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 翌日、北嶽が持ち直したことを黎珠が聞いたのは、昼も過ぎた頃だった。

 一日経ち、烏頭うずが無毒化したのだろう。

 北嶽の無事を李伝いに聞いたとき、黎珠は安堵でひざが折れそうになった。


 昨日も、そうだ。北嶽を治療している間や、自身が尋問されているときは気にならなかったが、広間を出て冷静な思考が戻ると、急に震えが止まらなくなった。


 氷に毒を仕込む手は、稀だが耳にしたことはある手法だ。北嶽が以前、毒を盛られたことを黎珠は事前に聞いていた。聞いていながら、慢心から見過ごしてしまったのである。

 自分の不注意で夏楠の子を殺してしまったら──そう思うと夜も眠れず、寝台で丸まったまま黎珠は朝を迎えた。


 思い返せば斜陽宮へ来てからというもの、夏楠と孝燕の死について調べる余裕はまるでなかった。北嶽が命を狙われたのは、これで二日連続だ。彼がこれほどまでに狙われるのは、夏楠や孝燕の死と関連があるのだろうか。


 だがいずれにしても、今は北嶽の顔を見て、安心したい。

 意識が戻った北嶽から証言が取れたのか、黎珠の監視は李と入れ替わりでへやから出て行った。李に確認すると、とりあえず黎珠の疑いは晴れたようで、北嶽の見舞いも可能だという。


『むしろ、おねえさんとお話ししたそうなご様子でした』


 それはそうだろう、と黎珠は思った。

 襲撃のときとはわけが違う。今回は北嶽自ら指名されたにもかかわらず、命を危険にさらしてしまったのだ。叱責は免れない。里なら百叩きの刑だ。


 それも覚悟の上で、北嶽の無事な顔見たさに黎珠は寝所へ急いだ。すでに指示が通っているのか、道中明らかに増えた龍兵も黎珠には頓着しない。すんなり寝室の前に辿り着くと、黎珠は一度立ち止まり、深呼吸をした。


「失礼いたします」


 そっと戸を開け、寝室に足を踏み入れる。部屋を見渡すと、北嶽は手元に黒影を置き、寝台で上体を起こしていた。顔はこちらを向いておらず、所在なげに虚空を眺めている。その横顔は、やや疲れの色が見えるものの血色は良く、黎珠の想像以上にすこやかに映った。


 ──ああ。もう大丈夫だ。

 無事な姿を見た途端、ぼろっと両眼から涙がこぼれた。

 見苦しいから泣くな、と言われていたのに。どうしてこう、まともに言いつけを守れないのだろうか。自分の無能さが嫌になる。


 突然泣き出した黎珠を、眼を見開いて北嶽が見つめる。その視線から逃れるように叩頭こうとうし、黎珠は声を絞り出した。


「良っ……ございました。ご無事で……」


 なんだ、この言語は。

 涙が咽喉のどに絡んで、うまく声が出ない。

 乱暴に両眼をぬぐい、奥歯を噛み締める。大きく息を吸い、黎珠は呼気を整えた。


〈────────────────〉

「──……わ」

「申し訳ございませんでした!」


 何か言いかけた北嶽をさえぎり、黎珠は大声で謝罪した。

 なんて間が悪い、と後悔したがもう遅い。それに聞き返したところで、北嶽の言いたいことはだいたい理解わかる。もしかすると、あまりの黎珠の酷さに今後、口をいてくれないかもしれない。


