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「あれはな、男娼の真似事をして日銭を稼いだ男なのだ。自身の身体を売り、喰い繋いでおったのよ!」
丞相の声を聞いた黎珠は、怒りも忘れてその場に立ち尽くした。
一瞬、思考が停止する。
脳がその意味を理解するまでには、少し時間がかかった。
「なっ……まことですか、それは⁉」
連れの龍も衝撃を受けたらしく、上擦った声で問い返す。
その反応にも頓着せず、丞相は憤懣やるかたない様子でさらに続けた。
「嘘をついてどうする⁉ ああ、穢らわしい。かように穢らわしい輩が、何ゆえ誉れ高き玄州の北嶽なのだ⁉ 思い返せば、あれの父親も卑賤の身だったではないか!」
「先の孝燕と言い、現北嶽公といい、昨今の玄州は暗君が続きますな。しかしながら、現北嶽公は政に無関心ですし、何よりあの天武の子です。愚民どもを黙らせるには有用でしょう。何より、見栄えだけは大変よろしゅうございます」
そんな連れの意見を耳にし、丞相は忌々しげに鼻を鳴らした。
「そうだ、あれは見目だけは、この世のものとは到底思えぬほど美しい。ゆえに、どこぞの倒錯嗜好の異常者に買われたのよ。高値でな」
「はあ、それはなんとも……」
物言いに困り、連れの龍は言葉を濁した。
踏み込んだ内容に、そろそろ危険を察知したらしい。
それはそうだろう。ここは密室ではなく、庭園を横切る回廊だ。屋外に面している。どこで誰が聞き耳を立てているか知れない──黎珠のように。
「…………」
これまで黙って会話を聞いていた黎珠は、怒りが沸点を飛び越え、逆に氷点下に振り切れようとしていた。
人は本当に憤ったとき、怒りは殺意を帯びて凍てつくのだ。節度を欠かぬよう、努めて自制していた箍が外れてしまうのも時間の問題である。
一方の丞相は、黎珠の心中などもちろん考慮しない。ただただ、唾を吐くように悪言を垂れ流した。
「政に興味を示さんのは助かるが、あの淫売め、最近妙に口出ししよる。あのような屑、いっそのこと──」
丞相の言葉を聞いていると、頭痛がする。
黎珠は眼を閉じ、天を仰いだ。
──ああ、駄目だ。もう我慢できそうにない。
「茶会の折に、死んでしまえば良かったものを!」
その発言とほぼ同時に、黎珠の身体は動いた。
飛刀があれば突き立てていたかもしれない。
が、あいにく今は徒手だ。
拳を握り、素手で駆ける。
迫る黎珠を見た丞相の眼が、驚愕に見開かれた。
──遅い。莫迦め。
手放した水桶が、大きな音を立てて回廊に転がった。
*
口に、土の味が広がる。
黎珠は数名の龍兵に捕らえられ、容赦なく地面に叩きつけられた。
ここ数日は厳戒態勢が敷かれていたため、兵の対応は迅速だ。こんな早朝から何事かと、ほかの官吏もぞろぞろと集まってくる。
大勢の龍に囲まれながら、黎珠は眼光鋭く丞相を睨めつけた。
もはや、不敬や非礼などという単語は頭から消え去っている。あるのはただ、腹の底から湧き上がる怒りだけだ。
視線を受けた丞相はわずかに怯んだものの、開き直ったように黎珠を見下ろし、顔を背けた。その際、赤く腫れ上がった頬が露わになる。黎珠が殴りつけたものだ。
「朝っぱらからなんだよ、面倒臭ぇな」
そんな騒動の渦中に、夏月は現れた。
当の北嶽の登場に、丞相は眼を剥いて身じろぎする。この早朝に、まさか彼が現れるとは思ってもみなかったのだろう。
夏月は普段、この刻限は決まって就寝中だ。しかし今日は、服装も足取りもしっかりとしている。腰には黒影も一緒だ。
