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「北嶽様? 入室してもよろしいでしょうか?」
寝所に着くと、まず扉越しに黎珠は呼びかけた。
声は届いているはずだが、室内にいるであろう夏月の応えはない。
是ではないが、否でもない、ということだろうか。
それならそれで構わない。黎珠としては、明確に禁じられさえしなければ良いのだ。
「失礼いたします……」
禁じられない限り、その行動は許容されていると判断していい。
黎珠が室に入ると、夏月はこちらに背を向けて、定位置の長椅子に寝転んでいた。
床に正座すると、黎珠は北嶽の広い背中を仰ぎ、唇を開いた。
「北嶽様──」
「幻滅しただろ」
突然、言葉を遮られたことに黎珠が眼を丸くしていると、夏月は低く嗤った。
「いや、軽蔑か?」
〈────────────────〉
顔は向けられないまま、自嘲するような言葉だけが投げられる。
黎珠は唇を引き締めると、背筋を伸ばし、きっぱりと告げた。
「そのようなことはございません」
「いいって、無理すんな」
決めつけるような言い方に、少しむっとする。
語調を強め、黎珠は夏月の背を見据えて言った。
「無理などしてません! 無理をしていらっしゃるのは、北嶽様でございます!」
〈────────────────〉
「お前──ッ」
怒気を含んだ夏月の横顔が見えたのは、ほんの一瞬だった。
鋭い金の双眸は黎珠と眼が合うなり、ふいっと向こうに消えてしまう。
その反応を目の当たりにした黎珠は、夏月の心情をおぼろげに理解した。頑なに視線を合わせないのは、気まずさだけではない。多分、眼を合わせることが怖いのだ。
それは例えば、腫れ物に触るような。
あるいは見下し、嫌悪を込めて蔑むような。
まるで世界が反転したように、ある日を境に奇異の眼に晒される現実を、彼は恐れているのではないだろうか。
過去を隠すという点においては、黎珠も鳳炬に元龍討師だということを黙っている。龍にとって、討師は忌むべき天敵だ。
もしも露見したら、と考えてみる。その場合、黎珠が真っ先に恐れるのは、鳳炬の眼だ。彼女の、自分を見る眼が変わることが、何よりも怖い。夏月も、それと似たものを抱いているのではないか。
──ならば、黎珠のやるべきことは決まっている。
心を閉ざした相手に、想いを伝えるにはどうすれば良いか。
根気強く、苗に水をやるように、言葉を、行動を尽くすのだ。
「わたしは人ですが、名に誓って、幻滅も軽蔑もしておりません。本当です。わたしは……わたしはただ、悔しくて……」
「なんで、お前が悔しがるんだよ? つーか、何がそんなに悔しいんだ?」
「北嶽様が一番おつらいときに、お側にいられなかったことがです」
答えを聞いた夏月の顔が、半分だけこちらに向く。
その横顔を、視線を逸らすことなく黎珠は見つめ返した。
実のところ、黎珠は夏月が具体的に何をさせられていたのか、あまり良くわかっていない。黎珠の性知識は貧弱だ。特に妓楼などについては、薄らぼんやりとした知識しか持ち合わせていない。
だが、途方もない非道を働かれたのは、わかる。
それが堪え難い苦痛だったであろうことも、わかる。
気軽に会話にすべきでないこと、まかり間違っても回廊で口にして良いような内容ではないこともだ。
だから、夏月には正直に話そう。それが礼儀である。
彼に上っ面の言葉は届かない。嘘偽りなく、黎珠があの会話を聞いたときに感じたことと、丞相に手を上げた本当の理由を話そうと、腹に決めた。
──そう。腹立たしくもあったが、むしろ黎珠は悔しかった。
自分が過去、その場にいなかったことが、悔しくて、悔しくて、悔しくて。それで腹が立ったのだ。
「わたし、悔しくて……北嶽様に無体を強いた輩に、腹が立ちました。正直に申し上げますと、丞相様を殴ったのは半分八つ当たりです。ほかに殴れるものがなかったので」
「おい」
即座に夏月が声を上げた。
顔だけでなく、身体ごとこちらに向けられる。
しかし、正直に話すと決めた黎珠は、偽りのない本音を切々《せつせつ》と語った。
「本当に悔しいです。わたしがお側にいさえすれば、其奴ら全員、片っ端から頸をかっ切るか、毒殺いたしましたのに……」
「おい! お前、優しそうな顔してけっこう怖いこと言うな⁉︎」
確かに、これでは夏月が世にも恐ろしい大量殺人鬼の親玉ということになってしまう。これはいただけない。
よって、黎珠は補足を加えた。
「ご安心ください。これこそ萬菫不殺の出番です。仮に実行に移す場合、北嶽様には決して嫌疑がかからぬよう、あらゆる手段を用いて完全犯罪を成立させます」
「怖ッ! 言っとくが、おれが恐れてるのは疑われることじゃねぇぞ⁉ 笑顔でさらっと言う、お前のことだからな⁉」
「え、わたし、そんなに怖いですか……?」
「だから! しょんぼり小動物みたいな顔で訊くな! 怖いから!」
夏月に怒鳴られ、黎珠は肩を落として俯いた。
