34
「か……ぁ――――ッ!?」
どう、と北嶽が椅子から転落する。
女官の甲高い悲鳴が室内に響き渡った。
「ほ、北嶽様ッ!!」
名を呼びながら黎珠は駆け寄るが、応えはない。口が利けないのだ。
歩行困難に、口唇と舌の痺れ。流涎症状。
典型的な、急性中毒だ。
「莫迦な。いったい誰が――」
愕然と西嶽が呟く。
それはそうだろう。ほぼ間違いなく、これは彼の仕業ではない。
「が──あ……かは……ッ!」
「北嶽様! お気を確かに!」
苦しげにのたうつ北嶽の手を取り、脈を計る。
もう不整脈が起きている。危険だ。
(この症状で、龍殺しの毒と言えば──)
元討師である黎珠の頭に真っ先に思い浮かぶのは、『烏頭』だ。仮に烏頭でなかったとしても、この状況でやるべきことは決まっている。
黎珠は北嶽を俯かせて、その背をさすった。
仰向けでは、吐瀉物が咽喉に詰まる可能性がある。
「北嶽様、聞こえますか? 吐き出せるようでしたら、胃の中の物をすべて吐いてください」
「何をぼっとしている! 早く医官を呼べッ‼」
事態がまだ呑み込めず、棒立ちの玄州官に雲翔が命じる。
一方、床に伏した北嶽は嘔吐を数回繰り返した。
これで、胃の内容物は大方吐き出された。
あとは大量の水分を取り、毒成分の吸収を一時的にでも遅らせることが肝要だ。
黎珠は立ち上がり、卓子の上に置かれた玻璃の水差しを手に取った。
大ぶりで、まだたっぷりと液体が満ち、持ち上げると重い。
先ほどの蜜蘭香である。
今回の茶席で出された茶は、温茶ではなく冷茶だ。したがって水差しから各自の茶杯に注がれたが、北嶽以外の者に症状は出ていない。
北嶽が倒れる直前、女官が西嶽の杯に注ぎ足し、それを彼が口にしたのを黎珠は見ている。ということは、この水差しは問題ないということだ。
念には念を入れ、少量口に含んで味を確かめる。
──大丈夫、無毒だ。
北嶽の横に膝を突くと、黎珠は水差しを北嶽に近付けた。
「北嶽様、これを口に含んで毒を――」
「下賎な猿が何をするか! その水差しに毒が盛られておるやもしれんではないか! ──いや、そもそも何故、毒見したお前が平然としておる! 毒を盛ったのは貴様か⁉」
丞相が水差しごと黎珠の腕を引き、疑いの眼を黎珠に向ける。
状況的にその気持ちはわからなくもないが、今は一刻を争う。
撥ね退けるように、黎珠は丞相に一喝した。
「わたしではありません! 毒が水差しに盛られたなら、今ごろ全員倒れています! それに毒見は今しました、無毒です!」
「ならば何故、北嶽様がお倒れになるのだ! そうだ、貴様、白州の差し金なのだろう⁉︎ 北嶽様の杯に毒を塗り、白州ぐるみで北嶽様を弑せんと──」
丞相の言葉に、白州官全員の様相が一変した。
さしもの雲翔も、この暴言は堪えかねたようだ。口を引き結ぶと、怒りも顕わに丞相を睨めつけた。
「今の言葉は聞き捨てならん! 丞相殿、発言を撤回していただきたい!」
「雲翔、下がれ。丞相殿も、御自分の発言にはお気をつけられよ。この疲弊した玄州の財政下で、我が白州を敵に回すおつもりか?」
雲翔を制し、西嶽が静かに通告する。それに反論できず圧倒された丞相は、渋々といった表情で引き下がった。
と同時に、掴まれていた手が緩む。
「すみません、話はあとで聞きます! 退いてください!」
機を逃さず、黎珠は力任せに丞相の手を振り払った。
水差しを胸に抱くようにして、玄州官の間をすり抜ける。
黎珠はもう一度、水差しを北嶽の口許に寄せ──北嶽自身に突き飛ばされた。
「あぐッ!」
なんとか水差しは死守したものの、卓子の足に頭を強打する。
疼痛で視界が明滅したが、それよりも、心の痛みの方がつらかった。
「ほ、北嶽様──……」
「こほッ、がは……ッ」
北嶽は咳き込みながらも、射るような視線を黎珠に突き立てる。
──お前の仕業か。
そんな、声にならない声が聞こえた。
「違います、信じてください! 本当にわたしではないのです!」
「う……るせ……えッ――げほッ、がは……ッ!」
北嶽は激しく咳き込み、床に這いつくばる。
いくら龍と言えども、このままでは命が危うい。
黎珠は意を決し、水差しを持ったまま北嶽に歩み寄った。
もう、形振り構っている暇はない。
ここで毒を薄めなければ、明日はないかもしれない。
一刻を争うのだ。
命が懸かっている。
「失礼いたします!」
言うと黎珠は一気に、水差しの茶をあおった。
口に含め、嚥下はしない。
口内に留める。
そして水差しは床に置く。
空いた両手で北嶽の肩を押さえ付け──そのまま、有無を言わせず顔を伏せた。
「────ッ!?」
北嶽は抵抗も忘れて硬直する。
黎珠は、北嶽が茶を呑み下したのを確認してから唇を離した。
「ほら! わたしも口に含みました! 大丈夫でしょう? 問題ございませんよね? ね? 北嶽様!」
ぐい、と手の甲で口を拭い、一方的に確認を取る。
そのまま返事を待たず、黎珠は床に置いた水差しを拾い上げた。
まだだ。
まだ足りない、こんなものでは。
もっともっと、浴びるほど飲んでもらわなければ。
「お、おま……ッ、いまっ……」
「はい、また飲むッ!」
今度は北嶽の襟を掴み、黎珠は力任せに冷茶を流し込む。
抗う間もなく水差しを口に押し込まれ、北嶽は噴き出した。
「ぶはッ! げはッ……かぁ……ッ!」
ここまでくると、美形も形なしである。
だが、黎珠はあくまで真剣そのものだった。
「はい、また飲む! 限界まで飲む! 飲めなくっても飲んでください根性で!」
「お、おま……ッ! 言って……と、無茶苦……ぞッ⁉」
「可能な限り毒を薄めて、体内への吸収を遅らせてください! 苦しいとは思いますが、どうかご辛抱を!」
その言葉で、弾かれるように北嶽は顔を上げた。ようやく意図を理解したようで、身じろぎもせず黎珠を注視する。
医官が遅れて到着したのは、その直後のことだった。




