お前の自由だ。んなことより、おれの話を聞くってことが重要なんだよ。身分や損得勘定抜きで、真剣に話を聞いたってことがさ」
「お褒めいただき光栄です、北嶽公」
そう言い、雲翔は綺麗な所作で頭を下げる。
黎珠は西嶽に視線を移し、雲翔の名誉のために付け加えた。
「北嶽様もおっしゃった通り、ご子息は誠実な方です。外で控えているよう命じた言葉を無視し、盗み聞きしているなどとは思いもしなかったことでしょう。事実、北嶽様がなんの働きかけもしなければ、雲将軍とて、このようなことは考えもしなかったはずです」
黎珠が言い終えると同時に、雲翔は顔を上げ、父である西嶽を正面から見据えた。
痛みをともなった、しかし迷いのない声音で、はっきりと告げる。
「父上。私は、北嶽公とこの娘の言い分に、理があると思います。過去を悔い、玄州の民を慮る父上のお気持ちは理解できますが、北嶽公を弑せんとするのはやり過ぎです。父上の統べる地は、この玄州ではないのですから」
そして床に膝を付き、深く頭を垂れて続けた。
「お願いします、父上。どうか罪をお認めになってください。白賢師と呼ばれ、他に類を見ぬ公正さと民に言わせしめた、稀代の西嶽公として。そして、私の敬愛する父上のままで。どうか──」
その悲痛な訴えに、西嶽は頬を緩めて息子を見返した。ゆっくりと、実に優美な仕草で椅子に座り直す。腰を下ろすと、西嶽は固唾を呑んで見守っていた黎珠に視線を投じた。
「なあ、娘。私と雲が共謀だとは考えなかったのかね?」
「無論です。雲将軍の太刀筋は真っ直ぐで、そのご気性も温厚篤実、公明正大です。まさしく、西嶽公がおっしゃる通りの御仁でございます」
そう、黎珠は微塵も疑わなかった。
よほどの無礼でも働かない限り、夏月が真剣に話しかけさえすれば、雲翔は必ず耳を傾けるであろうことを。
「ですから、確信がありました。雲将軍だけは、断じてこのような行為を許しはしないだろうと。知っていれば、必ずお止めになったはずです。もし、わたしが西嶽公であれば、絶対に雲将軍には言いません。それどころか、万が一にも露見した場合を考え、周囲の誰にも秘密にします。自分の不手際で、白州の民にいらぬ苦労をかけるわけにはいきませんから」
そうすれば、何かあった場合、罪を問われるのは己だけになる。官吏を含め、白州は一切事件に関与していないと証言し、被害を最小限に抑えることができる。例外は、桃だけだ。
「そして、確信はもう一つ。西嶽公は、とても良いお父様です。雲将軍を拝見すれば、公がいかに心を込めて将軍をお育てになったか、よくわかります。それほど大切な、財宝にも勝る存在に影を落とすような真似を、西嶽公は絶対になさりません」
言葉を切り、黎珠は息を吸って、西嶽に訊ねた。
「罪をお認めくださいますね? 西嶽公」
深く、長い溜息のあとに。
西嶽は夏月に眼を向け、こう言った。
「罪を認めよう。済まなかったね、北嶽。お前の好きに裁け。甘んじて受けよう」
「申し訳ありません、父上……」
深く項垂れる雲翔に、西嶽は晴々とした笑顔を向けていった。
「何を言うか。実の父に対しても正しい判断をしたお前を、私は誇らしく思うよ。それよりも、のちの白州を頼む。次代の西嶽はお前だ」
「公……」
消え入りそうな声で、桃が西嶽の袖を引いた。
いかに西嶽と言えど、州公の殺害を企てたのだ。恐らく西嶽の位は剥奪となり、運が悪ければ幽閉、極刑になる可能性すらある。
両眼いっぱいに涙を溜めた桃に、西嶽は優しく微笑みかけた。
「お前も、私の私怨に付き合わせて済まなかった。命だけは助かるよう、私が掛け合うから安心なさい。お前はただ、私の命に逆らえず従っていただけだからね」
「そんなことないよ! 桃、ちゃんとわかってた。わかって、北嶽を殺そうとしたもん! 桃も、桃も公といっしょに、ちゃんと裁かれる!」
ぽろぽろと桃は涙を流す。
その様を眺めていた夏月は、居心地が悪そうな顔で西嶽を呼んだ。
