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西嶽が待つ室は、やはり州公ということもあり、ちょっとした広間のような空間だった。品良く整えられた調度品に囲まれて、中央に円卓と椅子が配置されている。外の守りが堅いからか、室内に護衛は見当たらない。
ゆったりと椅子に腰掛け、優雅に茶を啜りながら、西嶽は振り返った。
「おや、その羽織り」
入室するなり、西嶽は黎珠の羽織りに目を留めた。
玄州に属する者の衣服は、官吏から奴婢に至るまで黒色だ。雲翔に借りた羽織りは白いので、ひと目で黎珠の物ではないとわかる。
黎珠は床に敷かれた絨毯の上に正座し、西嶽に応じた。
「はい。雲将軍がお貸しくださいました」
「だと思った。良い男だろう、雲は?」
「はい。それはもう」
「なんたって、この僕が手塩にかけて育てたからな。雲の名だって、あれも僕が三日三晩考えて付けたものなんだぞ」
黎珠の返答に気を良くしたのか、西嶽は茶杯片手に饒舌に語る。
「龍の子は、親の名から字や韻を踏襲するものだが、我が家は少々特殊でね。直系の男子は全員、まったく同じ呼び名なんだよ。祖父も、父も、兄も、僕もみんな同じ。さすがに飽きてね。だから僕は子を持ったら、自分で考えた、とびきり良い名を付けようと心に決めていたんだ。ま、あの子は僕と同じ名が欲しかったようだがね」
言って黎珠に視線を送り、西嶽は訊ねた。
「雲を翔ける──良い名だろう?」
「はい、本当に」
そこには、いささかも異論はない。
黎珠が首肯すると、西嶽は身体を黎珠に向けてこう言った。
「さて、雑談はこのくらいにしておこう。思い返せば、そもそもお前を生かした理由は、世間に慣れさせるためだったね。どうだ、学びは得られたか?」
「おかげさまで、大変勉強になりました」
「それは良かった。では本題に入ろう」
穏やかだった声音を鋼に変え、西嶽は黎珠に問うた。
「私の問いに答えよ。お前は、いったい何者だ? ただの田舎娘ではなかろう?」
「何者、と申されましても……。以前お答えした通り、しがない田舎の山育ちの、龍討師見習いでございます。特にお伝えできるようなことはございませんが」
そう答えると、西嶽は半眼で黎珠を見下ろし、呟くように言った。
「白いか。嘘ではないようだが、解せんな。本来、龍討師たちは、使命を遂行するだけの人形であるはずだが……」
「おっしゃる通りです。わたしも以前は、ただの人形でした」
「それを変えたのが、例の偽者か。お前以上に、私はその男に興味をそそられるが……そのあたり、お前は情報操作されているようだからね。話を聞く限り、偽者は頭の回転も早そうだ。今のお前から、これ以上有益な情報は得られんだろう」
西嶽の台詞に、黎珠は沈黙を貫いた。
実際のところ、この解釈は間違っているのだが、下手に口を出して藪蛇になっては元も子もない。
座して聞く黎珠に、西嶽は続けてこう言った。
「では、もう一つの用件だ。お前、私のもとへ来い」
「はい?」
綿毛のような軽さで言われ、すぐに反応できない。
黎珠の間抜けな声を気にもとめず、西嶽は淡々と勧誘を繰り返した。
「私の官奴婢になれと言ったのだ。これ以上、あの北嶽に仕えても碌なことにならんぞ? 今朝の一件に限らず、身に沁みてわかったはずだ。このまま失うには、お前の才は惜しい」
「それは──過分な評価をいただき、恐悦至極でございます」
まさか、西嶽がそこまで買ってくれているとは思わなかった。
叩頭して恐縮する黎珠を、西嶽はすげない口調で両断した。
「謙遜はいい。返答を聞こうか」
「恐れながら、その前に確認したきことがございます」
