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北嶽の身支度の間、黎珠は一足先に茶会の席に到着した。
奴婢の黎珠は中に入れない。そっと中を覗くと、広間の中は控えめな調度品で上品に整えられている。後宮のような有様だったらどうしようかと思った黎珠は、内心ほっとした。
中央に据えられた長方形の卓子には、片側に黒い長袍の玄州官が集まり、すでに着席している。白州官はまだいないので、これから反対側に座るのだろう。
「あら、黎珠。こんなところでどうしたの?」
名を呼ばれ振り返ると、声の主は鳳炬だった。
黒と金を基調とした、透かし編みの華やかな衣装に着替えている。服に合わせて装飾品も変えたのだろう。いつもしている真紅の指輪は外し、金の腕輪と髪飾りで統一されていた。
「お綺麗です、鳳炬様」
「あらありがと! 黎珠がここにいるってことは、もしかして?」
「はい。もうすぐ北嶽様がいらっしゃいます」
「まあ。あの北嶽公がお見えになるなんて珍しい。どういう風の吹き回しかしらね」
眼を眇め、声を落として鳳炬は呟く。前々から感じていたが、鳳炬は北嶽のことを快く思ってはいないようだ。いつか鳳炬にも認めてもらえるよう、配下である黎珠も精進しよう。
「ところで、本日のお茶会には鳳炬様もご出席に?」
話題を変えて訊ねると、鳳炬は自身の胸に手を当てて頷いた。
「わたくしは茶席の段取りを任されただけよ。宮中行事には慣れているから、斜陽宮に居候する身として、このくらいは働かないとね」
「何かお手伝いすることはありますか?」
「ありがとう、大丈夫よ。給仕は女官に任せてあるの。せっかく北嶽公から解放されるんだから、黎珠は外でゆっくりしてて頂戴。わたくしは厨房を見てくるわね。お出しする器の確認をしなくっちゃ」
そう言い広間から出る鳳炬と入れ違いで、北嶽は現れた。
身なりを整え、李の先導で近づいて来る北嶽は相変わらず美麗で、その一歩一歩に華がある。一度風呂に入ったのか、あの甘ったるい香の匂いは完全に消えているようだ。酒気も抜けたらしく、直前まで紅潮していた頬は白い肌を取り戻していた。
ここからは黎珠が引き継ぎ、李は北嶽が戻った際の支度をする段取りだ。李は黎珠を見つけると一礼し、来た道を引き返してゆく。
さあ、ここからは黎珠の番だ。とは言っても、北嶽が出てくるまで廊下で待ち続ける、という至極簡単な役目だが。まあ、新米官奴婢の為事などこんなものだろう。
黎珠はその場で叩頭し、北嶽に告げた。
「玄州官の皆様はすでに着席されております、北嶽様。まもなく白州側の方もいらっしゃるかと」
「ん。お前は邪魔だ、終わるまで下がってろ」
「承知いたしました」
〈──────────────?〉
無造作に入室しようとした北嶽は直前、不意にその足を止めた。
不思議に思い、黎珠は伏せていた顔を上げる。
〈────────────────〉
「…………」
広間の入り口で、北嶽は棒立ちになっている。思案するような表情で床を凝視していたかと思うと、突然黎珠に顔を向けてこう言った。
「……気が変わった。莫迦短躯、お前も来い」
「は?」
「おれと上座まで来いと言った。二度も言わせるな」
突然の申し出に、黎珠は眼を白黒させて北嶽を見返した。
「お気持ちは有り難いのですが、しかし──」
言いあぐねて、黎珠は広間を一瞥する。北嶽の発言を受け、ずらりと並んだ玄州の諸官は一斉に黎珠を注視した。どう見積もっても好意的とは言えない視線だ。身の置き所がないとはこういうことを言うのだろう。
やんわり断ろうとした黎珠は、しかし横から発せられた陽気な声に口を噤んだ。
「いいんじゃない? 仮にも北天北嶽公の官奴婢だ。多少は主の為事も理解してないと、北嶽、引いては玄州の名に傷が付くだろう」
そう告げたのは、背後に白州諸官を引き連れた西嶽公だった。官吏の中には雲翔も含まれている。茶会に出席できるほどには回復したようだ。
