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医官が遅れて到着したのは、その直後だった。
三十前後の外見をした龍医は北嶽の容態を確認すると、すぐに大量の白湯を飲ませた。そうしてひと通り処置を終えると、残った北嶽の茶杯を嘗め、即座に吐いて口を濯ぐ。ある程度、毒の耐性をそなえた医官なのだろう。
龍医の判断はすぐについたらしい。彼は素早く帳面に何かを書き付けると、破った紙とともに配下の龍に押し付けた。
これからできることといえば、あとは薬炭を処方するくらいだろうか。炭は毒素を吸着し、便とともに体外に排出する働きがある。毒物治療の鉄板だ。
北嶽が寝所へ運ばれるのを見届けたところで、丞相は鋭く黎珠を指差し、声を荒げて言った。
「黙って見ておれば、筆舌に尽くし難い所業の数々。もはや言うに及ばん! 即刻、こやつの頸を刎ねよ!」
「それは早計に過ぎます! 毒を盛った者はまだその奴婢と決まったわけではないでしょう」
雲翔が冷静に指摘するが、それがかえって丞相の高い矜持を傷付け、激怒させたらしい。
老いた姿の玄州官は、顎をそらして雲翔を見据え、一笑した。
「ふんッ! 白州の小倅風情が、生意気な口をききおってからに! 貴様、大逆の疑いがある者を庇い立てするのか?」
「下がりなさい、雲翔。お前では火に油を注ぐだけだ」
見かねた西嶽が歩み出で、丞相の正面に立つ。
雲翔は一瞬不服そうな表情を見せたが、無言のまま静かに身を引いた。
「さて。確かに丞相、そなたの言う通り、北嶽が倒れる直前に毒見したのは、この小娘だ。して娘、何か申し開きはあるか?」
「毒を盛ったのは、わたしではございません」
「証拠はあるのか?」
「それは……恐らく融けて消えてしまっています。毒は、冷茶の氷に仕込まれた可能性が高いかと」
「なんだと⁉」
丞相が血相を変え、卓子に残された茶杯に顔を寄せた。玻璃の杯ごしに氷を検めているが、現状、氷は半ば以上融けてしまっている。氷と茶と杯のうち、今から毒が仕込まれた箇所を完璧に証明するのは困難だ。
だが、だからと言って、むざむざ頸を刎ねられる気はさらさらない。
幸運なことに、西嶽は黎珠に弁明の余地を与えてくれた。これを最大限に活用すべく、持てる知識を総動員して黎珠は西嶽に口を開いた。
「此度の毒は、恐らく烏頭です。龍殺しの定番ですし、そこら中に自生しているので入手も容易く、症状も一致します。
烏頭は口に入れると舌に独特の痺れを誘発しますから、そこで吐き出せば龍は助かってしまう毒です。そのため、舌を氷で麻痺させ味覚を鈍らせる意図と、氷の中ほどに毒を仕込むことで発症の時間をずらすこと、最後に氷を融かして証拠を隠滅するという、三つの目的があったのではないかと推察いたします。
烏頭は摂取後、ごく短時間で発現する毒です。私が毒見の際に仕込んだなら、北嶽様は最初の一口で味の異変に気付き、次いで吐き出すか、お倒れにならなければ辻褄が合いません」
「ふむ、確かに北嶽は何口も飲んでから倒れたな。──で、この娘の言は正しいのかね?」
周囲が騒然とする中、龍医に向けて顔色一つ変えずに西嶽が問う。
説明のために広間に残ったのだろう、龍医は黎珠の話を聞くや愕然とした表情で棒立ちになっていたが、西嶽に問われると居住まいを正して返答した。
「……お、恐れながら直答させていただきますと、そこな人の娘の言は、間違ってはおりません。私も味をみましたが、あれは烏頭であろうと愚考いたします」
お墨付きも得られたため、黎珠は西嶽のあとに続けて龍医に問いかけた。
「ちなみに、ここに蠍の毒はあるのでしょうか?」
「な……っ」
龍医は先ほど以上に驚愕のまなざしを黎珠に向け、声を失った。
その意味を取り違えたのだろう、丞相は龍医を横切り、有無を言わせず黎珠を足蹴にした。
少しよろけつつも、黎珠はなんとか体勢を維持する。
「この、猿がっ! 誉れ高き玄州官を疑うとは──」
「い、いいえ、丞相様。蠍の毒は、烏頭と合わせると毒性が減衰するのです。本来は、蠍の咬傷の解毒薬として、烏頭を用います」
「はああっ⁉ 毒に毒を合わせるだと⁉ どちらも猛毒であろうに⁉」
おずおずと告げる龍医に、丞相は素っ頓狂な声を上げる。
丞相ほどではないにしろ、軽く眼を瞠る西嶽から視線を移し、黎珠は龍医に話しかけた。
「萬菫不殺ですよね? 萬が蠍、菫が烏頭の古い呼び名で、互いを相殺するという」
「あ、ああ、そうだ。……丞相様、この奴婢はいったい何者でございますか? 萬菫不殺など、宮勤めの龍医でも知らぬ者が多いというのに……」
不審を通り越して化物でも見るような眼の龍医に、黎珠は苦笑を返した。
「そこは西嶽公にご推薦いただきました、北嶽様付きの奴婢でございますから。──で、蠍毒はあるのでしょうか?」
「ない。ここは白州ではないのだ。砂漠なき玄州に、蠍毒などあろうはずがない」
「ではやはり、あとは北嶽様のお身体を信じるしかありませんね。烏頭に特効薬はありませんから。西嶽公、今後のために、蠍毒を少し用立ててはいただけませんでしょうか?」
