40
「お前、何喰ってんだよ?」
場にそぐわぬ見目麗しい容貌で、北嶽は黎珠を見下ろした。
正確には、先日ほどの着衣の乱れはないが、風呂上がりと思しき魅惑的な艶姿で、こちらを見下ろしていた。
黎珠は驚きのあまり、叩頭も忘れて固まる。
北嶽とは昼過ぎに会ったばかりだ。まだ安静の身であるはずなのに、何故こんな場所へきたのだろう。しかも、風呂上がりに。
「お、紅甘藷じゃねぇか。旨そ」
言いながら、北嶽はおもむろに黎珠へ手を伸ばした。ひょいと手中の紅甘藷を取り上げると、躊躇うことなく口に運ぶ。
黎珠はさらに驚いた。龍は土中のものは食べない、と鳳炬に教わったばかりだ。そのあたり、北嶽はまったく頓着していない様子だが……。
そこではっと我に返り、黎珠は慌てて北嶽の足に縋った。
「いけません北嶽様! そんなものを召し上がっては──」
「お前、口に涎垂れてんぞ?」
「ふえッ⁉︎」
指摘を受け、反射的に手の甲で口元を拭う。
その様子を見て、北嶽はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「いやあ、なかなかイイ表情だったぜ? お前の無駄な甘藷愛は、その涎とともによーく伝わった」
「ぴぎゃぁー! そんなお見苦しいもの、どうかお忘れください!」
「おれ記憶力いいからなぁ。お前の死後二百年は憶えてるなーきっと」
けらけらと笑い、北嶽は再び甘藷を口へ持っていく。黎珠は慌てて袖を引っ張り、甘藷が齧られてしまうのを阻止した。
「駄目です! お身体に障ります!」
「朝から重湯ばっかで飽きたんだよ。別にいいだろ、烏頭は無毒化したって聞いたぞ?」
「ですが、胃腸は確実に弱っています! 二、三日は消化の良いものを召し上がっていただかないと──」
「わかった、わかった。なら半分ならいいだろ? もう半分はお前にやるから。腹減ってんだよ」
濡れた髪をかき上げ、甘藷片手の台詞とは思えない艶っぽさで北嶽が主張する。
仕方なく黎珠は手を引き、紅甘藷を半分受け取った。
確かに北嶽の顔色は良いし、彼は龍だ。回復も早い。そこまで言うなら、紅甘藷半分くらいは食べてもいいだろう。
ただし、念のため。
「北嶽様、薬炭は処方されましたか?」
「あー、あの黒いのな」
黎珠の問いに、視線を逸らして北嶽は返す。
歯切れの悪いこの口調は、まだ服薬していないのだろう。しかもよくよく北嶽を見れば、彼は黒影はおろか、武器らしいものを所持していない。丸腰だ。これは由々しき事態である。
黎珠は膝でぐっと北嶽に詰め寄り、声を大に進言した。
「でしたら、お帰りになったら必ず薬炭をお飲みください! 毒素を吸着して、体外に排出する効果があります。それから、黒影殿は肌身離さず帯剣くださいませ! 御身に危険が迫ったとき、最後に頼りになるのは黒影殿です!」
「わかった、わかったから。お前ちょっと声落とせ。見つかるだろ」
鬱陶しげに北嶽はいい、黎珠は上から頭を押さえつけられる。
何故か周囲の眼をはばかっているようだが、どうしたのだろう。
「北嶽様、何故このような場所に?」
黎珠が訊ねると直後、ごんっと拳骨が降ってきた。
「ぷぎゃ!」
「誰の所為だと思ってやがる」
「わ、わたしでございますか……?」
涙目で恐る恐る問いかける。
それを見た北嶽は苦虫を噛み潰したような表情で、どかりと地面に腰を下ろした。
「お前が無駄に活躍しまくった所為で、さっきまで丞相に質問攻めにされてたんだよ。生まれはどうだの、間者の可能性はないかだの。お前の監視を外したのだって、鬼みたいに怒り狂われて大変だったんだぞ?」
「そ、それは大変なお手間をかけてしまい、申し訳ございませんでした」
黎珠は恐縮したが、北嶽は涼しい顔で紅甘藷を齧った。
「ま、全部西嶽に押し付けて、風呂で撒いてきたけどな。西嶽なら、なんか上手い言い訳するだろ」
「やはり沐浴なさったのですね。それでこんなにお色気たっぷりでございましたか……」
苦笑を交えつつ、黎珠は北嶽を見る。