「あー……盛り上がってるとこ悪いけどな、西嶽」
そう前置きし、実にあっさりとした声音で言い放つ。
「今回は不問にしてやるよ。この話は、ここにいる面子だけの秘密にする。だよな?」
最後はこちらに顔を向けた夏月に、黎珠は大きく頷いた。
「はい、北嶽様」
「よ、よろしいのですか、北嶽公?」
白州陣営が呆気にとられる中、雲翔が上擦った声で問いかける。
それに、夏月は尊大に頷いてみせた。
「おう。ただし、条件がある」
「聞こう。何が望みだ?」
すかさず問う西嶽に、夏月は即答した。
「調印で駄目になった、堤の工事。あれは進められないにしても、近隣の民をなんとかしたい。だから、あんたの融通がきく範囲でいい。金をくれ。とにかく玄州には金がねぇんだ。一切合切、ぜんぶ金で手を打ってやる」
金の亡者のような夏月の台詞に続け、黎珠は言を添えた。
「加えて、今後は北嶽様のお命を脅かすことなきよう、ご誓約くださいませ」
「あーそれ大事な! それは今、ここで名に誓えよ、西嶽?」
「要求はそれでいいのか?」
心底意外そうな顔で西嶽が訊く。
それに、夏月は艶美に唇を釣り上げて言った。
「ああ、それで赦してやる。だが、出費は結構な額になるぞ? 覚悟しておけ、西嶽」
「ああ、我が名に誓おう。以後、貴公の命を脅かすようなことはしない。今後は可能な限り、その力になることを約束しよう」
誓約した西嶽とともに、雲翔は夏月に叩頭して礼を述べた。
「ご恩情、ありがとうございます。北嶽公」
一連のやり取りを見届けた黎珠は、拳を握って夏月を見上げた。
「やりましたね、北嶽様!」
「おう。あとは手に入れた金を、糞丞相と阿呆官吏どもに取られねぇようにしねぇとな」
お互い声が弾んでしまう。
考えていた中でも、最上の成果を出すことができたのだ。
勝利に沸く黎珠たちを見守っていた西嶽は、不意にばつが悪そうな顔で夏月に声をかけた。
「すまん、北嶽。恥を承知で一つだけ弁明させてくれないか?」
「あん?」
「以前、お前を毒殺しようとしたのは私だ。しかし、先日の茶会で毒を盛ったのは、私ではない」
それについては、すでに夏月と確認済みだ。
彼自身が言ったように、『西嶽は関与していない』というのが黎珠と夏月の共有認識である。
「ああ、それはわかってる。西嶽にしちゃ、あのやり方は杜撰だ」
「加えて、あの犯行の狙いには北嶽様殺害だけでなく、犯行を西嶽公に見せかける意図もあったものと愚考いたします」
黎珠の発言に、西嶽は神妙な面持ちで首肯した。
「それは私も同意見だ。あのとき偶然お前が居合わせなければ、北嶽の横にいた私が疑われた可能性は高い」
「あー、糞丞相は言いそうだな。てか現にあんとき、白州がどうの喚いてたしな、あいつ」
苦い顔で夏月が言うと、雲翔もそれに追随して口を開いた。
「ちち──西嶽公には前科がありますから、痛い腹を探られれば、場合によっては裁かれていたやもしれません」
「機会なら別にあっただろうに、あえてあの茶席を選んだということは、私にも恨みがあったのやもな」
独り言のように呟いた西嶽に、黎珠は声を低めて注意をうながした。
「西嶽公も、白州へお帰りになるまで身辺にはお気をつけください」
「ああ、それが良さそうだ」
黎珠に頷き返した西嶽を見ると、夏月はこれで終いとばかりに手を叩いて言った。
「んじゃ、今夜はこれでお開きだ。あんまりおれらが連んでっと、周りが騒いで煩せぇし」
「そうですね。わたしどもは退散いたしましょう」
退室するため黎珠が立ち上がると、今まで沈黙を保っていた桃が嬉しげな声を上げた。
その場でぴょんぴょん飛び跳ね、
「桃、話はよくわかんなかったけど、なんかいい感じになって、よかった! 北嶽が元気なのだけ、しゃくだけど」
「おま、誰のおかげで助かったと思ってんだ⁉ てめえも、おれに感謝しやがれ!」
北嶽である夏月が怒ろうとも、龍討師である桃は態度を変えない。
可愛らしい仕草で、ぷいっと桃は顔を背けた。