また、どこかずれた返答をしてしまったらしい。結局、黎珠は夏月を怒らせるばかりで、いつも不快な思いをさせている。これでは害でしかない。
──もう、退室しようか。
北嶽の爆笑が聞こえたのは、そんなことを考え始めた矢先のことだった。
驚いた黎珠が顔を上げると、夏月は長椅子の上で、腹を抱えて笑っていた。
「ははははッ! なんかもう、お前と話してたら莫迦莫迦しくなってきた」
〈────────────────〉
「北嶽様……」
呆然と見上げる先で、夏月は苦しそうに身を捩って黎珠を見下ろした。
普段通りの、力強く尊大な瞳で。唇の端を吊り上げて言う。
「考えてみりゃ、穢らわしいだの、なんだの言われたところで、そんなもん風呂に入りゃ落ちるしな」
「左様でございます! そもそも、穢してしまうには北嶽様は美し過ぎます。蓮の葉が水を弾くが如く、不可能かと! 現にわたしも、北嶽様を穢すことはできませんでしたし」
「あーそうだった、そうだった。あのときも阿呆なこと言ってたよな、お前」
夏月はひとしきり声を立てて笑うと、窓に視線を投じ、ぽつりと呟いた。
「…………悪かったな」
かろうじて聞き取れる、小さな謝罪。
黎珠が驚きで言葉を失う先で、おもむろに夏月は立ち上がった。つかつかとこちらに歩み寄り、双方の距離を詰める。夏月は黎珠の前で腰を落とすと、その顎を掴んで上向かせた。
されるがまま、黎珠は間近でこちらを覗き込む夏月を見つめた。
彼が何をしたいのか良くわからないが、今日も彼は美麗だ。よく見ると、睫毛がとても長い。
上に燐寸棒が何本乗るだろう、などと黎珠が考えていると、夏月がぼそりと言った。
「磨けば、光るか」
「はい?」
〈────────────────〉
しばし意味を考えた黎珠は、閃いた。
そうか。自身の長所を磨き、今後も良く仕えよと、そういう意味か。
「はい! 今後も北嶽様の官奴婢として粉骨砕身、努力いたします!」
威勢よく返事をした黎珠に、夏月はなんとも形容しがたい表情で頷いた。
「あー……ま、今はそれでいい」
「はい! 頑張ります!」
〈────────────────〉
一部よくわからないことはあったものの、最終的に夏月が元気になって良かった。最初は失敗続きだったこともあり、反動の嬉しさで胸がいっぱいになる。
黎珠が達成感に浸っていると、その様子をまじまじと見ていた夏月が口を開いた。
「お前、笑うと、けっこう……」
「はい?」
〈────────────────〉
「煩ぇな! なまくらは引っ込んでろ!」
言いながら、夏月は腰に差した黒影を叩く。
恐らく、黒影が何か言ったのだろう。仕草が夏楠とよく似ている。
黒影と何か言い合いをする夏月を微笑ましく見ているうちに、黎珠は不意に気がついた。
ほんのりとだが、夏月の頬と耳が赤い気がする。やはり連日の事件で、体調がすぐれないのだろうか。熱が出ていれば一大事だ。確認した方が良いだろう。
今こそ、主の細やかな変化にも気がつく良吏、もとい、良奴婢になるときである。
「北嶽様、少々失礼いたします」
踵を上げ、めいっぱい腕を伸ばす。
黎珠の手が額に到達するやいなや、凄まじい速さで夏月は後ろへ跳び退いた。
「ちょ! なんだよ⁉」
「お顔が少し赤いので、お熱を測ろうと」
「赤くねぇし! 熱なんかねぇよ!」
「いいえ! ほんのり赤くていらっしゃいます! ちょっとお看せくださいませ!」
「だから、いいって!」
押し問答をするうち、ぐいっと夏月に押し返されてしまう。
その拍子に体勢を崩し、黎珠の身体は大きく後ろに傾いだ。
このままでは、床に後頭部を打つ。咄嗟に黎珠は受け身を取ろうとしたが、その前に、夏月の腕が伸びる方が早かった。
ぽす、と平和な音とともに腕に収まった黎珠は、真下から夏月を見上げた。
背中を支える手が優しい。以前とは圧倒的に異なる、優しい所作だ。眼前にある極めて端正な顔立ちは、やはり少々、黎珠には赤く見えた。
「あ──え、と……」
口籠る夏月を、黎珠は感極まる思いで見つめた。
「北嶽様、わたしは感動いたしました」
とうとう夏月に、李以外の他者を思い遣る気持ちが芽生えたのだ。なんと素晴らしいことだろう。こんなに喜ばしいことはない。子の成長に感動する母の気持ちとは、まさにこれだ。
黎珠は身を起こすと、夏月の手を両手で握りしめて、こう告げた。
「午後の衆議、頑張りましょう! 今の北嶽様なら、必ずや成し遂げられます!」
「……まあ、印押すだけだしな」
〈────────────────〉
疲れが出たのか、覇気のない声で夏月は返す。
これはいけない。すぐに朝餉で英気を養ってもらわねば。
黎珠は身を起こすと床に跪き、夏月を見上げて言った。
「それでは北嶽様、わたしは色々と準備がございますので、これで失礼いたします! またのちほど!」
叩頭し、黎珠は足早に厨房へと歩を進める。
今日は、お祝いだ。朝餉の準備がてら、昼餉を小豆粥に変更できないか、訊いてみよう。
李に献立を相談すべく、黎珠は胸を弾ませて室をあとにした。




