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刻限になり、黎珠は夏月に従って衆議に参加した。
議場となる広間を見る限り、やはり丞相は欠席のようだ。あのような騒動のあとでは、そうなるだろう。今回は夏月の調印のみなので、不在でも差し支えはないはずだ。
茶会のときと同様、今回もすでに玄州官は席に着いており、白州側は不在だ。丞相の一件のおかげか、特に咎められることもなく黎珠は夏月のとなりに着席した。
耳をすませると、玄州官からひそひそと話し声が聞こえてくる。「白州は品がない」だの「成金」だの、果てには「髪と肌の色が見苦しい」などという悪口が飛び交うのを聞き、黎珠は眉をひそめた。
玄州龍の髪が漆黒であるのに対し、白州龍の髪はやや茶色がかっている。玄州では皆、肌は抜けるように白いが、白州は褐色だ。黎珠は茶の髪も褐色の肌も素敵だと思うが、玄州官にとっては差別の対象らしい。これでは銀髪の夏楠は、さぞ苦労したことだろう。
黎珠は、横に腰かける夏月を肩越しに見上げた。
思えば夏楠に対し、黎珠は迷惑ばかりかけて、何一つ恩返しできていない。ならばせめて、今は息子である夏月の力になりたい。
「いよいよですね、北嶽様」
黎珠が小声で話しかけると、夏月はどこか上の空で頷いた。
「ああ」
不機嫌というわけではなく、さりとて気負ったふうでもない。感情の読めない顔で、夏月は机の一点を見つめている。それは黎珠が見たことのない、夏月の表情だった。
……形ばかりの調印ということで、やる気がでないのだろうか。
だとすれば、このままでは良くない。黎珠は夏月を鼓舞すべく、服の裾を引いてこう言った。
「北嶽様、見せ場でございますよ」
「見せ場?」
「はい。堤の整備が進めば、玄州の民は水害の不安から開放されます。お飾りだろうがなんだろうが、北嶽様の調印でたくさんの民が救われることに、変わりはありません。北嶽様が民を救うのです。胸をお張りになってください」
そう言うと、夏月は軽く眼を瞠った。
「そうだよな。できるのは、おれだけなんだよな。おれが──玄州の北嶽だから」
「左様でございます、北嶽様」
噛み締めるように夏月は呟き、金の瞳を伏せる。
しかし黎珠が同意すると、どこか吹っ切れた様子で笑みを返した。
「よく見とけ。西嶽含めて、奴らを見返してやる」
「はい、北嶽様!」
見返す、と言う夏月の言葉に違和感を覚えつつも、黎珠は同調して言った。
凛とした横顔の夏月を見る。これなら、きっと悪いことにはならない。彼にも彼なりの考えがあるのだ、夏月を信じよう。
「わお、みんな揃ってるじゃないか。遅れて申し訳ない。さっそく始めようか」
夏月との会話が一段落したところで、折よく西嶽が入室した。続いて雲翔、白州官が続々と着席する。すると心得たように玄白の官吏が動き、机の上に印章や朱肉、その他資料を手際よく並べていった。用意が整うと玄州官が夏月に歩み寄り、拝礼とともにこう告げる。
「お目通しをお願いいたします、北嶽様」
西嶽はすでに内容を把握しているのだろう。夏月のためだけにずらりと並んだ大量の木簡と、ぎっしり文字が書き連ねられた紙をみて、黎珠は息をついた。
──木簡とは、古式ゆかしい。実物を見るのは久しぶりだ。
木簡は、短冊状の木の札を紐で巻物状に連ねたものである。紙と異なり、書いた文字を削ることで再利用できるのが特徴だ。ざっと見る限り公式文書には紙を、補足や統計などは木簡と、使い分けているらしい。
「読めるか?」
夏月が、ごく小さな声で耳打ちする。
それに黎珠は小さく頷き返した。
「はい。なんとか」
「大まかにわかりゃいい。工事の進め方はどうなってる?」
黎珠は並べられた中から工程表の紙を探し出すと、文字に眼を走らせた。資金の大部分を白州が負担する手前、作業は白州側の分流工事から始めるようだ。