(良かった。薬が効いたようで)
安堵して雲翔から西嶽に視線を戻す。すると、黎珠と西嶽の間に見知らぬ玄州官が割って入った。
「北嶽様! 今の西嶽公のお言葉は真ですか⁉」
外見は五十がらみの、長い髭をたくわえた文官である。広間の玄州官の中では一番上座に座り、長袍も華美であることから、北嶽に次ぐ高官だろうと察しをつける。
彼は西嶽の前でも怒気を隠そうとせず、ずかずかと北嶽に詰め寄った。
「奴婢を召し抱えたなど、私は存じませぬぞ!」
「そりゃ知らねぇだろうよ。言ってねぇもん」
「丞相たる私めになんのご相談もなく、勝手なお取り決めはお止めくださいと、何度も申し上げたはずですぞ! 奴婢など一言おっしゃってくだされば、私がいくらでも揃えましたものを! 何もこのように貧相な娘でなくとも……」
斜陽宮に来てから、初めて黎珠も納得のいく主張を聞いた気がする。そう、これだ。要職に就く主にどこの馬の骨とも知れぬ人物が随行していれば、この丞相ような反応をするのが一般的だろう。腑に落ちないのは西嶽の対応だが、やはり彼は──……。
立場を忘れて沈思する黎珠を尻目に、状況は進んでゆく。
噛みつくように捲し立てる丞相に、北嶽は大声で反論した。
「おれが好き好んでこんな阿呆短躯、手元に置くわきゃねーだろ! 西嶽だよ、西嶽!」
「西嶽公、どういった仔細がございますのか、この丞相にもお聞かせ願えますかな?」
「我らの内で、故あってのことだ。これは北嶽も納得している。それ以上は丞相ごときに語るつもりはない」
冷徹に言い放つ西嶽に、丞相は見るからに顔を赤らめ、憤った様子を見せた。
それにしても、西嶽にしてはやや険の強い物言いである。これなら奴婢の黎珠に対する態度の方が、よっぽど温和だったが。
怪訝に思っていると、その後の丞相の言葉はさらに黎珠を驚かせた。
「これはこれは。白賢師様はなんとも気安くていらっしゃる。よもや西嶽の名を冠する御方が、礼儀もわきまえぬとは。失礼、これが白州の流儀と言うことなのですな。いやはや、浅学で申し訳ない」
白賢師、とは西嶽のことだろう。仮にも州公、目上に対して、この喧嘩腰はまずい。へりくだってはいるが、完全に白州を見下す発言だ。しかも、後方に着席したほかの玄州官も失笑隠しきれていない。下卑た笑みを口許に刻んでいる。
──玄州は貧しいのに、気位きぐらいばかり高くて、まわりを見下してるんです。
瞬間的に、李が言っていた言葉を思い出した。
そうか、これがそうなのか。しかし、そもそもこの茶席は懇親会という名目だったはずだ。西嶽が玄州を訪れた理由は不明だが、このような些事で揉めては本末転倒だ。すべて白紙になってしまう。
(にもかかわらず、玄州よりも己が矜持を優先する。それが、現在の玄州官……)
暗い気持ちで、黎珠は心中呟いた。
これは公式の場だ。立場が同等の北嶽が軽口を叩くのとは、わけが違う。現に西嶽の背後の官吏たちは、雲翔を含めて厳しい視線を丞相に注いでいた。
「あはは。礼儀をわきまえていないのは、果たしてどちらだろうねぇ」
そんな白州陣営で、ただ一名笑みを崩さずにいた西嶽は、にこやかに告げる。
そして、
「──こざかしい真似などせず、異論があれば堂々とこの私に言え。小童が」
一転して、低い声音で丞相を睨めつけた。
ひっ、と丞相が小さく怖じる。それほどの覇気と、二百年を越える長い歳月を感じさせる声音だった。息を呑む玄州官の中で、北嶽だけがつまらなそうな顔で成り行きを見守っている。
「め、滅相もございません……」
縮こまり、絞り出すように言った丞相の姿に、白州官たちは皆、誇らしげな表情を浮かべた。丞相にそうさせるだけの威厳が、彼らの主にはあると証明されたのだ。白州官たちは胸のすく思いだろう。
これが──富める白州と、病める玄州の違いなのだ。
瞳を輝かせ、胸を張る白州官が、黎珠は少し羨ましかった。