起床が早くなったのは毒の一件以来、早寝を強制されているからだろう。それにこの回廊は、夏月の寝所から比較的近い位置にある。
「で、いったい何があった? 丞相、お前こいつに何したんだ?」
夏月は黎珠ではなく、まず丞相に問いかけた。
今までであれば、真っ先に疑われるのは黎珠だ。しかし今回、彼が先に問いただしたのは丞相である。夏月は信を、黎珠に置いてくれたのだ。
そんな些細な変化が、黎珠はたまらなく嬉しかった。
「な、何もしておりませぬ! この奴婢が突然、私に襲いかかったのでございます!」
そう弁明する丞相を、夏月は冷めた瞳で見つめた。
〈────────────────〉
「ま、お前はそう言うか。で、何があった? ちんちくりん」
丞相から視線を移し、今度は黎珠に同じ問いを投げかける。
それに黎珠が答えようとするやいなや、慌てて丞相は間に割って入った。
「北嶽様っ! この奴婢は今、正気ではございません! また、おかしなことを口走るに決まっております! 此度の件、北嶽様の御手を煩わせるほどのことではございませぬゆえ、どうぞ寝所へお戻りに──」
「莫ー迦。こいつがおかしなこと口走んのは、いつものことだ。今さら、どうってことねぇよ」
あっさり丞相を切り捨てて、夏月は再び黎珠に訊ねる。
「で、短躯どうした? お前が丞相ぶん殴るなんて、いったい何があったんだよ?」
「それは──」
「北嶽様っ‼」
またもや黎珠を遮り、丞相は夏月に取り縋った。
地面に膝をつき、いよいよ必死の形相で訴えかける。
「な、なりません、北嶽様! かような気狂いの申すことなぞ、出鱈目に決まっております!」
「煩ぇな、お前は引っ込んでろ! 次しゃしゃり出てきたら斬るぞ!」
「ひいっ」
情けない声を出し、丞相は無様に引き下がる。
ここまで言われてしまえば、さしもの丞相も口出しはできない。
次こそ邪魔が入らぬよう、夏月は腰をかがめ、黎珠の鼻先まで顔を近づけてこう言った。
「……で、どうしたんだ? 暴れた理由を話せ。事の次第によっちゃ、不問にしてやる」
「はい! 北嶽様、実は──」
そこまで言いかけたところで、黎珠の唇は凍りついた。
──この衆目の中、あれを言う?
冗談ではない。無理だ。口にできるわけがない。
「どうした? 早く言えよ」
頸を傾げる夏月に、黎珠は答えが定まらぬまま、ゆるゆると口を開いた。
「その……丞相様が、北嶽様を悪く言っていたので……つい、かっとなり……」
「ふーん。具体的に?」
「そ、それは……」
言いさして、黎珠は夏月から周囲に群がる龍兵と、官吏たちに眼をやった。皆、興味津々といった顔で黎珠に注目している。
この距離では、小声で話しても唇を拾われそうだ。今、黎珠は後ろ手に縛られているため、口元を隠すこともできない。
迷いに迷った末に、黎珠は決断した。
「申し訳ございません。この場では申し上げられません!」
「なんだって?」
黎珠が告げた瞬間、すうっと潮が引くように夏月の表情が変わった。
寄せられていた信頼が消えてゆくのが、手に取るようにわかる。
黎珠はそんな夏月に対し、懸命に言葉を尽くした。
「どうか、この場で申し上げることだけはご勘弁ください! どこか別に場所を移していただけましたら、すぐにでも仔細を──」
「なんで場所が関係あんだよ? あー、言われた内容は想像できっから、気にすんな。どうせ莫迦とか、お飾りとか、そのへんだろ。怒んねぇから、さっさとこの場で言え」
この言葉はきっと、夏月なりの譲歩と、気遣いなのだろう。
