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「朝から騒々しいね。今度はなんの騒ぎだい?」
「西嶽公……」
蚊の鳴くような声で、黎珠はその名を呼んだ。
安堵で、堪えていた涙がぼろりと頬を伝い落ちる。彼であれば、ほぼ確実に公正な判断を下すだろうという確信が黎珠にはあった。
それに何より、彼にはあの宝貝がある。
西嶽を見た途端、如実に顔色を変えた丞相は、大声で叫びながら彼に走り寄った。
「お、恐れながら、これは我が玄州の内輪事でございます! 西嶽公はどうぞお引取り──」
「黙れ! この痴れ者が!」
嫌悪も露に怒鳴りつけた直後、西嶽は不気味なほど表情を一変させた。口元に笑みを刻み、声色を変えて丞相に語りかける。
「失礼、私は朝が弱くてね。つい大声を発してしまった。ああ、何があったかの説明は不要だ。すでに道すがら、おおよその話は聞いたのでね」
言いながら、西嶽は後方に視線を送る。
その先には、心配そうに黎珠を見つめる李の姿があった。騒ぎを知り、彼が西嶽を呼んでくれたのだろう。
「で、ええと揉め事の原因は、どちらが嘘をついているかだったか。これは丁度いい。真実を暴く我が宝貝、白亜の鏡で直ちに解決してしんぜよう。そなたの主張はなんだね? ん?」
「い……いえ、それは…………」
無論、丞相は答えられるわけがない。
言いあぐねる丞相から視線を外すと、西嶽は黎珠に訊ねた。
「娘、そなたの主張は?」
「北嶽様が、罵られていたので……丞相様に、手を上げてしまいました」
涙声で答える黎珠を、西嶽は終始柔らかな笑みで聞いていた。
腕を組み、話を最後まで聞き終えると、深い相槌とともに口を開いた。
「うむ。真白き良い返事だ」
「だったら、なんでお前は黙ってんだよ⁉」
すかさず夏月に詰問され、黎珠は対応に困った。
まだ周囲には大勢いる。事実をぼかした、上手い言い方をせねば。
言葉に窮する黎珠を見て取り、西嶽は激昂する夏月に話しかけた。
「北嶽公、貴殿は今まで苦労をしたぶん、少々悪意に触れ過ぎたようだ」
「なんだよ。どういう意味だ?」
「いいかね、この世には自分以外の者のために、命すら投げ出せる者が存在する。決して絵空事ではなく、そのような者は確かに実在するのだ」
言い含めるように告げる、西嶽の意図が理解できなかったのだろう。夏月は怪訝な表情で西嶽を見返した。
そんな夏月に、西嶽は憐れむような視線を送る。一息つくと瞼を閉じ、ゆっくりと話し始めた。
「誰しも、隠しておきたい暗い過去はあるものだ。それを知り嗤う者がいれば、嗤わず寄り添おうとする者もいる。過去が明るみになれば、その相手はどれほど傷付き、立場が危うくなるか──そこまでを想像し、心を痛め、行動に移せる者だ。わかるな?」
夏月の眼が見開かれる。
そして直後、弾かれるように黎珠を見下ろした。
──良かった。状況が伝わったようだ。
黎珠が微笑み返すと、次いで夏月は殺意を込めた眼を丞相に向けた。
間近で見た黎珠すら、悪寒を感じる声色で、
「……殺されたくなけりゃ、今すぐおれの視界から失せろ」
以前の戦闘での殺気など、比べ物にならない。
耳にしただけで死を垣間見るような、壮絶な憎悪を漂わせて夏月が命じる。
まともに殺気を浴びた丞相はその場で腰を抜かし、さらに失禁した。慌てた周囲の官吏に抱えられ、脱兎のごとく去ってゆく。
その様をはらはらして見ていた黎珠は、胸を撫で下ろした。