 ──ならば先に、自分の口で謝りたい。

 そのままの勢いで、黎珠は続けた。


「毒見役を仰せつかったにも関わらず、このような失態。もはや弁明の余地もございません。誠に、誠に申し訳ございませんでした!」

〈────────────────〉


 一気に言い切り、これ以上下がらない頭を床に押し付ける。

 黎珠に対する北嶽のいらえは、すぐにはもたらされなかった。

 胃を締められるような長い沈黙のあと、まるで水滴を落とすように、ぽつりと北嶽が呟いた。


「別に。おれは死ななかったしな」


 それは予想外に淡白で、達観した物言いだった。

 だがそれでも、黎珠の不手際で北嶽が死にかけた事実は変わらない。


「で、ですが、わたしは──」


 黎珠が言い募ろうとするも、北嶽はふいとそっぽを向いた。

 取り付く島もない口調で、


「もういい。この話はこれで終わりだ」

「……はい。承知しました」

〈──────────〉


 そう言われてしまえば、黎珠はうなだれることしかできない。

 それはそうだろう。北嶽にしてみれば、黎珠に逢ってからというもの不幸続きだ。疫病神もいいところである。もう、黎珠の顔など二度と見たくないに違いない。

 もう一度深く頭を下げると、黎珠は手短に退室を告げた。


「それでは、わたしは失礼いたします。北嶽様はどうぞ、お身体をお大事に」

「待て」


 下がりかけた黎珠は制止を受け、何事かと北嶽を見上げた。すると当の北嶽の、困惑したような瞳と眼が合う。

 その気はなかったのに、つい呼び止めてしまった──そんな印象を受けるが、はて、どうしたのだろう。


「はい。何用でございましょう」

「ああ、その……咽喉のどが渇いた。茶が飲みたい」

「かしこまりました。李君を呼びますので、しばしお待ちを」

「お前でいい」


 言い放たれた言葉に、黎珠は仰天して北嶽を見返した。その視線をかわすように、北嶽は顔を背ける。


「早く飲みたいんだ、すぐれろ。茶はあれだ、蜜蘭香みつらんこうがいい」

「それは、ですが、北嶽様」


 いくら茶が飲みたいとは言え、昨日の今日では気分が悪いだろう。

 やんわり再考をうながす黎珠を、北嶽はしっかりとした声音で遮った。


「いい。昨日のあれが、お前じゃないのはわかってる。考えてみりゃ、お前にしては不自然だ。黒影なまくらもそう言ってる。そもそも、お前がおれを殺す気なら、おれはもうとっくに死んでるだろ。違うか?」


 そう問いかける北嶽を、黎珠は再び泣き出したい気持ちで見つめた。

 あのとき、北嶽かれと同じ台詞を自分が言ったときも、夏楠は似たような気持ちだったのだろうか。多分、信用を得られたことは嬉しかったに違いない。


 毒見ができなくて残念だ、と笑っていた夏楠を思い出しながら、黎珠は北嶽に笑顔を返した。


「ありがとうございます、北嶽様。わたしはてっきり、北嶽様に罷免されるものとばかり」

「あ? なんでそういう話になるんだよ。今回はすげぇ珍しく活躍しただろ、お前?」


 寝台で胡坐あぐらをかいてたずねる北嶽に、黎珠は恐縮して縮こまった。

 それは買いかぶり過ぎだ。毒見が毒を防げなかった時点で、それは駄馬にも等しい。あとの処置など、できて当然のことである。


「お言葉は大変嬉しいですが、毒を通してしまいましたし……。わたしが来てからというもの、北嶽様にはご迷惑ばかりおかけして」

〈────────────〉

「黙れ。お前、最近(うるせ)ぇぞ」

「はい! 申し訳ございません、黙ります」

「違う、お前じゃなくて黒影なまくらだ、黒影なまくら!」


 また知らぬ間に、黒影が何か喋ったらしい。

 北嶽が急に好意的になったのも、きっと黒影の口添えのおかげだろう。またいつか、声が聞こえるようになれば良いのだが。

 黒影に思いを馳せたところで、北嶽の茶の用意がまだだったことに黎珠は気づいた。


「申し訳ございません、お茶がまだでした! ぬるめにお淹れして、すぐにお持ちいたしますね。少々お待ちください」

「ま、待て」


 慌ててきびすを返しかけた黎珠を、再び北嶽が呼び止める。

 ぬるめではなく、熱めが良いのだろうか。

 振り返った黎珠に、北嶽は少し躊躇ためたいを見せてからこう切り出した。


「お前……名は、なんていうんだ?」


 ほかでもない北嶽にかれ、黎珠は固まった。

 この問いを、まさか彼から受けるとは思ってもみなかったのだ。

 黎珠は最初、無難に和訓の名を言おうとし──北嶽の澄んだまなざしを見て、少し改めた。


「わたしは、仮名かりな珠音たまねと申します」

仮名かりなだと? 本当の名はなんていうんだ?」

「それはお耳汚しとなりますので、お聞きにならない方がよろしいかと」

「なんだ、それ?」


 訝しむ北嶽に、黎珠は苦笑して答えた。


「わたしの本当の名は、その、玉音読みなのです。大変不遜な名ですから、北嶽様には和訓の方を──」

「構わない、聞かせろ」


 みなまで言わせず、北嶽が命じる。

 態度の変化を不思議に思いながらも、黎珠は夏楠にもらった名を名乗った。


「黎明の黎に、宝珠の珠で、黎珠と申します」

「レイジュ──黎珠か。わかった、行け」


 そして一転、からかうような口調で言葉を継いだ。


「ついでにその不細工なつら、洗ってこい」


 意地の悪そうな、けれど憎めない笑みで北嶽が言う。

 確かに、黎珠の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。

 彼につられて、こちらにも笑みが伝播でんぱする。


「はい。失礼いたしました!」


 頬を緩ませて、黎珠は北嶽の寝室を出た。


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