そう言い、黎珠は顔を上げて西嶽を見つめた。
「何故、西嶽公は、そんなにも玄州を気にかけてくださるのですか?」
その問いに、西嶽は片眉を上げて黎珠を見返した。
構わず、黎珠は核心に切り込んだ。
「此度の調印、白州にも益はあるとは言え、手間や負担を考えれば、随分と玄州に配慮した内容であったと愚考いたします。さらには、西嶽公は調印のため、わざわざ玄州を訪問までされています。費用の負担は白州の方が多く、より困窮しているのは玄州なのですから、むしろ北嶽様を白州へと呼び付けられたはずです。にもかかわらず、西嶽公がこちらにいらしてまで、玄州に尽力くださるのは何故でしょうか?」
物怖じせず告げる黎珠に、西嶽は苦笑を漏らした。
「実に良い質問だ。玄州の莫迦どもの中において、その問いをしたのはお前と、もう一名だけだよ」
「李君ですね?」
「あはは。本当に、奴婢とは思えん賢しさだな、お前は。良かろう。少々長くなるが、話してやる」
そう言うと西嶽は黎珠から視線を外し、遠い眼をして宙を見上げた。
しばしの間、何かを思い出すように瞳を閉じた西嶽は、瞼を上げると静かに話し始めた。
「玄州は、私にも思い入れのある地なのだよ。天武の父は、私の大切な友でね。一時期は、机を並べて勉学に励んだときもあった」
「夏──天武様の父君は、西嶽公のご学友だったのですか」
「そうとも。性格は見事に真逆だったが、あいつとは妙に馬が合ってね。皆に将来を嘱望された、本当にいい奴だった。頭が切れて剣の腕も一流で、しかも公明正大な気質の主だ。ああ、もちろん雲翔には負けるが」
息子自慢に口を綻ばせる黎珠を見つつ、西嶽は続ける。
「あいつがおかしくなったのは、奥方が下劣な人間の暴行を受け──天武を身籠ったことが発端だった。さらに不運なことに、奥方は天武の出産後まもなく、亡くなってしまってね。あいつはどうしても、天武を愛することができなかったのだろう。結果、名門北家の嫡男でありながら、天武の扱いは人と同じか、それ以下だった。龍としては最低の生活だ。その後、あいつと後妻との間に生まれたのが、孝燕だった」
「では、天武様と孝燕殿は──」
「腹違いの兄弟ということになる」
その発言に黎珠が驚く間もなく、西嶽は当時の夏楠と孝燕について語った。
「なまじ苦労したぶん、天武は謙虚で聡明な、優しい子だった。人に育てられたせいか、とりわけ人間贔屓でね。だが、孝燕はその真逆だった。残忍で狡猾で、悪知恵だけは恐ろしく働く男だったよ。息をするように、実になめらかな嘘をつき、周囲を欺くのが抜群に上手かった。加えて直系の龍にありがちな、気位の異常に高い奴でね。だから余計に、優秀な天武が憎かったのだろう。……正直、死んだ今でもあいつは好かん」
吐き捨てるように言った西嶽に、黎珠は眉根を寄せた。
ということは、孝燕は夏楠と合わせて黎珠も騙していたことになる。嘘を徹底していた、と言われればそれまでだが、にわかには信じ難い。
黙考する黎珠をよそに、西嶽はさらに語った。
「私は天武を可愛がった。そして月日は過ぎ、友の死とともに次代の北嶽が定まった。孝燕ではなく、天武にだ。北嶽は血筋によって受け継がれる。暴徒との混血だと思われていた天武は、そこで初めて直系の血筋であることが証明された。長らく誤解を受けていたが、あの子は正しく、友と奥方の子だったのだよ。だがその事実が、孝燕を残虐な獣へと走らせた」
「それが、天武様の死ですね」
黎珠の合いの手に、西嶽は頷いた。