「まず、川の分流から着手するようです。白州へ水を引いて水量を少なくしてから、玄州の水路や堤の整備を進める流れとなっています」
「先に白州に水を引くんだな?」
念を押す夏月に、黎珠は首肯した。
そこは間違いない。
「はい。間違いありません」
「わかった。あとはおれに任せろ」
そう告げると、夏月は黎珠から西嶽に視線を移した。それを受けた西嶽は、印章に腕を伸ばしながら口を開いた。
「話はまとまったかね? それでは調印を──」
「悪い、西嶽。調印はできない」
伸ばしかけた、西嶽の手が止まる。
まるで刻が止まったかのように、広間は静まり返った。
これには、さしもの西嶽も面食らったようだ。顔をこわばらせ、低い声で夏月に問いかける。
「今、なんと?」
「調印はできねぇって言った」
平然と言う夏月に、顔色を変えた玄州官が慌てて駆け寄ってきた。
それはそうだろう。恐らくこの日のために、玄白の官吏たちは審議に審議を重ね、長い時間をかけて今日に至ったはずだ。それをこの土壇場でご破産など、本来許されるものではない。
「恐れながら北嶽様。ここは玄州の民のためにも、我儘はどうかお控えいただき、何卒──」
「莫迦か、お前。その玄州の民のために、できねぇって言ってんだよ」
官吏を叱る夏月にいち早く反応し、西嶽はこう訊ねた。
「それはどういう意味だね? 北嶽」
「西嶽、あんた本当にわかんねぇのか?」
心底、以外そうに夏月が問い返す。
それにわずかに顔を顰め、瞳を眇めて西嶽は訊き返した。
「ああ、わからんね。だから私にもわかるよう説明してくれないか、北嶽公? これでは皆が納得できない。先日の襲撃や毒騒動があったにもかかわらず、私が玄州に留まったのも、すべてはこのためだ。この期に及んで貴殿の気まぐれに付き合う余裕はないのでね」
「そうか。西嶽でも、見落とすことはあるんだな……。そうだよな、あんな最底辺の暮らし、西嶽は知る由もないか……」
夏月は得心したように言葉を漏らし、西嶽に視線を投じる。
そのまなざしは、はっとするほど夏楠によく似ていた。
「おれがこれに調印したら、玄州は潰れる。今、玄州の西半分の人間のほとんどは、白州に水を売った金で生き延びているからだ」
言うやいなや、西嶽の横に着席した雲翔が驚きの声を上げた。
「まさか。そんなことは──」
「記録にない、だろ? 雲翔?」
あとを継ぐように言うと、夏月は口元に苦笑を浮かべ、瞳を伏せた。
「ねぇよ。完全に非公式だからな。玄州じゃ水なんて無料同然だ。そこら中に湧いて取り締まりなんてできねぇし、売っぱらった水も白州からすりゃ二束三文だ。だがその二束三文が、玄州の人間にとっては命綱なんだよ。水が一瓶売れりゃ、三日は凌げるからな」
酷く実感のこもったその物言いに、誰もが息を呑んで耳を傾けている。
それを知ってか知らずか、夏月は変わらず淡々とした調子で言葉を紡いだ。
「白州に川ができりゃ、当然水は値下がりして売れなくなる。しかも玄州は、去年の長雨で今年は不作確定だ。工事が始まって水が売れなくなりゃ、あとは飢え死にするしかない。玄州の水売りは相当数いるからな。水害の比じゃねぇ死人が、わんさと出るだろうよ」
夏月の話は、想像できる。とても良く。
的確なその指摘に、黎珠はただただ聞き入っていた。
「で当然、人が死ねば税は集まらねぇ。農作人は全滅だ。下で働かせてる人間が消えるわけだから、その上の龍も食うに困るようになる。州府もぐだぐだになって結果、玄州は潰れる。運良く潰れなくても、今よりは確実に状況は悪化するだろうな。どうだ、おれの予想は?」
夏月が語り終えても、しばらく沈黙が場を支配した。
誰もが呆気にとられる中、泣きたいようなくすぐったい気持ちで、黎珠は一人、声を発した。
「極めて可能性の高い予測である、と愚考いたします。さすがは北嶽様、感服いたしました」
告げる黎珠に、夏月は晴れ晴れとした、満足げな微笑で応じた。