黎珠はそれを理解できたが、丞相が言っていた内容は、彼の想定をはるかに上回る下劣なものだ。やはり、とても口にはできない。
「いえ、あの……やはり、この場では……」
変わらず難色を示す黎珠に、夏月は落胆したようだった。
その場で立ち上がると、凪いだ双眸で黎珠を見下ろす。
「そうか。おれの言うことなんか、信用できないか」
「違います! そのようなことは断じて!」
「だったら言えッ‼」
〈────────────〉
怒声混じりに命じながら、夏月は腰の黒影を叩く。
何か言ってくれたのかもしれないが、激高した彼には届いていないようだ。
夏月が声を荒らげたのを契機に、黙って成り行きを見ていた丞相は、眼の色を変えて彼に擦り寄った。黎珠を指差し、声高に明言する。
「北嶽様! この奴婢はこともあろうに、北嶽様を侮辱しておったのです! それはもう、日々の鬱憤を晴らすような酷い物言いでございました! ほれ、おぬしも聞いておっただろう⁉」
「え、は、はい、それはもう! 悪しざまに罵っておりました!」
話を振られ、連れ立って歩いていた龍はどもりながらも、しきりに同意する。
黎珠は信じられないものを見るような心地で、その光景を目の当たりにしていた。
──この龍どもは、本当にこの玄州の政を司る官吏なのだろうか?
捻りのない稚拙な責任転嫁には、もはや吐き気しか感じない。
「貴様……」
呪詛のような黎珠の呟きなど気にもとめず、丞相はさらに続けた。
「耳にした私が、けしからんと諌めましたところ、この奴婢が突如逆上しまして……ほんに肝が冷えました」
「貴様、それでも北嶽様の臣下か⁉ 恥を知れッ‼」
「黙れ! 卑しい猿が‼」
黎珠を一喝し、丞相は醜く顔を歪める。
不気味なほど流暢な口ぶりで、彼は夏月に自説を披露した。
「この奴婢めは、北嶽様を愚弄したのだ! さぞや恨めしかったのであろう? 殴る蹴るの暴力は日常茶飯事であったものなぁ? つい、恨み言が口をついてしまっても、それは致し方あるまいて」
「……丞相はこう言ってるが?」
静かに問う夏月に、黎珠はきっぱりと否定した。
「違います! まったくの事実無根です!」
「なら、話せ」
黎珠は唇を噛み、地面に視線を落とす。
──ここまで耐えたのだ。もう言ってしまおうか。
弱気が頭をもたげ、弱音が心で声を発する。言うべきか、言わざるべきか。
そんな黎珠の逡巡を最後に後押ししたのは、夏楠と、紅甘藷を食べたときに見せた、夏月の表情だった。
「申し訳ございません。何卒、ご容赦を──」
「ほう?」
絞り出すように告げた黎珠に対し、不気味なほど落ち着いた夏月の声がした。
ほぼ同時に、聞き覚えのある金属音とともに、黒影が引き抜かれる。
〈────────────〉
黒影の剣を携えた夏月は、穏やかな口調で──しかし、明確な殺気を放ち──こう告げた。
「最後に、もう一度言う。今、ここで正直に話せ。答えなけりゃ、おれは丞相を信じて、お前を斬る」
そうして、剣尖を突きつけられる。
黎珠は、涙目で夏月を見上げた。
夏楠と瓜二つの顔。瓜二つの声音。
──今度は、迷わなかった。
恐怖に震える唇で、祈るように。
黎珠は、懇願を繰り返した。
「できません……できないのです。北嶽様、どうか……どうか、わたしを信じてください」
夏月はわずかに戸惑い、考える素振りを見せたが、それも長くは続かなかった。
黎珠の訴えも虚しく、黒影が頭上に振りかざされる。
その声が耳に届いたのは、黎珠が死を覚悟したのと、ほぼ同時だった。




