31
そうして紆余曲折を経て、辿り着いた後宮は存外華やかな宮殿だった。
入り口からざっと眺めた印象だが──もともと豪奢な斜陽宮だったが、さらに煌びやかな装飾が施されているような気がする。
(庭園の造りも、他所より彩りが多いような……)
何やら想像した雰囲気と異なるが、黎珠は元龍討師だ。物事を見てくれで油断するようなへまはしない。そう、これは、立ち入るものを試すための装飾なのだ。この後宮を見て慢心した者は、内部で放し飼いにされた虎や大蛇に襲われ、たちまち命を落としてしまうという──そういう仕掛けなのだ、多分。
とにもかくにも、今も後宮で死闘を繰り広げている北嶽に逢いに行かねば。
頬を叩いて気合を入れ、黎珠は両の拳を握った。
「いざ!」
「そこのお嬢ちゃんや~。入らんのかぇ~?」
「入りますー!」
入り口付近で入出者の帳簿をつけているらしい老婆に呼ばれ、黎珠は勢い良く返事を返した。
*
手続きを終えて中に入ると、塵一つない清潔な回廊や、鮮やかな朱塗りの柱が眼に入る。ふと上を見ると、精彩な神獣や紋様の描かれた天井が奥まで続いていた。
驚いた、なんと徹底した造りなのだ。何事もないかのように回廊の美観を保持し、かつ、飼っている猛獣の気配を完全に封殺している。これは気を引き締めて行かねば、一瞬で屠られてしまうかもしれない。
ごくりと唾を呑み、黎珠は入り口の老婆に教えられた道順に沿い、慎重に歩を進めた。だが、行けども行けども虎は現れない。どうやらこの後宮は、回廊ではなく室の中に仕掛けがあるようだ。
猛獣に遭遇することなく目的の室の前に着き、黎珠は大きく深呼吸する。さあ、ここから北嶽の元へ行くまでが勝負だ。
「いざ!」
気合を入れて扉を開け放った黎珠は、直後、びたりと固まった。
「は、派手ッ! 眩しい!」
つい、そんな言葉が口をついてしまう。
黎珠が辿り着いた大広間は上下左右、どこもかしこも黄金色に輝いていた。一面に金箔を張り巡らしたのだろう、広間の壁面から天井に至るまで、色とりどりの花鳥風月が描かれている。しかも恐ろしく緻密だ。室内には風雅な楽が流れ、さらには天女のように着飾った龍女が、数えきれないほどひしめいていた。
──なんだろう、このけばけばしさ満載な空間は。
つい、足を引いてしまう。
酒と甘ったるい香の強烈な匂いが鼻を突き、黎珠は反射的に手で鼻を覆った。
この匂いには、憶えがある。
以前、北嶽が身に纏っていた香りだ。あのときは、こんな女向けの香を北嶽が好むことを不思議に思ったが、こういうことだったのか。
黎珠が考えを巡らせていると、突如奥から黄色い喚声が上がる。
次はなんだと声の方向に視線を向けると、そこには大勢の美女を侍らせ、強か酔った様子の北嶽が立っていた。
お世辞にも整った身なりとは言えない。頬は酒で紅潮し、今朝ほどではないにしろ、着物がはだけたその姿は──それでもなお、周囲の美女をも圧倒する美しさを誇っていた。ちなみに、黎珠が再三帯剣を懇願した黒影は、かろうじて床に転がっている。
「ねぇ北嶽様、あれをお見せくださいまし!」
「私も見たい! お願いします、北嶽様!」
「わたくしも!」
龍女に囃し立てられ、上機嫌の北嶽は無造作に飾剣を手にした。心得たように北嶽を中心として美女たちは後ろに下がる。あけられた空間に立つ北嶽が剣を抜くと、室は水を打ったように静かになった。
そして──すっ、と踏み出された一歩。
ただそれだけの動作で、彼はその場に居合わせた者すべての眼を奪った。
それは、あれほど感性にまかせ、型も何もない剣を振るっていた北嶽とは、到底思えぬ所作だった。
極めて美麗、かつ精密な動きで剣が差し出され、弧を描く。
積み重ねた年月と研鑽を確信させるその剣舞を、黎珠は呼吸も忘れて魅入っていた。
どこまでも流麗な──神舞と言っても過言ではないような、舞。
見ていて心が締め付けられる。本当に、なんて綺麗なのだろう。
この舞を永遠に見ていたい、とすら思ってしまう。
あっという間に北嶽が剣舞を終えると、盛大な歓声が沸き起こった。
その大音量に、黎珠ははっと我に返る。北嶽の舞は神がかって素晴らしかったが、黎珠には彼に言伝を伝える、大事なお役目がある。今は修練の休憩中なのだろうが、なんとしても茶会には出てもらわねば。
