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その後の衆議は工事の再検討が決まり、比較的短時間での解散となった。
これで、また一からの話し合いとなってしまったが、今後の玄州のためにも背に腹は代えられない。対する白州も、隣接した玄州が荒れれば流出した難民などで被害を受ける。両者合意の上での再検討だった。
さらにもう一つ。次回の衆議から、北嶽である夏月の参加が確約された。初めから夏月が出ていれば、このような事態にも陥らなかったわけなので、これも当然の措置だろう。
室に戻るなり長椅子に突っ伏した夏月に、黎珠は畏敬の念を込めて叩頭した。
「大変お疲れさまでした、北嶽様」
「ああ、マジ疲れた。あれ、あれ飲みたい。蜜蘭香」
「はい。ただいま」
返事をして、黎珠は蜜蘭香の茶筒を手に取った。
あれから夏月もすっかり蜜蘭香が気に入ったようで、最近は室に常備してある。茶の準備を進めながら、黎珠は長椅子にぐったりともたれかかる夏月に話しかけた。
「本当にすごいです、北嶽様! 水売りのことなど、よくご存知で」
「ああ、あれは……母さんが、よく水売ってたから」
天井を見つめたまま、夏月がぽつりと言葉を落とす。
黎珠は口を結んで夏月の声に耳を傾け、毒味を終えた茶を手渡した。
「母さんは、女手一つでおれを育ててくれたんだ。糞親父は、おれが生まれる前に死にやがったからな。おかげで死ぬほど苦労したぜ。母さんは絶対に身売りしなかったし」
蜜蘭香を啜りながら、独り言のように夏月は呟く。
内容は恨み節であるにも関わらず、その声と表情は、とても柔らかい。
「だから、母さんを殺した孝燕を、おれは絶対に許せなかった。おれが妓楼に入ったのも、半分は孝燕を殺るためだ。あそこで最上位に上り詰めれば、宴で声がかかるからな」
「それは、男性の北嶽様でもお声がかかるのですか?」
層雲宮で暮らしていたとき、孝燕は男色には見えなかった。
率直に黎珠が訊ねると、夏月は半眼でそれを否定した。
「あいつが男色なら、それもあっただろうがな。でも残念なことに、孝燕が呼ぶのは娼妓だった。色で取れねぇなら、あとは芸でのし上がるしかない。必死こいて舞踏を磨いて、上り詰めて、女装して……宴会の場で、頸を刎ねた」
淡々と語る夏月に何も言えず、黎珠は無言で蜜蘭香を注ぎ足した。
これで、後宮での夏月の舞が見事だった理由と、彼が北嶽になった経緯がわかった。だが、あの孝燕が娼妓招いて宴を開く姿を、どうしても黎珠は想像できない。あのあと、彼にいったい何が起きたのだろう。
「孝燕殿が天武様を殺害した理由を、北嶽様はご存知ですか?」
黎珠の問いに、夏月は興味がなさそうな様子で茶杯をあおった。
「さあ? 糞親父に聞耳が備わったのが気に食わなかったんじゃねぇの? 純血の自分を差し置いて、卑賤の親父が北嶽になんのがさ」
「そうですね……」
黎珠は曖昧な相槌を返すにとどめ、茶を注ぎ足した。
腑に落ちないが、孝燕にも黎珠のあずかり知らぬ因縁があったのかもしれない。ひとまず、この件については事のあらましがわかっただけで良しとしよう。
夏月は飲み終えた茶杯を卓に置くと、長椅子の上で胡座をかいた。天井に向けて腕を伸ばし、大きく伸びをする。
「母さんの仇さえ取れりゃ、おれはそれで良かったんだけどな。北嶽になるつもりなんか、さらさらなかったってのに。気がついたら、この有様だ」
「北嶽様……」
「だって、どう考えても無理だろ? 育ちが悪けりゃ字も読めないおれが、北嶽なんて無理に決まってる」
「無理ではございません!」
大声で反論した黎珠に、夏月はびくりと肩を震わせた。