「そうだ。天武は奸計に嵌められた。実の弟の手で逆臣、果ては国賊にまで貶められたのだ。あの子は類稀なその才華を発揮することなく、短い生涯を閉じた。以後、堯国で他の追随を許さぬほど豊かだった玄州は、わずか数十年で正視に耐えぬほど衰退してしまった」
そこまで話すと、西嶽はそっと瞳を伏せた。
「私が玄州を気にかけるのはね、そんな天武と、友への罪滅ぼしだ。今でも夢に見ることがある。天武が私を頼って助けを求めて来たとき、何故、私はその手を振り払ってしまったのかと。あのとき私が匿っていれば、あの子が真の北嶽であるという事実と、その無実を公にできたはずだった」
「西嶽公が、無下に天武様を追い払うとは思えません。何か理由がおありだったのでは?」
黎珠が問うと、西嶽は渋い表情で口を開いた。
「言い訳をさせてもらうならば──当時の白州はまだ貧しかった上に、北嶽は孝燕ということになっていた。ただの犯罪者ならともかく、国家の逆賊となった天武を白州で匿うことは、どうしてもできなかった。お咎めなしで追い返すのがやっとでね。つまるところ、私は保身のために天武を切ったのさ」
語り終えると、西嶽はがらりと声を明るく転じ、黎珠に訊ねた。
「さて。この物語の教訓は、いったいなんだとお前は思うね?」
「……わかりかねます」
視線を逸らす黎珠に、西嶽ははっきりとした口調で言い切った。
「私はこう思った。『どうしようもない屑に情けなんぞかけると、それが仇となり、かえって悪い結果となる』とね。いくら出来が悪かろうとも、友の子だから、天武の弟だからと──下手な恩情をかけた自分を呪ったよ。このような結果となるなら、早々に始末すれば良かった」
「それが理由ですか?」
「うん?」
黎珠の問いに、西嶽は頸をかしげた。
黎珠は、一州を統治することがどれほど困難で重い任であるか、知る由もない。そして、現在の玄州の惨状も知らないとは言えない。むしろ、黎珠が見聞きした玄州の状態はほんの一部で、実際はさらに悪いのかもしれない。
数え上げれば、きりがない。
しかし、それをおしてなお、黎珠は西嶽に切り込んだ。
「あなたが、北嶽様を弑せんとした理由です」
「お前のそういう気が強いところ、私はけっこう好感を持っているよ」
西嶽は怒りも焦りも見せず、悠然と微笑んだ。
「そう、仮にお前の指摘が正しかったとして。確かに、私がそう考えても不思議ではない状況であったことは認めよう。あの小僧は天武の子であることが疑わしいほど、怠惰を極め享楽を貪ることにしか興味を示さなかった。かような暗愚をのさばらせては、確実に孝燕の二の舞になる。ならば、さっさと北嶽の座を次に回した方が賢明だ」
「それで、桃さんを仕向けたのですか?」
さらなる追い打ちをかける黎珠に、西嶽は笑みを深めた。
優美な仕草で、ゆるりと背後を振り返る。
「よろしい。出なさい、桃」
西嶽が声をかけると、音もなくその人物は灯火の前に姿を見せた。
奴婢である黎珠のそれと、同じ衣装。しかし団子状にまとめられていた赤毛は、今は無造作に肩に垂れている。感情の薄い、茫洋とした鳶色の瞳は、忘れもしない。
「桃さん」
黎珠が名を呼ぶと、桃はかすかに口端を持ち上げた。
「歩きかた、ちゃんと変えたのに。よくわかったね、たま」
「はい。わたしも出自は同じですから。それに以前、桃さんは『寒い』と言っていたでしょう? 夜半ならまだしも、陽の出ている洛邑を、玄州の人龍は寒いとは思いませんよ。わたしが『寒い』と言うのを耳にしたのは、桃さんと、西嶽公だけです」
「そうなの。公、ごめんなさい」
ぺこんと頭を下げた桃に、西嶽は頭を振って笑いかけた。
「構わんよ。あの娘のところへ行けと命じたのは私だ。それに、お前は白罌粟に毒されていた期間が長かった。これ以上を望むのは酷というものだ」