さすがに胸元は覆われているが、ほんのり上気した頬や汗ばんだ頸筋、湿った黒髪は剥き出しだ。衆目を忍んでいたから良かったものの、これで回廊など闊歩しようものなら、失神する者が続出しかねない。
黎珠の感想を聞いた北嶽は、ふと紅甘藷を頬張る手を止めた。平伏する黎珠に近寄り、片膝をついてその顔を覗き込む。
「前から気になってたが、お前、普通だよな?」
「普通と申しますと?」
問いには答えず、北嶽は黎珠の顎を掴んで上向かせた。眼と鼻の先に迫った北嶽の顔は、髪色以外、見れば見るほど夏楠に瓜二つだ。父親似なのだろう。
つい観察してしまった黎珠に、北嶽は双眸を眇めて低く呟いた。
「頬を染めるなり、ぶっ倒れるなり、反応があるだろ。特に女は」
「ああー……」
北嶽の言わんとすることを悟り、黎珠は得心して声を漏らした。
それはそうだろう。この美貌では女ばかりか、見境をなくした男にも襲われそうだ。まあ、間違いが起こったところで、彼なら即返り討ちだろうが。
黎珠はその場で胸を反らすと、北嶽に明言した。
「わたしには耐性がございますので、北嶽様に劣情を抱くことはございません。ご安心を!」
「どんな耐性だよ。まあ、面倒がねぇからいいけど」
ぱっと手を離し、北嶽はそのまま地面に腰を下ろす。そして思い出したように意地の悪い笑みを浮かべ、黎珠に視線を投げた。
「でも、いきなり舌入れられたときは、さすがにおれもビビったぞ?」
「舌? どこにですか?」
「口」
「まあ、なんと破廉恥な! 誰ですか、北嶽様にそのようなご無体を強いた輩は──ぴぎゃふ⁉」
すかさず、後頭部に平手を受けた。
今度は何をやらかして叩かれたのだろう。
考えを巡らす間もなく、北嶽は引きつった笑みで黎珠の頭を鷲掴みにすると、一音一音区切るようにして、こう言った。
「お・ま・え・だ・よ!」
「は?」
はて、なんの話だろうか。
両手を組んで記憶を探ってみる。
烏の鳴き声を背景にたっぷりと間をおいて、黎珠はついに思い至った。
──毒の、処置のときだ。
「あ、はわぁあわあああわあぁはわあわわはあああぁー‼」
全身の血液が、音を立てて引いてゆく。
黎珠は両手で頭を抱え、言葉にならない言語を発して身悶えた。
確かに、確かに北嶽は最初、口を閉ざしていた、ので、水分を流し込むために何か──したような気がする。必死でよく憶えてないが。したような気はする、いやきっとしたのだろう、北嶽が言うのであればきっと。
黎珠は身体を投げ出すように叩頭すると、全力で北嶽に平謝りした。
「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません!」
「お前って本っ当に気づくの遅ぇよな。もう慣れたけど」
呆れ顔で北嶽は言うものの、黎珠はそれどころではない。
両手で口元を押さえ、ぶるぶると震えながら黎珠は呻いた。
「なんということでしょう……不遜にも北嶽様の唇を奪ってしまい、わたしはどう責任を取れば……」
「ちょっと待て。それなんか違くないか? なんでおれが、お手付きになった生娘みたいな立ち位置になんだよ?」
北嶽はごにょごにょ言っているが、それで黎珠の罪が消えるわけではない。
くわっと眼を見開くと、黎珠は再び北嶽に謝罪した。
「申し訳ございません、北嶽様! わたし、婿入り前の北嶽様を穢してしまいました!」
「それは違ぇ! 果てしなく違ぇ‼」
北嶽は猛烈な速さで否定したが、その好意に甘えてしまうには、黎珠の犯した罪は重過ぎる。
いったいどうすれば、この罪を濯ぐことができるのか。無知な黎珠には想像もつかない。
「そうはおっしゃいますが、わたしが北嶽様を穢してしまったのは事実ですし……もしも北嶽様がお婿にいけなかったら、わたしはどうすれば──」
「っっっとに阿呆だな、お前は‼ いやもういい、もう赦す! 赦してやる! だからこの件についてこれ以上触れるな! 変な噂が流れる!」
「なんとお優しい。お赦しいただき、誠にありがとうございます」