黎珠は膝で前に出ると、重ねて夏月に言った。
「北嶽様は、北嶽におなりになったばかりです。字など、これからいくらでも学べましょう。すべては、これからでございます。北嶽様はお若いのですから」
そう、夏月はこれからだ。
彼は無限の可能性を秘めている。
かつての夏楠の言葉を思い出しながら、黎珠は夏月に微笑んだ。
「北嶽様は、良い北嶽におなりになりますよ。本日の衆議を拝見し、わたしは確信いたしました。北嶽様は、この玄州を治めるに値する器をお持ちです。それだけのご苦労を、北嶽様はされてきたのですから」
「そう、か」
「はい。左様でございます!」
黎珠は笑顔で肯定し、頭を下げる。
すると、夏月は唐突にこう訊ねた。
「お前、欲しいものはないか?」
「はい?」
出し抜けに問われ、顔を上げて訊き返す。
すると黎珠から眼を逸らし、明後日の方向を見ながら夏月は言った。
「だから、今欲しいもんだよ! 服とか簪とか」
〈────────────────〉
「充分に良くしていただいてますので、特には」
よくわからないが、素直に回答してみる。
改めて考えてみても、黎珠の衣食住はばっちりだ。寝床も服も食べ物も足りている。簪は髪が直毛で落ちてしまうし、はっきり言って邪魔なだけだ。
しかし、夏月は黎珠の返答に満足しなかったらしい。
やや苛立った様子で、こう続けた。
「玄州では! なんかいいことがあったとき、下の者に褒美を下賜しなきゃなんねぇ決まりなんだよ!」
〈────────────────〉
「なんと、そのような掟が⁉ どうしましょう。欲しい物、欲しい物……」
考えてみるが、びっくりするほど何も思い浮かばない。
唯一、ふっと頭をよぎったものが、
「で、では切干甘藷で──」
「却下だ、ど阿呆! ここでそれ出すか⁉ どん臭ぇにもほどがあるだろ! てか、どんだけ欲ねぇんだ、お前は⁉」
「で、ですが、本当に何も……」
しどろもどろに答えると、夏月は舌打ちして黎珠に問いかけた。
「服は⁉ 後宮の女どもみたいに、まともなもん一着ぐらい持ったらどうだ?」
「その、ずるずるした服は苦手でして……動きにくいですし」
「簪は⁉ 指輪は⁉」
「装飾品は、北嶽様にお仕えするのに支障がありますので」
「お前それでも女かよ⁉ 甘藷以外に好きなモノとか、コトはねぇのか?」
「好きなことは、史書を読むことです」
「却下だ! 次ッ! もっと色気のあるもん出せ!」
「い、色気でございますか? 色気のあるもの、色気……」
ますますわからない。
涙目で困っていると、夏月に一喝された。
〈────────────────〉
「泣くな!」
「はいぃ!」
涙は引っ込んだ。
しかし、依然として妙案は浮かばない。
そんな黎珠を憐れんでか、夏月は声を和らげて譲歩を示した。
「じゃあ、物じゃなくてもいい。なんかこう、ちょっとやそっとじゃ手に入らない、特別感のあるもんはねぇのかよ?」
「ちょっとやそっとじゃ手に入らない、わたしが欲しいもの……」
そう言って顰め面の北嶽を見つめた黎珠は──天啓を得た。
「あ、ありました! わたし、北嶽様に是非していただきたいことがございます!」
〈────────────────〉
「黙れ、この駄剣! なんだよ、その鬼みたいな仕打ちは!」
どうも黒影が何か言ったらしい。
腰に差した剣に怒鳴る夏月を見て、黎珠はそろそろと訊ねた。
「あ、あの、北嶽様へのお願いは駄目でしょうか?」
「いいよ! 構わねぇから言え。土下座でも靴を嘗めろでも、なんでもこい!」
「いえ、そのようなものではなく……」
随分と酷なことを黒影は言ったらしい。
やけっぱち気味に言う夏月に、黎珠は姿勢を正して願いを口にした。
