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「お前、何喰ってんだよ?」


 場にそぐわぬ見目麗しい容貌で、北嶽は黎珠を見下ろした。

 正確には、先日ほどの着衣の乱れはないが、風呂上がりとおぼしき魅惑的な艶姿あですがたで、こちらを見下ろしていた。


 黎珠は驚きのあまり、叩頭こうとうも忘れて固まる。

 北嶽とは昼過ぎに会ったばかりだ。まだ安静の身であるはずなのに、何故こんな場所へきたのだろう。しかも、風呂上がりに。


「お、紅甘藷べにいもじゃねぇか。うまそ」


 言いながら、北嶽はおもむろに黎珠へ手を伸ばした。ひょいと手中の紅甘藷べにいもを取り上げると、躊躇ためらうことなく口に運ぶ。


 黎珠はさらに驚いた。龍は土中のものは食べない、と鳳炬ほうきょに教わったばかりだ。そのあたり、北嶽はまったく頓着していない様子だが……。

 そこではっと我に返り、黎珠は慌てて北嶽の足にすがった。


「いけません北嶽様! そんなものを召し上がっては──」

「お前、口によだれ垂れてんぞ?」

「ふえッ⁉︎」


 指摘を受け、反射的に手の甲で口元を拭う。

 その様子を見て、北嶽はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「いやあ、なかなかイイ表情かおだったぜ? お前の無駄な甘藷愛いもあいは、その涎とともによーく伝わった」

「ぴぎゃぁー! そんなお見苦しいもの、どうかお忘れください!」

「おれ記憶力いいからなぁ。お前の死後二百年は憶えてるなーきっと」


 けらけらと笑い、北嶽は再び甘藷いもを口へ持っていく。黎珠は慌てて袖を引っ張り、甘藷いもが齧られてしまうのを阻止した。


「駄目です! お身体にさわります!」

「朝から重湯おもゆばっかで飽きたんだよ。別にいいだろ、烏頭うずは無毒化したって聞いたぞ?」

「ですが、胃腸は確実に弱っています! 二、三日は消化の良いものを召し上がっていただかないと──」

「わかった、わかった。なら半分ならいいだろ? もう半分はお前にやるから。腹減ってんだよ」


 濡れた髪をかき上げ、甘藷いも片手の台詞せりふとは思えない艶っぽさで北嶽が主張する。

 仕方なく黎珠は手を引き、紅甘藷べにいもを半分受け取った。


 確かに北嶽の顔色は良いし、彼は龍だ。回復も早い。そこまで言うなら、紅甘藷べにいも半分くらいは食べてもいいだろう。

 ただし、念のため。


「北嶽様、薬炭やくたんは処方されましたか?」

「あー、あの黒いのな」


 黎珠の問いに、視線を逸らして北嶽は返す。

 歯切れの悪いこの口調は、まだ服薬していないのだろう。しかもよくよく北嶽を見れば、彼は黒影はおろか、武器らしいものを所持していない。丸腰だ。これは由々しき事態である。

 黎珠はひざでぐっと北嶽に詰め寄り、声を大に進言した。


「でしたら、お帰りになったら必ず薬炭やくたんをお飲みください! 毒素を吸着して、体外に排出する効果があります。それから、黒影殿は肌身離さず帯剣くださいませ! 御身おんみに危険が迫ったとき、最後に頼りになるのは黒影殿です!」

「わかった、わかったから。お前ちょっと声落とせ。見つかるだろ」


 鬱陶うっとうしげに北嶽はいい、黎珠は上から頭を押さえつけられる。

 何故か周囲の眼をはばかっているようだが、どうしたのだろう。


「北嶽様、何故このような場所に?」


 黎珠がたずねると直後、ごんっと拳骨げんこつが降ってきた。


「ぷぎゃ!」

「誰の所為せいだと思ってやがる」

「わ、わたしでございますか……?」


 涙目で恐る恐る問いかける。

 それを見た北嶽は苦虫を噛み潰したような表情かおで、どかりと地面に腰を下ろした。


「お前が無駄に活躍しまくった所為せいで、さっきまで丞相じょうしょうに質問攻めにされてたんだよ。生まれはどうだの、間者かんじゃの可能性はないかだの。お前の監視を外したのだって、鬼みたいに怒り狂われて大変だったんだぞ?」

「そ、それは大変なお手間をかけてしまい、申し訳ございませんでした」


 黎珠は恐縮したが、北嶽は涼しい顔で紅甘藷べにいもかじった。


「ま、全部西嶽に押し付けて、風呂でいてきたけどな。西嶽あいつなら、なんか上手い言い訳するだろ」

「やはり沐浴ゆあみなさったのですね。それでこんなにお色気たっぷりでございましたか……」


 苦笑をまじえつつ、黎珠は北嶽を見る。

 さすがに胸元は覆われているが、ほんのり上気した頬や汗ばんだ頸筋くびすじ、湿った黒髪はき出しだ。衆目を忍んでいたから良かったものの、これで回廊など闊歩しようものなら、失神する者が続出しかねない。