恩赦に感動して頭を下げる黎珠に、北嶽は心底げんなりした様子で溜息をついた。
「お前といると、なんか調子狂うな」
そう言って北嶽は残りの甘藷を口に放り、色っぽい仕草で手に付いた蜜を嘗め取る。
やはり、土中の食物に抵抗はないようだ。これは父である夏楠が頓着しなかったからだろうか。あるいは、彼の母親が甘藷好んでいたのかもしれない。
じっと咀嚼するさまを見ていると、ふいに北嶽は半眼で黎珠を睨んだ。
「なんだよ。おれは育ちが悪いからな。お前も見りゃわかるだろ?」
「いえ、そのようなことは──」
否定を口にしたとき、黎珠は李の切干甘藷を思い出した。
彼は自分のために、わざわざ治安の悪い斜陽宮の外で、必須でもない嗜好品を買い付けるだろうか。順当に宮中から発注しないのは、そうと知れると障りがあったからではないだろうか。
例えば──。
「李君が切干甘藷を買っていたのは、北嶽様のご所望だったのですか?」
「……だったら、なんだよ」
「わかります!」
紅甘藷を握り、黎珠は前のめりで同意する。
北嶽は、何故か呆気にとられた顔でこちらを見返した。
「しばらく食べないと、なんだか無性に、猛烈に欲しくなる魔力が紅甘藷にはあると、わたしも愚考いたします! 美味しいですよね、紅甘藷! 食べないなんて勿体ないを通り越して、むしろ不幸だとわたしは常々思っておりました‼」
突如、甘藷を握り締めて熱弁を振るう姿に若干引きつつも、北嶽は黎珠に賛同した。
「あー、うん。確かに定期的に喰いたくなるよな、甘藷は」
「はい! あの、実は宮内に甘藷畑がありまして、ご所望でしたら、こっそり北嶽様にお持ちいたします。龍の常識からして、まさか紅甘藷を北嶽様が召し上がるとは思わないでしょうし、逆に安全かと」
「なるほどな。じゃあ頼む」
「はい。かしこまりました!」
これで少しでも汚名返上できれば幸いだ。
万歳したい気持ちを抑えて平伏した黎珠を見て、北嶽はふと表情を緩めた。視線を移し、茜が差し始めた空を見上げて、静かに口を開く。
「お前、名が二つあるって言ってただろ。玉音と和訓で」
「はい」
「おれも、和訓のがある」
瞠目する黎珠をよそに、北嶽は地面に胡座をかいて続けた。
「小童の頃は、人に混じって母さんと暮らしてたからな。龍と露見ないために、和訓の呼び名も必要だったんだよ。ま、この金眼の所為で、業突く爺に途中で捕まっちまったけどな」
「あの、和訓のお名前をうかがっても良いでしょうか? あ、もちろん絶対に口にはいたしませんので!」
玉音の名は、さすがに無礼が過ぎる。だが和訓ならば、口外さえしなければ、教えてもらえないだろうか。
黎珠は、仕える彼の名さえ知らない。それが今は、とても寂しい。
夏楠が繰り返し「名で呼んでくれ」と言っていた意味が、ようやくわかった気がする。たとえ呼ぶことは叶わなくとも──黎珠は、彼の名前が知りたかった。
北嶽の返答には、短い沈黙が挟まれた。
ちらりと視線が送られる。緊張して次の言葉を待っていると、一拍置いて北嶽は答えた。
「ナツキ。夏の月で、夏月らしい。酷ぇ名だろ?」
「何故です? 綺麗な御名ではございませんか」
「あー、お前は知らねぇのか。玄州じゃ、季節にちなんだ名付けは『冬』一択なんだよ。真逆の『夏』なんて付けるのは嫌がらせか、おれみたいに糞親父から継いじまったかの、どっちかだな」
ああ、それは夏楠も言っていた。
玄州の州季は冬のため、対極の夏は疎まれると。
しかし、黎珠はそうは思わない。昔から、いっとう好きな季節は夏なのだ。冬は人が死ぬから嫌いだ。春は存在が疑わしいほど短い。秋もすぐに肌寒くなり、冬の到来に気が滅入る。
だから──。
「でも! わたしは夏が好きです。日が高くて、空が青くて、生命は活気づいて。この季節は何もかもが、絢爛豪華ですから」
「……お前、変わってるって言われないか?」
「よく言われる、やもしれません」
「だろうな」
そう言って北嶽──いや『夏月』は、小さな笑みをこぼした。




