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再度、鳳炬を訪ねると、蓮池はいつになく賑わっていた。
何名もの女官がせわしなく行き交い、物品を運ぶなどしている。鳳炬は蓮池に面した宮の前で、帳簿のようなものを片手に何事か話していた。
忙しそうで気が引けるが、何と言ってもこちらの用事には州公が関わる。黎珠は様子を見て、そろそろと鳳炬に声をかけた。
「あのう、鳳炬様。お忙しいところ、たびたび申し訳ないのですが……」
「あら、黎珠? 大丈夫よ、ちょっと待ってて!」
そう言い、図面を指差しながら女官に指示を出す。やり取りがひと段落すると、鳳炬は嫌な顔一つせず、黎珠に向き直った。
「お待たせ、黎珠! ごめんなさいねぇ。さっき急に茶会の手配をしろとか言われて、『はあ? 何それ頭ぶったたいていい?』と、内心思いながら色々やっていたところなの。黎珠の耳にも入っているかしら?」
「はい。わたしも先ほど李君に聞いたばかりです。昨夜の件がありますから、日の高いうちに、ということなのでしょうが」
黎珠が言うと、鳳炬は両腕を組んでうなだれた。
急な準備で、疲れているのだろう。
「ぶっちゃけ、振り回されるわたくしたちは、げんなりよねぇ。……あ、それよりどう? お薬は雲将軍にお渡しできた?」
「はい。それはもうばっちりです! 実は別件で、またお訊きしたいことがありまして……」
「あらら。何かしら?」
ぱちぱちと瞳を瞬かせる鳳炬に、黎珠はさっそく北嶽について訊ねた。
「北嶽様がこちらの方角にいらっしゃると聞きました。茶会の件でお伝えしたいことがあるので、お探ししています。居場所をご存じでしょうか?」
「ああー……北嶽公の居場所ね。ええ、心当たりは、あるわ」
歯切れの悪い口調で、渋りながらも鳳炬は答えた。
「多分、コウキュウよ」
「コウキュウですか? 後ろの宮と書いて?」
「ええ。その『後宮』よ」
げんなりしたような表情で、黎珠に同意を求めるように鳳炬は言う。
後宮、という言葉は初めてだ。何か明確な目的を持った宮のようだが、黎珠には想像もつかない。
仕方がないので、素朴に訊いてみることにした。
「なるほど。ちなみに、後宮とはどのようなところなのでしょうか?」
「………………ごめんなさい、黎珠。公の居場所なんて、わたくしさっぱりだわぁ」
びっくりするほど、白々しい嘘が返ってきた。
話を逸らしたい意図がばしばし伝わってくるが、黎珠も引き下がるわけにはいかない。夏楠を真似て、畳みかけるように問いかけた。
「北嶽様は後宮にいらっしゃるのですよね? どのような場所なのですか?」
「ほ、本当に困ったものだわぁ。北嶽公はどこにいらっしゃるのかしら~。全然まったく、見当もつかないわぁ~」
「お言葉が棒読みです、鳳炬様」
笑顔で黎珠が指摘すると、鳳炬はぷうっと頬を膨らませる。そして視線を横に逸らしたかと思うと、ぶるぶる頸を左右に振り、声高に宣言した。
「駄目よ! 駄目駄目駄目ですー! 後宮なんて、黎珠は絶対、行っちゃ駄目ー!」
「ですが、大切な言伝が……」
「平気平気! どうせ伝えたところで出やしないわ。朝議にすら出ないんだから、あの男は。今日に限らず毎度こんな調子だから、欠席扱いにしちゃって大丈夫!」
「でも、今回はお出になられるやもしれませんし……」
「だ、駄目よ! そんな捨て猫みたいな眼をしたって駄目なんだからね!」
少し怯む、その反応に付け入る隙あり、と黎珠は踏んだ。
すかさず胸の前で両手を組む。さらに上目遣いで、瞳を潤ませるようにして鳳炬に懇願した。
「お願いします、鳳炬様。北嶽様に会えねば、わたしがお叱りを受けてしまいます……」
「だ、だ、駄目なんだからね……っ」
「鳳炬様……」
ずい、と鳳炬に身を乗り出して黎珠は訴える。
鳳炬は両手を前に突き出し、それに必死で抵抗した。
「だ、駄目よ、鳳炬! 屈しては駄目! あんな野獣のところへ黎珠をやったら、その場のノリで喰われかねないわよ!」
「なッ、そんなにも危険な場所なのですか? では、なおのこと北嶽様をお護りせねば!」
わかった。つまり後宮とは、過酷な修練の場なのだ。
あの北嶽がさらに己を鍛えるのだから、死と隣り合わせの危険な場所に違いない。だから小童はもちろんのこと、鳳炬は黎珠を行かせまいとしているのだ。
喰われるということは、獰猛な虎や熊が放し飼いにされているのだろう。そうだ、そうに違いない。
「いや、違うわよ⁉ 喰われるのは黎珠の方よっ⁉」
「おっしゃることはわかります。確かにわたしは、北嶽様にはるかに及びません。喰われる可能性はわたしの方が高いでしょう。けれど、盾になることぐらいはできます」
「うん、思いっきり勘違いしてるっ‼」
鳳炬はそう言うものの、頑として後宮の詳細を教えようとはしない。
そのまましばらく押し問答を続けたのち、最終的に鳳炬が折れた。がっくりと肩を落とし、唸るような声で黎珠に告げる。
「もう……わかったわ。行き先を教えます。こんな真昼間ですし、まさか自分の奴婢に手を出すことはないでしょう。それに黎珠はちょっと、現実を知った方が良いでしょうし……」
「ありがとうございます、鳳炬様!」
「どういたしまして。でも、くれぐれも気を付けてね。何かあったら、大声で誰かを呼ぶのよ?」
「はい、警戒は怠りません。武器は手元にありませんが、体術も多少は心得ていますので」
これでも山育ちだ。虎や熊相手に引けは取らない。
やる気満々の黎珠に対し、鳳炬はどこまでも不安げだった。
「いえ、だからそうではなくて……いや、体術はとても有効だけど」
「ご安心ください! わたし、山で熊と戦った経験もあります。必ず生き延びてみせますので!」
「いえ、後宮に熊は出ないわよ。熊なんて──」
と言いかけ、鳳炬はぴたりと動きを止める。
「……って、熊ぁ────⁉」
鳳炬の素っ頓狂な声が、蓮池に響き渡った。




