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「……お前、変わってるって言われないか?」
「よく言われる、やもしれません」
「だろうな」
そう言って北嶽──いや『夏月』は、小さな笑みをこぼした。
それからしばしの間、黎珠は夏月と他愛のない話を交わしていたのだが、
「あ。そういやお前、字読めんだよな?」
唐突に話を振られ、黎珠は急いで口の中の甘藷を呑み込んだ。
「はい。ひと通りは」
「じゃ、一応お前も明日の衆議に出ろ。午後からだ」
「承知しました。ちなみに、どのような衆議なのでしょうか?」
「治水のための調印があんだとよ」
治水と聞いて、黎珠はぴんときた。
李から以前、西嶽は「大規模な水路の建設のため」玄州を訪れたと聞いている。夏月が出席を余儀なくされるなら、これがその会合ではないだろうか。
黎珠が考えを巡らせていると、それを裏付けるように夏月は言葉を続けた。
「細かい調整は終わってっから、あとはおれが判押しゃ終了なんだと。今回は西嶽が出やがるからな。欠席できねぇんだよ」
「では、西嶽公がわざわざ玄州にいらしたのは、その調印のために?」
「だろうな」
膝の上で頬杖をつきながら、夏月はぞんざいに肯定した。
「玄州はやたらと河川が多い。整備が追っつかねぇから、水は常時だだ漏れだ。さすがのお前も、去年の豪雨は知ってるだろ? 川が氾濫しまくって人が鬼のように死んで、おまけに夏だから腐って虫がわいて地獄絵図だった、あれだ」
「は、はい。それはもう」
内心ひやりとしつつ、黎珠は頷いた。
もちろん豪雨など知らなかったが、夏月は気づかなかったらしい。そのまま会話は進んだ。
「玄州に堤を築く金はねぇからな。要はそれをけっこうな額、白州が肩代わりするって話だ。その調印な」
「それは見返りなく、ということでしょうか?」
訊ねると、夏月はおもむろに黎珠の額を指先で弾いた。
「あいたッ!」
「なわけねぇだろ。西嶽が慈善で、んなことすっか」
「と申しますと?」
額を押さえつつ黎珠が問うと、夏月は気怠げな顔を見せた。断られるかと思ったが、夏月にも思うところがあったようで、淡々と説明を始めた。
「治水のついでに、川を分けて白州に引く計画らしい。玄州と逆で、白州は万年水不足だからな。これから未来永劫、楽に水が手に入るなら安い買い物なんだろ。金はあとから、いくらでも回収できるだろうしな」
なるほど、名案だ。
これなら玄州、白州両方が得をし、誰も不幸にならない。
「左様でございましたか。それは双方に利があり、とても良い案ですね」
「……お前もそう思うか?」
ふいに表情を消し、夏月は含みのある問いを投げた。
今まで眼にしたことのない視線を受け、思わず黎珠は身じろぐ。夏月には何か、思うところがあるようだが、黎珠には彼の言わんとすることがわからない。
結局、口をついて出たのは、ありきたりな反問だけだった。
「何か、問題があるのでしょうか?」
「別に? お前が気になんねぇなら、いいんじゃねぇの」
突き放すような言葉を返され、黎珠は口を噤んだ。
ようやく、ほんの少し縮まったと思った夏月との距離は、また開いてしまったらしい。嫌われてはいないようだが、彼の期待からは外れてしまったように思える。
内心落ち込んでいると、夏月はおもむろに腰を上げた。まるで何事もなかったかのように、もときた藪の中に足を踏み入れる。数歩進んだところで、夏月は思い出したように黎珠を振り返った。
「そういうことだから明日、忘れんなよ」
「か、かしこまりました」
無造作に釘を差すと、夏月は素っ気ない足取りで去ってしまう。入れ違いで李が駆けてきたのは、それからすぐのことだった。
『すみません! 途中で丞相さまに、つかまってしまって』
息を切らして帳面を見せた李に、黎珠はかぶりを振った。
謝らなければならないのは、こちらの方だ。李も夏月と同様、黎珠について根掘り葉掘り訊かれたのだろう。余計な手を煩わせてしまった。
「わたしのことを問い詰められたのですよね? ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
頭を下げた黎珠を、李は驚いた様子で見つめる。黎珠は笑って返し、先ほどの夏月との経緯を語るために腰をかがめた。
彼が紅甘藷を渡したいと言っていた相手に、目当てのものを正しく届けられたということを。
*
翌朝、定刻通りに目覚めた黎珠は、日課の水汲みに励んでいた。
気合を入れて両手に桶を握り、回廊横の脇道を歩く。今日は病み上がりのため──この表現はどこか矛盾するようにも思えるが──北嶽に朝餉を出さなければならない。
毒騒動の影響で深夜の修練を休み、睡眠をたっぷりとっている所為だろう。夜食はおろか、通常の食事もままならないので、相当お腹を空かせているはずだ。せめて美味しいお茶と、お粥を夏月には提供したい。
意気揚々と脇道を進んでいると、突然聞き慣れた声が回廊側から耳に入った。
「──め! ──を莫迦にしおって!」
丞相だ。
荒い足取りで、こちらに向かって回廊を歩いてくる。足音からして、もう一名連れがいるようだ。
「おのれ、あの暗愚めがっ! 小僧の分際でわしに指図しおってからに!」
褒められたものではないその台詞に、黎珠は顔を顰めた。
丞相に指図できる立場の者は、西嶽か夏月くらいしかいない。しかもこの文脈であれば、彼が指す「暗愚」な「小僧」はきっと──。
「あの、どうしようもない莫迦北嶽を、このわしが案じてやったと言うに! あのぼんくら、奴婢の猿を信じおったわ!」
どうやら、黎珠が北嶽の評価を下げてしまったらしい。
自然と顔が地面に落ちる。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、黎珠は自身の爪先を見つめた。
「まあまあ、丞相様。あの暗愚めは元来好色な、頭の足りぬ卑賤の輩です。丞相様の深遠なるお考えなど、理解できんのでございましょう」
吐き捨てた丞相に、媚びるような声が追随する。
その物言いに丞相は大いに賛同し、こう続けた。
「毎夜、後宮の美女を侍らせておきながら、猿にまで発情するとはな。ほんに、見苦しい。育ちが知れるわ」
丞相の発言を聞き、黎珠は伏せていた顔を上げた。
久しく忘れていた感情が、胸中に湧く。
さすがに、これは一言物申したい。
「然り、然り。あれの育ちの悪さは聞き及んでおりましたが、かように酷いものとは」
「それはもう、筆舌に尽くしがたい酷さだとも! 正視に耐えぬ、口にするもおぞましい出自だ! あの小僧の卑しさには、吐き気をもよおすほどよ!」
黎珠は桶を持ったまま、脇道を引き返した。
少し行けば、外から回廊を抜けるための入口がある。そこから回廊に入り、丞相らに臣下の心得を説教してやろう。
ぎゅっと桶を握り、鼻息荒く歩みを進める。
そうして黎珠が回廊に足をかけたのと、丞相が続く言葉を口にしたのは、ほぼ同時だった。
「あれはな、男娼の真似事をして喰い繋いだ男なのだ。自身の身体を売り、日銭を稼いでおったのよ!」
丞相の言を聞いた黎珠は、怒りも忘れてその場に立ち尽くした。