「ちょっと、何よアンタ!」
「なんなの、この猿っ? 汚らわしい!」
「なんで薄汚い猿がここにいるのよ! 門番は何してたのっ⁉」
群がる龍女たちを押し退け、前に進む。悪態をつかれながらも、なんとか黎珠は北嶽に拝謁できる距離まで詰めた。
「北嶽様! ご歓談中、恐れ入ります!」
「なんだよ。なんでてめえがここにいる、阿呆女」
声を張り上げると、北嶽は胡乱な瞳を黎珠に向けた。
酔ってはいるが、きちんと会話は成立している。そこまで深酒ではないようだ。今から酒気を抜けば、茶会にもぎりぎり間に合う。
「急の要件があり、はせ参じました。あの、こちらの書状を」
書状を捧げ持ち、北嶽の前に跪く。
西嶽は以前、高位の龍には書面を通すとも言っていた。黎珠が下手に説明するより、書状に眼を通してもらった方が齟齬もなく確実だ。
しかし、いくら待てど北嶽が動く気配はない。怪訝に思い黎珠が顔を上げると、北嶽は険しい表情で捧げられた書状を見つめていた。
「北嶽様?」
「いい、捨て置け」
「し、しかし北嶽様。西嶽公もいらっしゃるそうですし」
見もせずに告げる北嶽に黎珠は喰い下がる。
断るにしても、せめて内容を見てもらってから判断を仰ぎたい。
「構うもんか。おれがいなくたって、周りがなんとかするだろ。玄州にゃ『優秀な』官吏が揃ってるからな」
「ですが、此度は内容が内容ですし──」
「くどいぞ!」
「お断りになるにしても、せめてご一読を! 書状のお目通しもなくお断りになったと知れれば、白州との交易にも影響が出かねません!」
「…………」
外交を引き合いに出して粘る黎珠に、北嶽は難しい顔で押し黙る。
ここにきて、ようやく黎珠は北嶽の態度がおかしいことに気づいた。それは周囲の龍女たちも思ったようで、訝しむ表情を彼に向けている。
居心地が悪そうな。少し、困ったような。
その様子に黎珠が思い至ったのは、きっと──そんな北嶽が、過去の自分に重なったからだろう。同じ状況で感じた引け目を、黎珠も身をもって味わったからだ。
──もしや、字が読めんのか?
「ああ、これはとんだ失礼を。北嶽様に、わざわざ拝読いただくほどのものではございませんでした。お差し支えなければ、わたしが口頭でお伝えしてもよろしゅうございますか?」
黎珠の申し出に、北嶽は面喰ったように眼を瞠る。
祈るような気持ちで見上げる黎珠を見て、北嶽は鷹揚に顎を引いた。
「許す」
「恐れ入ります。本日午後、白州の方々とのお茶会が開かれるそうです。とても大事な催しとのことですので、北嶽様に置かれましては是非、ご出席いただきたく」
「西嶽は出るんだな? それ」
「はい」
「わかった。ま、そういう話なら出た方がいいだろ。面倒臭ぇけど」
絡められた龍女の腕を払い、北嶽は身を起こした。甘ったるい声で縋る美女をすげなく払いながら、存外しっかりとした足取りで室を出て行く。
北嶽に続いて回廊に出た黎珠は、その場で頭を下げ、感謝を述べた。
「ご出席いただき、ありがとうございます。北嶽様」
「感謝しろよ。おれが直々に顔出すことなんて、滅多にねぇんだからな」
「はい。それはもう」
その不器用さを微笑ましく思いながら、黎珠は頷く。
そして先ほどの剣舞を思い出し、さらに彼に言を重ねた。
「北嶽様、先ほどの剣舞、わたしも拝見しました。その、良い言葉が見当たらないのですが……北嶽様、きらきら輝いておりました!」
「相変わらず頭悪そうな感想だな、お前」
もっともな北嶽の指摘に、黎珠は苦笑する。
北嶽はこう言うが、すぐに適切な言葉が浮かばないほど、彼の剣舞は見事だったのだ。
「語彙が貧弱で申し訳ありません。けれど、本当に素敵でした。北嶽様の舞には、人龍を感動させる力があると思います」
〈……──────。──────────、────────────────?〉
「煩い、黙れ。おだてても何も出ねぇぞ」
前を見たまま低く告げる北嶽に、黎珠は笑みを深めた。
言に悪意はない。眼を合わせないのは、きっと心を読まれたくないのだろう。ほんのり耳が赤いのも、酒のせいだけではないような気がする。
まんざらでもない様子の北嶽に、黎珠は頬を緩ませて後を追った。