「やはり白罌粟の香には、人の思考を止める働きがあるのですね」
黎珠が言うと、西嶽は即座に双眸を鋭くして言った。
「人だけではない。あれは人龍の心を殺す作用がある。おまけに毒抜きには、酷い苦痛をともなう麻薬だ。桃の場合は三日三晩、両手足を寝台に括り付けて毒を抜いたが……お前もそうだったのかね?」
「わたしは大怪我を負って、生死の境を彷徨っておりましたから。さほど記憶にございません」
とは言え、やはり死ぬほど苦しかったのは事実だが。
苦笑した黎珠に対し、今度は桃が口を開いた。
やや、舌っ足らずの愛らしい語調で、
「たま。たまには、里あった? 桃はね、真砂の里だったよ」
「はい。わたしは風花の里でした」
「お役目、あった?」
「ありました」
黎珠の返答を聞き、桃は諭すように言葉を連ねた。
「あのね。悪しき龍は、殺さなきゃ、なんだよ?」
「その良し悪しが、わたしには付けられないのです。今こうしているのも、立場を変えれば悪なのでしょう。そのように曖昧なものだからこそ、迷いながらも、わたしはわたしの心に正直に生きたい……わかるでしょうか?」
黎珠の問いかけに、桃はふるふると頸を左右に振った。
「わかんない。だって、みんな、あいつは死ねばいいって思ったよ? 桃も、そう思ったよ?」
「それでもです。それでも、わたしはそうは思えないのです」
「お前は本当に我が強い娘だな。いっそ清々しささえ感じる」
溜息とともに西嶽が横槍を入れる。
そんな彼を真正面から見据え、毅然とした声で黎珠は問いただした。
「そうして龍は、あなたは、龍討師を影で操るのですか? 『あれは悪しき龍だ』と吹き込んで」
昔、黎珠がまだ獄法山で暮らしていたとき、里長は言った。
我ら龍討師は、人のために在るのではない、と。
あれは、こういう意味だったのだ。
「公は悪くないよ! たま!」
反論する桃を手で制し、厳かに西嶽は告げた。
「否定はしない。そうして我々龍は、幾度となく龍討師を利用し、使い捨ててきた。それは紛れもない事実だ。だがどうしても、私には桃の力が必要だった」
「そうですね。過去、毒殺されかかったことで、北嶽様は飲食を警戒されています。類稀な剣才を持つ北嶽様を弑するには、もはや桃さんに頼るほかありません。しかし、だからこそ、わたしは承服しかねるのです。北嶽様を謀殺しようとしたことも、桃さんを殺害に利用したことも」
そんな黎珠の弾劾すら、西嶽が否定することはなかった。
甘んじて受け、苦く笑う。
「弁明はせん。お前は正しい。だが残念なことに、綺麗事で務まるほど州公の任は甘くないのだよ。たとえ外道に堕ちてでも、私には為さねばならぬことがある」
「我らの主張は、どうやら交わりそうにございませんね?」
「ああ、実に残念だ」
頷き返すと、西嶽は改めて黎珠に問いを発した。
「では、そろそろ答えを聞こう。私に下るか、否か」
黎珠の答えをわかっていて、最後に余地を残す西嶽の配慮は、決して冷酷な州公のそれではない。彼はもともと有能で、善良な西嶽なのだ。
けれど、黎珠の回答は決まっていた。
「否やでございます」
告げると西嶽は無表情のまま、横に立つ桃に視線を移した。
「すべては覚悟の上か。──桃」
声を受け、桃が両手に武器を構えた。
木の葉のような形をした小さな刃は、見憶えがある。
黎珠の飛刀と並び、代表的な龍討師の暗器──鏢だ。
殺気を放つ桃に対し、黎珠は丸腰な上、枷をかけられている。
そんな絶体絶命の状況を打ち破ったのは、その場にいるはずのない第三者だった。
「そこまでだ、西嶽」
扉を蹴破らん勢いで北嶽、すなわち、夏月は登場した。