夏月はまだ若く、後ろ盾もなく、字も読めない。州府を運用する力は皆無だろう。そのような状態で丞相の頸を刎ねれば、政は混迷する。ただでさえ苦しい玄州の困窮は、さらに加速するだろう。
「まったく。玄州の莫迦どもが」
そんな西嶽の小さな独白を、黎珠は聞き逃さなかった。
この醜態を目の当たりすれば、莫迦呼ばわりされても言い返すことはできない。
西嶽は眼だけ動かし黎珠を見ると、呆れたような声でこう続けた。
「お前もだぞ、奴婢の娘。主の器量ぐらい、正確に見極めておけ。まったく。なまじ目端が利くぶん、余計なことにまで気を回し過ぎだ。それで死んでは元も子もないだろうに」
「お気遣い痛み入ります、西嶽公。しかしながら、最終的にわたしめの頸は繋がったまま、北嶽様の面目も保たれました。運の強さも、良吏の条件と心得ております」
すかさず言上すると、西嶽はあからさまな溜息をついた。口を曲げ、面白くなさそうな顔で黎珠を見下ろす。その横では、黎珠と視線のあった李が、小さく笑っていた。
──また、李に助けられてしまった。
声には出さず、黎珠は口の動きで礼を告げる。すると、唇を読み取った李はぺこりとお辞儀を返した。
「さあ、話は終わったぞ。全員持ち場に戻れ。ほら。去ね、去ね」
西嶽は場を仕切るように、良く通る声を発した。虫を払うように手を振り、集まった兵と官吏に退去をうながす。
それを受けた龍は三々五々《さんさんごご》散ってゆき、最終的に残ったのは西嶽と李、そして夏月と黎珠だけになった。
「縄を解いてやったらどうだ?」
西嶽に言われ、それまで棒立ちになっていた夏月は、びくりと肩を震わせた。
言われてみれば、黎珠はまだ後手で縛られたままだ。すっかり忘れていた。
通常、州公である夏月が奴婢の世話をすることはない。すぐに李が駆け寄ろうとしたが、それを西嶽が手で制すのと、夏月が動いたのは、ほぼ同時だった。
地面に膝を付き、夏月みずから、黎珠の縄を解く。
その行動に驚きつつも、黎珠は叩頭をして感謝を述べた。
「御自らお解きいただき、ありがとうございます」
「いや」
夏月は小さく、短く返す。
とても彼のものとは思えない、精彩を欠いた応答だ。
それも無理からぬことだろう、と黎珠は思う。
最悪の事態は回避できたが、夏月の過去を黎珠が知ってしまったことに変わりはない。それを丞相が無頓着に口していたことも、彼には衝撃だっただろう。
「……少し気分が悪い。帰る」
端的に告げ、夏月は踵を返す。
その背に、西嶽は普段の軽い口調で答えた。
「そうかい。お大事にー」
けろりとした顔の西嶽と対象的に、李は眉尻を下げて夏月を見ていた。
平素とかけ離れた彼の様子に、李も心配になったのだろう。そのまま小走りで追おうとする李を、黎珠は肩を叩いて呼び止めた。
「李君、ここはわたしが。多分、わたしが知ってしまったことも、気にされていると思うので」
黎珠はそう言ったものの、これは「そうあって欲しい」という、勝手な思い込みかもしれない。夏月が黎珠の対応など歯牙にもかけないと言うなら、それでいい。構わない。
──ただ、せめて。
自分は気にしていない、ということを彼に伝えたかった。
「奴婢の娘」
夏月を追いかけようとした黎珠は、背後からかけられた声に足を止めた。
振り返ると、驚くほど真顔の西嶽と視線が交わる。
「今日の衆議が終わったら、私の宮へこい。お前と話したいことがある」
「かしこまりました、必ず。──では、失礼いたします」
正直、西嶽の動向は気になる。可能なら彼とこの場で話したい気持ちもあったが、今は夏月の方が心配だ。
手短に返答をすると、黎珠は足早に夏月を追った。