「わたし、北嶽様の笑ったお顔が見てみたいです」
「は?」
訊き返す夏月を見上げて、黎珠はにっこりと笑い、繰り返した。
「僭越ながら、北嶽様の笑顔を所望いたします。お聞き届けいただけないでしょうか?」
「な──なんだよ、その恥ずかしい願いは⁉ 拷問かッ⁉」
「ですが、普段笑われない北嶽様が笑ったら、とても素敵だとわたしは思うのです」
夏月の最大の武器は、その美貌だ。
彼も夏楠のように、嘘でも愛想よく笑う術を身に付ければ、慕う者は増えるかもしれない。現に、あれで夏楠はだいぶ周囲を謀っていた。
願いと言うなら、これしかない。
「きっと、見た者すべてを魅了するような──それは素晴らしいものに違いありません。わたし、見てみたいです。北嶽様の優しい笑顔を」
「わ、わかったよ! 笑えばいいんだろ、笑えば!」
羞恥で頬を染めながら、それでも了承した夏月は黎珠を見下ろし、
「────こうか?」
夏月の問いに、黎珠は笑んだ唇のまま、静止した。
確かに。確かに良い笑顔、ではあるが。
控えめに言って、「今、五人殺ってきました」としか表現できない剣呑な笑いを前に、黎珠はそっと視線を逸らした。
〈────────────────〉
「……すべては、これからでございます。北嶽様はお若いのですから。本日の北嶽様を拝見し、わたしは確信いたしました」
「さっき同じ台詞聞いたぞ⁉」
「き、気の所為ではございませんか?」
「こっちを見て言え!」
そんな掛け合いを続けたのち、夏月は大きな溜息を落とした。一拍の沈黙を挟み、仕切り直すように頭を左右に振る。そして不意に立ち上がると、かしずく黎珠を見下ろした。
怪訝に思い、夏月の顔を仰ぎ見る。
向けられたまなざしは、息を呑むほど真摯なものだった。
「──黎珠」
どきりとした。
それは初めて名を呼ばれたからかもしれないし、声色が少し、夏楠に似ていたからかもしれない。
夏月は緩やかな、しかし、はっきりとした声で黎珠に告げた。
「お前、夕餉が終わったら、おれのところに来い」
〈────────────────〉
「申し訳ありません、北嶽様。夕餉のあとは、西嶽公の宮へ行く約束が」
夏月も大事な用事らしいが、さすがにこれは譲れない。
本来は衆議の直後に行くべきだった約束を、北嶽の世話を理由に後ろ倒ししたのは黎珠だ。それに、西嶽には黎珠も確認したいことが山ほどある。
黎珠が申し出を断ると、夏月は仰天した様子で身を乗り出した。
眼を見開き、半分裏返った声で、
「は!? あいつ既婚だろ⁉」
「? はい、わたしもそのように聞き及んでおります」
「雲翔はそれ知ってんのかよ!?」
「ご存知なのではないでしょうか。西嶽公の話を聞くためには、雲将軍の許可をいただかないと門前払いになってしまいますので」
「ああ、なんだ話か……」
〈────────────────〉
そう言うと、夏月は安堵したように長椅子に座り直した。
と同時に、黒影がまた何か進言したようだ。
夏月は仏頂面で腰の黒影を叩くと、唸るように言った。
「黙れ駄剣。溶かすぞ?」
脅すが、口調に以前ほどの険はない。軽口に近いものだ。
そのやり取りを見た黎珠は、意を決して唇を開いた。
これから黎珠が行おうとしていることは、夏月の協力が不可欠だ。今の彼であれば──きっと、黎珠の意見を聞き届けてくれる。
「北嶽様。不躾ながら、もう一つお願いがございます」
「なんだ、言ってみろ」
ぶっきらぼうに返す夏月に、黎珠は一度口を引き結んでから、ゆっくりと告げた。
「北嶽様襲撃事件の首謀者である、西嶽公と直接対決してまいります。つきましては、北嶽様のお力添えを賜りたく」
駒は揃った。
今こそ、反撃の狼煙を上げる刻である。