「つーん」
「この女!」
「まあまあ、北嶽様。桃さんはわたしのお友達なので、わたしの顔に免じてここは」
黎珠が夏月をなだめると、桃はぱっと表情を輝かせて訊き返した。
「桃、たまの友だち? やったぁ!」
無邪気に喜ぶ桃に気が削がれたのか、夏月は口をへの字に曲げて押し黙った。
和やかな空気に包まれ、さあ、お暇しようかと黎珠が扉に視線を向けたとき──突然、それは起こった。
〈これにて一件落着、かのう?〉
脳に、直接響くように言葉が届く。
老爺のような、その声音に憶えはない。憶えはないが──酷く懐かしい感覚に、黎珠は呼気を止めてその場に立ち尽くした。
〈そのようで。途中、どうなることかと冷や冷やしましたが〉
老爺に応じるように、今度は記憶にある男の声が聞こえる。
忘れもしない。これは『黒影の剣』の声だ。
黒影に同調するように、老爺の声──『白亜の鏡』は告げた。
〈うむ。黙りくさってただ成り行きを見守るというのも、骨が折れるもんじゃわい。が、何はともあれ、終わり良ければすべて良しじゃ〉
「今回はやけに静かだと思ったら、そういうことかよ」
小さく漏らす夏月を咎めるように、西嶽が声を上げる。
「北嶽!」
「へいへい」
肩を竦める夏月を、黎珠は信じられない気持ちで見つめた。
予期せぬ事態に、まだ頭が追いつかない。
黎珠が硬直している間も、宝貝たちは会話を繰り広げてゆく。
懐かしい、夏楠を諭すときのような口振りで、黒影は夏月に言った。
〈西嶽公はともかく、お前は下手に口出ししようものなら、逆上してすべて台無しにしかねんだろうが〉
〈いやいや、こう見えて此奴も頑固でな。一度こうと決めたら、梃子でも動かんのだ。お互い主には苦労するのう、黒影〉
〈いやはや、まったくです、白亜殿〉
ここで、ようやく黎珠の硬直は解けた。
あれほど聞こえなかった黒影の声が、今は、はっきりと聞こえる。
「こっ、こ、ここここここここッ⁉」
「どうした、今度は。鶏の真似か?」
〈この流れで、それはなかろう〉
夏月と黒影が、それぞれ言葉を発する。
驚きのあまり、夏月の羽織をびんびん引っ張りながら黎珠は告げた。
「あああの、ほほ北嶽様と西嶽公に、おお折り入って、お話ししたいこことが」
「今からかよ? 明日でいいだろ、そんなの。さっさと寝所に戻んぞ」
「いえ! 今! 多分きっと、間違いなく今がよろしいかと!」
「えぇー……」
夏月は渋るが、これはさすがに後回しにできない。
そうこうしているうちに、黒影が低音で夏月に問いかけた。
〈……お前、何かいかがわしいことを考えてはおるまいな?〉
「お前の話は、明日ゆっくり聞いてやっから。今日はとりあえず帰ろうぜ?」
〈話を聞けい! この色魔が!〉
無視して黎珠に話しかける夏月に、黒影が怒声を飛ばす。
ああ、途轍もなく既視感のある光景だ。
〈はて。少々様子がおかしいのう? これは聡い娘じゃし、話を聞いてやったらどうじゃ、ソウキ?〉
挙動がおかしい黎珠を見かねて、白亜がそんな提案をする。
ソウキ、というのは西嶽の名だろう。ひょんなことで本名が判明してしまった。何かの拍子に口を滑らせないか心配だ。できれば、永遠に知りたくなかった情報である。
黎珠は、顔面を引き攣らせて西嶽に懇願した。
「是非とも! 是非とも、お願い申し上げます! 西嶽公‼」
「こんなに必死に言うんだから、聞いてあげようじゃないか、北嶽。──雲、桃、席を外してくれるかい?」
西嶽が乞うと、雲翔と桃は揃って素直に従った。
「承知いたしました」
「はーい。またね、たま」
室を後にする二名を見送ると、夏月は急かすように黎珠の背中を叩いた。
「んじゃ、さっさとその話を終わらせて帰るぞ。なんだよ、今じゃなきゃ駄目な話って?」
〈何やら調子が悪そうだが、大丈夫だろうか〉
夏月に続き、黎珠を心配するように黒影が呟く。
二名──いや四名の視線を受けて、黎珠はゆっくりと口を開いた。