 黎珠の感想を聞いた北嶽は、ふと紅甘藷べにいもを頬張る手を止めた。平伏する黎珠に近寄り、片膝をついてその顔を覗き込む。


「前から気になってたが、お前、普通だよな?」

「普通と申しますと?」


 問いには答えず、北嶽は黎珠のあごを掴んで上向かせた。眼と鼻の先に迫った北嶽の顔は、髪色以外、見れば見るほど夏楠に瓜二つだ。父親似なのだろう。

 つい観察してしまった黎珠に、北嶽は双眸そうぼうすがめて低く呟いた。


ほほを染めるなり、ぶっ倒れるなり、反応があるだろ。特に女は」

「ああー……」


 北嶽の言わんとすることを悟り、黎珠は得心して声を漏らした。

 それはそうだろう。この美貌では女ばかりか、見境をなくした男にも襲われそうだ。まあ、間違いが起こったところで、彼なら即返り討ちだろうが。

 黎珠はその場で胸を反らすと、北嶽に明言した。


「わたしには耐性がございますので、北嶽様に劣情をいだくことはございません。ご安心を!」

「どんな耐性だよ。まあ、面倒がねぇからいいけど」


 ぱっと手を離し、北嶽はそのまま地面に腰を下ろす。そして思い出したように意地の悪い笑みを浮かべ、黎珠に視線を投げた。


「でも、いきなり舌入れられたときは、さすがにおれもビビったぞ?」

「舌? どこにですか?」

「口」

「まあ、なんと破廉恥はれんちな! 誰ですか、北嶽様にそのようなご無体をいたやからは──ぴぎゃふ⁉」


 すかさず、後頭部に平手を受けた。

 今度は何をやらかして叩かれたのだろう。

 考えを巡らす間もなく、北嶽は引きつった笑みで黎珠の頭を鷲掴みにすると、一音一音区切るようにして、こう言った。


「お・ま・え・だ・よ!」

「は?」


 はて、なんの話だろうか。

 両手を組んで記憶を探ってみる。

 からすの鳴き声を背景にたっぷりと間をおいて、黎珠はついに思い至った。

 ──毒の、処置のときだ。


「あ、はわぁあわあああわあぁはわあわわはあああぁー‼」


 全身の血液が、音を立てて引いてゆく。

 黎珠は両手で頭をかかえ、言葉にならない言語を発して身悶みもだえた。


 確かに、確かに北嶽は最初、口を閉ざしていた、ので、水分を流し込むために何か──したような気がする。必死でよく憶えてないが。したような気はする、いやきっとしたのだろう、北嶽が言うのであればきっと。


