37
北嶽の介抱を終えると、黎珠はもはや日課となりつつある鳳炬の蓮池を訪れた。
昨日の一件では、茶席を担当した鳳炬にも疑いがかかっている。案の定、池の各所には見慣れぬ龍兵が配置され、行き交う者に眼を光らせていた。普段外に出ていることが多い鳳炬も、今日は宮の中に押し込められているようだ。
その境遇に、黎珠は心苦しさを抱えながら鳳炬の居所へと急いだ。
彼女に庇ってもらいながら、自分だけが自由を得ていることを申し訳なく思う。せめて面と向かって、きちんと昨日の礼を伝えたい。
龍兵の取次で室に入ると、鳳炬は窓辺で読書に耽っていた。ちなみに、黎珠を取り次いだ龍は去らず、無言で室の隅に控えている。今の状況では、監視が立ち合いになるのも致し方ない。できれば今回の毒や、夏楠と孝燕についても話を訊きたかったが、控えた方が良さそうだ。
「黎珠、いらっしゃい! 大丈夫? あのあと酷いことされなかった?」
鳳炬はこちらに気づくなり、その芳顔を輝かせて黎珠に駆け寄った。
黎珠が卑賎の身であるにもかかわらず、まっすぐ案じてくれる鳳炬に、感謝で胸が熱くなる。
「お陰様で無傷です、鳳炬様。先ほど、北嶽様のお口添えで自由に行動できるようになりました」
「そう、それは良かったわ。こっちには全然情報が入ってこないんだもの、もう心配で心配で」
「お気遣い痛み入ります。それはそうと鳳炬様、昨日はご助力をいただき、ありがとうございました。けれど、その所為で今度は鳳炬様がこのようなことになってしまい、本当に申し訳ありません」
叩頭ではいささか大仰かと思い、立礼で謝罪する。
膝に触れるほど下げた黎珠の頭は、ほかならぬ鳳炬の手によって、ぐいと元の位置に戻された。
「何言ってるの! 黎珠はまず、自分のことを心配して頂戴。これでもわたくしは、先々代南嶽の娘なの。色々あって勘当されて、今は玄州に住んでいるけどね。龍は何より血統を重んじるから、四嶽の血筋にはそうそう手を出せない。わたくしなんかより、黎珠の方がよっぽど危険なのよ?」
「南嶽公──ということは、鳳炬様は朱州の公主だったのですか⁉」
先々代とはいえ、まさかの南嶽公の実子だ。北嶽、西嶽、雲翔に続く高位の龍である。それは鳳炬自身に乞われたとしても皆、名呼びは辞退するだろう。知っていれば黎珠も辞していた。
あんぐりと口を開けて固まる黎珠に、鳳炬は握った手をぶんぶん上下に振って反論した。
「違いますぅー! 除籍されてるから、もう公主でもなんでもないんですぅー! そんなことよりお願いだから、もう二度と昨日のような真似はやめて頂戴。官吏は奴婢の命なんて、そのへんの石ころぐらいにしか思ってないの。北嶽公が黎珠を護ってくれるわけでもなし、一歩間違えば即、頸を刎ねられていたんだからね?」
「は、はい。以後気を付けます……」
ずい、と顔を近づける鳳炬の迫力に気圧されつつ、黎珠は恐縮してこくこくと頷いた。そんな黎珠に指を突きつけ、上目遣いで鳳炬は念を押す。
「本当の本当に気を付けるのよ? 黎珠ってしっかりしてるようで、どこか抜けてるんだもの。正直、広間で席に着いた黎珠を見たときは眩暈がしたわ」
「ご心配おかけして申し訳ありません。ですが、わたしも今回の件で身に沁みました。以後は決して油断しません。この命に代えても、北嶽様を護り通してみせます!」
腕に力瘤を作り問題ないことを訴えるが、肉がない所為か鳳炬は懐疑的である。監視の龍を横目で見つつ、煮え切らない表情で鳳炬は黎珠に語りかけた。
「えっと、そこはそんなに頑張らなくていいのよ? いえむしろ、わたくしとしては頑張らないでほしいと言うか……。ほら、また賊が襲って来るかもしれないじゃない?」
「大丈夫です! 賊など、昔山で遭遇した大熊との死闘に比べれば、恐れるに足りません!」
「熊と比べるのは以後、禁止です!」
くわっ、と鳳炬は金の眼を見開いて言った。
「ですがあのあと、とても良い毛皮が手に入りまして」
「勝ったの、黎珠……」