「よかろう。到着までに日数はかかるだろうが、確実に届けさせる」
そう言い、西嶽は深く頷く。
事態について行けずを呆気にとられていた丞相は、ここで正気に戻ったように身を震わせた。大仰な仕草で頸を左右に振り、跪く黎珠を睨めつける。
「いや──いいや! やはり此度は、この奴婢猿めの仕業よ! 貴様は北嶽様の刺客であるがゆえ、かように尋常ではない知識を有しておるのだ! どうせ事前に氷を懐に忍ばせ、毒見の際に杯に落としたのであろう⁉」
何度も黎珠を指差し、盛大に唾を飛ばしながら声を張り上げる。
「氷を懐に? 体温で融けないか? それこそ無理があると思うがね、私は。そもそも、ここまで賢しい娘が公衆の面前で、それも見咎められる危険を冒してまで、毒なぞ盛るか?」
「……私が刺客なら知識などひけらかさず、その場で自害するか、即座に逃走しますが」
西嶽と雲翔がそれぞれ見解を述べる横で、黎珠はそろそろと手を挙げて丞相に具申した。
「あの……恐れながら、丞相様の方法はいささか不自然ではないかと、愚考いたします」
「言い逃れなぞ、聞く耳持たんわ!」
「言い逃れではございません。そもそも、わたしは自らの意思で毒見に上がってはいないのです。たまたまこの場に居合わせ、たまたま北嶽様に指名されただけに過ぎません。偶然なのです。それは、ほかならぬ丞相様ご自身がご覧になっておられたはず」
「あ──……」
黎珠の指摘で思い出したらしい丞相が、かすかな声を漏らす。
そう、今回の毒見は北嶽の気まぐれ、もとい、黒影の計らいだ。それに黎珠は最初、毒見役を断ってもいる。これを予見し、事前に毒の氷を用意し、実行するのはほぼ不可能だろう。
「ああ、確かに。その騒動は背中越しに私も聞いていたよ。そちらの玄州官らも憶えているだろう。丞相殿はけっこうな大声だったからねぇ」
西嶽の後ろ盾を得つつ、黎珠は丞相に言葉を重ねた。
「さらに申し上げるならば──可能性は低いものの、烏頭にはほかにも発現までの時間を遅らせる方法があります。
先ほどと同じ原理で、河豚毒と烏頭を同時摂取することにより、一時的に毒性を弱めて遅効性とすることが可能です。あとは北嶽様がお倒れになった混乱に乗じ、茶杯に毒を仕込めば犯行は成立します。
この場合、毒を摂取したのは北嶽様が後宮にいらしゃった時分になりますから、そちらも合わせると、嫌疑のかかる者は相当な数にのぼるかと……」
黎珠の説明を聞くと、丞相は勢いよく龍医を振り返った。
やや、血走った金の眼で、
「おい! 今の猿の言は──」
「じ、事実でございます」
「な……」
龍医の回答に絶句する丞相を気にも留めず、西嶽は淡々と鳳炬に問いかけた。
「鳳炬、氷はいつ用意したものだ?」
「茶会が始まってから風穴に赴き、天然の氷を採取いたしました。女官と数名で参りましたが、特に不審な動きをした者は見ておりません」
「ふむ。では娘、北嶽が後宮で饗宴に耽っている間、お前はどこにいた?」
今度は黎珠が問われる。
それはちょうど、鳳炬の蓮池を訪れていた頃合いだ。後宮は危険だという理由で、しばらく引き留められたので間違いない。
「その時分は、鳳炬様に北嶽様の行方を尋ねていました。そこで後宮にいらっしゃると教えてもらい、後宮で北嶽様にお会いし、そこから茶会の直前まで北嶽様のお側におりました」
「我が名に誓って申し上げます。西嶽公、彼女の言葉は真でございます。それに茶席で冷茶を出すことは、彼女にはいっさい告げておりません」
黎珠の言葉を、横から鳳炬が補足する。
自身の立場も危ういだろうに、黎珠が事前に毒氷を用意することが不可能だと証言してくれたのだ。
鳳炬の話を聞くと、西嶽は再び黎珠に視線を戻した。
「そうか。では娘、後宮でお前と会って以後、北嶽は何か飲み食いしたか?」
「お着替えの際は御簾ごしでしたが、飲食はしていらっしゃらないと思います」
黎珠の答えに西嶽は満足げな笑みを浮かべ、口調を和らげた。
「じゃ、この小娘は比較的、白だな。本来なら白亜で証明したいところだが、残念なことに私も嫌疑がかけられている。あくまで北嶽が回復してからの話になるが、ほかでもない北嶽自身が無実の証言者になるだろう。むしろ我々や鳳炬、女官、後宮の女どもの方が怪しかろうな。ああ、女官に命じれば、丞相殿にも十二分に可能か」
「な! いかに西嶽公と言えど、その発言は──」
「失礼。要するに、嫌疑だけならいくらでもかけられるということだ。とりあえず、この小娘には逃亡避けに監視を付ければ良かろう。まずは北嶽の回復が最優先だ。違うか?」
そう言う西嶽に呼応するように、今まで黙っていた龍医が顔を上げた。膝で数歩歩み寄り、平伏しながら声を発する。
「西嶽公、烏頭の毒は摂取後、一両日で無毒化いたします。明日、北嶽様が回復なされば、命に別状はございません」
「では決まりだ。小娘の処遇は明日まで待とう。北嶽の言を聞いた方が話が早い。無論、我々にも監視は付けて構わん。丞相、これで異論なかろう?」
「…………承知いたしました」
低く、絞り出すような声音で丞相が同意する。
その双眸は、敵意も顕わに黎珠を睨みつけていた。