 黎珠は身体からだを投げ出すように叩頭こうとうすると、全力で北嶽に平謝りした。


「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません!」

「お前って本っ当に気づくのおせぇよな。もう慣れたけど」


 呆れ顔で北嶽は言うものの、黎珠はそれどころではない。

 両手で口元を押さえ、ぶるぶると震えながら黎珠はうめいた。


「なんということでしょう……不遜にも北嶽様の唇を奪ってしまい、わたしはどう責任を取れば……」

「ちょっと待て。それなんか違くないか? なんでおれが、お手付きになった生娘きむすめみたいな立ち位置になんだよ?」


 北嶽はごにょごにょ言っているが、それで黎珠の罪が消えるわけではない。

 くわっと眼を見開くと、黎珠は再び北嶽に謝罪した。


「申し訳ございません、北嶽様! わたし、婿入り前の北嶽様をけがしてしまいました!」

「それはちげぇ! 果てしなくちげぇ‼」


 北嶽は猛烈な速さで否定したが、その好意に甘えてしまうには、黎珠の犯した罪は重過ぎる。

 いったいどうすれば、この罪をすすぐことができるのか。無知な黎珠には想像もつかない。


「そうはおっしゃいますが、わたしが北嶽様をけがしてしまったのは事実ですし……もしも北嶽様がお婿にいけなかったら、わたしはどうすれば──」

「っっっとに阿呆あほだな、お前は‼ いやもういい、もうゆるす! 赦してやる! だからこの件についてこれ以上触れるな! 変な噂が流れる!」

「なんとお優しい。おゆるしいただき、誠にありがとうございます」


 恩赦おんしゃに感動して頭を下げる黎珠に、北嶽は心底げんなりした様子で溜息をついた。


「お前といると、なんか調子狂うな」


 そう言って北嶽は残りの甘藷いもを口に放り、色っぽい仕草で手に付いた蜜をめ取る。


 やはり、土中の食物しょくもつに抵抗はないようだ。これは父である夏楠が頓着しなかったからだろうか。あるいは、彼の母親が甘藷いも好んでいたのかもしれない。

 じっと咀嚼そしゃくするさまを見ていると、ふいに北嶽は半眼で黎珠を睨んだ。


「なんだよ。おれは育ちが悪いからな。お前も見りゃわかるだろ?」

「いえ、そのようなことは──」


 否定を口にしたとき、黎珠は李の切干甘藷ほしいもを思い出した。

 彼は自分のために、わざわざ治安の悪い斜陽宮の外で、必須でもない嗜好品を買い付けるだろうか。順当に宮中から発注しないのは、そうと知れるとさわりがあったからではないだろうか。

 例えば──。


「李君が切干甘藷ほしいもを買っていたのは、北嶽様のご所望だったのですか?」

「……だったら、なんだよ」

「わかります!」


 紅甘藷べにいもを握り、黎珠は前のめりで同意する。

 北嶽は、何故か呆気あっけにとられた顔でこちらを見返した。


「しばらく食べないと、なんだか無性に、猛烈に欲しくなる魔力が紅甘藷べにいもにはあると、わたしも愚考いたします! 美味しいですよね、紅甘藷べにいも! 食べないなんて勿体ないを通り越して、むしろ不幸だとわたしは常々思っておりました‼」


 突如、甘藷いもを握り締めて熱弁を振るう姿に若干引きつつも、北嶽は黎珠に賛同した。


「あー、うん。確かに定期的に喰いたくなるよな、甘藷いもは」

「はい! あの、実は宮内に甘藷畑いもばたけがありまして、ご所望でしたら、こっそり北嶽様にお持ちいたします。龍の常識からして、まさか紅甘藷べにいもを北嶽様が召し上がるとは思わないでしょうし、逆に安全かと」

「なるほどな。じゃあ頼む」

「はい。かしこまりました!」


 これで少しでも汚名返上できれば幸いだ。

 万歳したい気持ちを抑えて平伏した黎珠を見て、北嶽はふと表情を緩めた。視線を移し、茜が差し始めた空を見上げて、静かに口を開く。


「お前、名が二つあるって言ってただろ。玉音と和訓で」

「はい」

「おれも、和訓のがある」


 瞠目どうもくする黎珠をよそに、北嶽は地面に胡座あぐらをかいて続けた。


小童ガキの頃は、人に混じって母さんと暮らしてたからな。龍と露見バレないために、和訓の呼び名も必要だったんだよ。ま、この金眼所為せいで、業突ごうつじじいに途中で捕まっちまったけどな」

「あの、和訓のお名前をうかがっても良いでしょうか? あ、もちろん絶対に口にはいたしませんので!」


 玉音の名は、さすがに無礼が過ぎる。だが和訓ならば、口外さえしなければ、教えてもらえないだろうか。

 黎珠は、つかえる彼の名さえ知らない。それが今は、とても寂しい。

 夏楠が繰り返し「名で呼んでくれ」と言っていた意味が、ようやくわかった気がする。たとえ呼ぶことは叶わなくとも──黎珠は、彼の名前が知りたかった。


 北嶽の返答には、短い沈黙が挟まれた。

 ちらりと視線が送られる。緊張して次の言葉を待っていると、一拍置いて北嶽は答えた。


「ナツキ。夏の月で、夏月なつきらしい。ひでぇ名だろ?」

「何故です? 綺麗な御名みなではございませんか」

「あー、お前は知らねぇのか。玄州じゃ、季節にちなんだ名付けは『冬』一択なんだよ。真逆の『夏』なんて付けるのは嫌がらせか、おれみたいに糞親父くそおやじから継いじまったかの、どっちかだな」


 ああ、それは夏楠も言っていた。

 玄州の州季は冬のため、対極の夏はうとまれると。

 しかし、黎珠はそうは思わない。昔から、いっとう好きな季節は夏なのだ。冬は人が死ぬから嫌いだ。春は存在が疑わしいほど短い。秋もすぐに肌寒くなり、冬の到来に気が滅入る。

 だから──。


「でも! わたしは夏が好きです。日が高くて、空が青くて、生命は活気づいて。この季節は何もかもが、絢爛豪華けんらんごうかですから」

「……お前、変わってるって言われないか?」

「よく言われる、やもしれません」

「だろうな」


 そう言って北嶽──いや『夏月ナツキ』は、小さな笑みをこぼした。


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