「はい。壮絶な戦いでした」
真顔で答えた黎珠に、鳳炬は額に手を当てて溜息をついた。
「とにかく、もう戦わないで。賊も熊も、とにかく危険ぽいもの全部」
「前向きに善処させていただきます……」
「じゃ、血生臭い話はこのくらいにして。黎珠、これを見てくださる?」
口調を明るく転じると、鳳炬はその場でくるりと回り、背に隠れていた卓子を披露した。卓の上には、布を被せた大きな籠が置かれている。その覆いを鳳炬が取ると、籠に盛られた大量の紅甘藷が姿を現した。
層雲宮で間食に出されて以来、黎珠が自覚した大好物である。
「紅甘藷ではないですか! これは良い出来ですね、美味しそうです」
「そう? 実はあっちの畑にまだあるのだけど、やっぱり食べごろなのかしら?」
「はい。これは季節を問わず、条件さえ整えば通年収穫できる甘藷です。わたしの里でもよく育てていました」
「そうなの。食べごろなのね、やっぱり……」
応じる鳳炬は、やや重い口振りで視線を逸らす。
黎珠とは対照的に、あまり歓迎していない様子だ。彼女は紅甘藷が苦手なのかもしれない。
「鳳炬様は、紅甘藷がお嫌いなのですか?」
「嫌いではないのよ、嫌いでは。ただ、少し抵抗があるというか……その……」
少し口籠ると、鳳炬は幼子のような仕草で黎珠を見つめ、口を開いた。
「ごめんなさい、気を悪くしないで聞いてね。龍は天と尊び、地を穢れとして避ける傾向が強いの。だから、土中に生るものは決して食さないのよ」
「ど、土中のものは召し上がらない⁉ 紅甘藷以外もですか⁉ 蕪や人参や牛蒡も?」
「ごめんなさい。いただいたことないわ」
「そ、そんな……あんなに美味しいものを……ッ」
衝撃の事実である。
しかし改めて回想すると、以前、李が持っていた切干甘藷を、龍兵は『豚の餌』と呼んでいた。あれは、ここに端を発していたのだ。
「ええ、天武兄様も同じことをおっしゃってたわ。美味だと力説されたのだけど、こればかりは昔から食べ物ではないと言い聞かされて、どうしてもね……」
「では、この紅甘藷の山は、わたしがいただいてしまっても?」
「勿論よ! そのために持って来たんだから! 畑にあるのも、じゃんじゃん持って行っていいからね」
鳳炬のありがたい申し出に、黎珠は喜び勇んで紅甘藷の籠を両手に抱えた。
「ありがとうございます、鳳炬様! 北嶽様が療養中なので、このあとちょうど余暇があったのです。さっそく調理していただきますね!」
「ええ、是非そうして頂戴。北嶽公の奴婢でいいことなんて、しょっちゅう遊び惚けてくれるおかげで為事が皆無──ちょっと少ないことくらいだもの。黎珠に喜んでもらえて本当に良かったわ!」
「はい、それはもう」
ちらっと監視の龍兵を見ながら訂正した鳳炬に、黎珠は苦笑する。
確かに彼女の言うことは一理あった。北嶽の世話は李と黎珠で分担しているが、すべきことは大方昼前に終わってしまうのだ。衣服の洗濯や調度品の掃除は専門の女官が担当するため、午後は料理の配膳と風呂、寝台の用意ぐらいしかない。
本来、高位の龍の着替えや入浴には奴婢の介助があるらしいが、それすらもない。赤子のようで嫌だとかで、北嶽がすべて断っているのだ。極めつけに李が凄まじく優秀なため、黎珠の出る幕はほぼないと言っていい。
黎珠が紅甘藷を手に持つと、鳳炬は急かすようにその背を戸口へ押した。
「じゃ、黎珠は暇があるうちに早く食べてらっしゃい。最近事件続きで、いつどこから沙汰が下るかわからないもの。横槍が入る前に、さっさとお腹に収めた方がいいわ。今度、味の感想を聞かせて頂戴ね」
「はい、ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて失礼いたします、鳳炬様」
丁寧に礼をしてから、黎珠は鳳炬の室をあとにした。
退室の間際、背中ごしに鳳炬が声をかける。
「北嶽公に、気を付けて」
鳳炬を安心させるため、黎珠は破顔とともに首肯をしてみせた。




