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「か……ぁ――――ッ!?」


 どう、と北嶽が椅子から転落する。

 女官の甲高い悲鳴が室内に響き渡った。


「ほ、北嶽様ッ!!」


 名を呼びながら黎珠は駆け寄るが、応えはない。口がけないのだ。

 歩行困難に、口唇と舌のしびれ。流涎りゅうぜん症状。

 典型的な、急性中毒だ。


莫迦ばかな。いったい誰が――」


 愕然と西嶽が呟く。

 ()()()()()()()()。ほぼ間違いなく、これは彼の仕業ではない。


「が──あ……かは……ッ!」

「北嶽様! お気を確かに!」


 苦しげにのたうつ北嶽の手を取り、脈を計る。

 もう不整脈が起きている。危険だ。


(この症状で、龍殺しの毒と言えば──)


 元討師である黎珠の頭に真っ先に思い浮かぶのは、『烏頭うず』だ。仮に烏頭うずでなかったとしても、この状況でやるべきことは決まっている。


 黎珠は北嶽を俯かせて、その背をさすった。

 仰向けでは、吐瀉物が咽喉のどに詰まる可能性がある。


「北嶽様、聞こえますか? 吐き出せるようでしたら、胃の中の物をすべて吐いてください」

「何をぼっとしている! 早く医官いしゃを呼べッ‼」


 事態がまだ呑み込めず、棒立ちの玄州官に雲翔が命じる。

 一方、床に伏した北嶽は嘔吐を数回繰り返した。

 これで、胃の内容物は大方吐き出された。

 あとは大量の水分を取り、毒成分の吸収を一時的にでも遅らせることが肝要だ。


 黎珠は立ち上がり、卓子の上に置かれた玻璃ガラスの水差しを手に取った。

 大ぶりで、まだたっぷりと液体が満ち、持ち上げると重い。

 先ほどの蜜蘭香みつらんこうである。


 今回の茶席で出された茶は、温茶ではなく冷茶だ。したがって水差しから各自の茶杯に注がれたが、北嶽以外の者に症状は出ていない。

 北嶽が倒れる直前、女官が西嶽の杯にぎ足し、それを彼が口にしたのを黎珠は見ている。ということは、この水差しは問題ないということだ。


 念には念を入れ、少量口に含んで味を確かめる。

 ──大丈夫、無毒だ。

 北嶽の横にひざを突くと、黎珠は水差しを北嶽に近付けた。


「北嶽様、これを口に含んで毒を――」

「下賎な猿が何をするか! その水差しに毒が盛られておるやもしれんではないか! ──いや、そもそも何故、毒見したお前が平然としておる! 毒を盛ったのは貴様か⁉」


 丞相が水差しごと黎珠の腕を引き、疑いの眼を黎珠に向ける。

 状況的にその気持ちはわからなくもないが、今は一刻を争う。

 撥ね退けるように、黎珠は丞相に一喝した。


「わたしではありません! 毒が水差しに盛られたなら、今ごろ全員倒れています! それに毒見は今しました、無毒です!」

「ならば何故、北嶽様がお倒れになるのだ! そうだ、貴様、白州の差し金なのだろう⁉︎ 北嶽様の杯に毒を塗り、白州ぐるみで北嶽様をしいせんと──」


 丞相の言葉に、白州官全員の様相が一変した。

 さしもの雲翔も、この暴言は堪えかねたようだ。口を引き結ぶと、怒りもあらわに丞相を睨めつけた。


「今の言葉は聞き捨てならん! 丞相殿、発言を撤回していただきたい!」

「雲翔、下がれ。丞相殿も、御自分の発言にはお気をつけられよ。この疲弊した玄州の財政下で、我が白州を敵に回すおつもりか?」


 雲翔を制し、西嶽が静かに通告する。それに反論できず圧倒された丞相は、渋々といった表情で引き下がった。

 と同時に、つかまれていた手が緩む。


「すみません、話はあとで聞きます! 退いてください!」


 機を逃さず、黎珠は力任せに丞相の手を振り払った。

 水差しを胸に抱くようにして、玄州官の間をすり抜ける。

 黎珠はもう一度、水差しを北嶽の口許くちもとに寄せ──北嶽自身に突き飛ばされた。


「あぐッ!」


 なんとか水差しは死守したものの、卓子の足に頭を強打する。

 疼痛とうつうで視界が明滅したが、それよりも、心の痛みの方がつらかった。


「ほ、北嶽様──……」

「こほッ、がは……ッ」


 北嶽は咳き込みながらも、射るような視線を黎珠に突き立てる。

 ──お前の仕業か。

 そんな、声にならない声が聞こえた。


「違います、信じてください! 本当にわたしではないのです!」

「う……るせ……えッ――げほッ、がは……ッ!」


 北嶽は激しく咳き込み、床に這いつくばる。

 いくら龍と言えども、このままでは命が危うい。

 黎珠は意を決し、水差しを持ったまま北嶽に歩み寄った。


 もう、形振り構っている暇はない。

 ここで毒を薄めなければ、明日はないかもしれない。

 一刻を争うのだ。

 命が懸かっている。


「失礼いたします!」


 言うと黎珠は一気に、水差しの茶をあおった。

 口に含め、嚥下はしない。

 口内に留める。

 そして水差しは床に置く。

 空いた両手で北嶽の肩を押さえ付け──そのまま、有無を言わせず顔を伏せた。


「────ッ!?」


 北嶽は抵抗も忘れて硬直する。

 黎珠は、北嶽が茶を呑み下したのを確認してから唇を離した。


「ほら! わたしも口に含みました! 大丈夫でしょう? 問題ございませんよね? ね? 北嶽様!」


 ぐい、と手の甲で口をぬぐい、一方的に確認を取る。

 そのまま返事を待たず、黎珠は床に置いた水差しを拾い上げた。


 まだだ。

 まだ足りない、こんなものでは。

 もっともっと、浴びるほど飲んでもらわなければ。


「お、おま……ッ、いまっ……」

「はい、また飲むッ!」


 今度は北嶽のえりを掴み、黎珠は力任せに冷茶を流し込む。

 抗う間もなく水差しを口に押し込まれ、北嶽は噴き出した。


「ぶはッ! げはッ……かぁ……ッ!」


 ここまでくると、美形も形なしである。

 だが、黎珠はあくまで真剣そのものだった。


「はい、また飲む! 限界まで飲む! 飲めなくっても飲んでください根性で!」

「お、おま……ッ! 言って……と、無茶苦……ぞッ⁉」

「可能な限り毒を薄めて、体内への吸収を遅らせてください! 苦しいとは思いますが、どうかご辛抱を!」


 その言葉で、弾かれるように北嶽は顔を上げた。ようやく意図を理解したようで、身じろぎもせず黎珠を注視する。

 医官いしゃが遅れて到着したのは、その直後のことだった。


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