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そして、昼の刻限になった。
黎珠が内装が整えられた寝所に戻ると、ちょうど北嶽が長椅子に寝そべっているところだった。
その姿を眼にして、内心ぎょっとする。
気だるげに身を横たえた北嶽がたいそう艶めかしく、妖艶な恰好だったからだ。まず眼がいくのは薄着の服で、胸元が大きくはだけている。足は素足で、踏みつけるように黒影を携帯していた。よく見ると北嶽の肌はほんのり上気し、髪が濡れている。
かなり遅れて、風呂上りなのだと気づいた。
(やっぱり、血は争えませんね……)
内心苦笑する。夏楠と同様、北嶽も風呂好きなのだ。
とは言え、もう少しで変な声を上げてしまうところだった。黎珠がそうせずに済んだのは、ひとえに夏楠素っ裸事件で耐性がついていたからに他ならない。
人生、何が役に立つかわからないものだ……と、深く噛み締めながら、黎珠は北嶽の前に跪いた。
「北嶽様」
「なんだ、莫迦女」
北嶽は長椅子の上で寝返りを打ち、視線もくれずに応答した。
微妙な心の距離を感じるが、昨日のような苛立ちや敵意はない。問題なかろうと判断し、黎珠はそのまま話を続けた。
「昨夜はその後、襲撃もなく、ご無事で何よりです」
「そうか。で、腕はどうした?」
「昨夜処置をしました。ご心配には──」
言いかけて、北嶽の性格を考え、訂正した。
「いえ、わたしのような者にまでお心遣いいただき、ありがとうございます」
「おう、感謝しろ」
「北嶽様」
「今度はなんだよ」
警戒を滲ませる北嶽に、黎珠は苦笑して再び頭を下げた。
「先日は、お茶を──北嶽様の心中お察しできず、大変失礼をいたしました。どうかご容赦くださいませ」
毒を盛られた経験がある、と李に聞いていたにもかかわらず、不用意に茶杯を差し出したのは、黎珠の責だ。
北嶽はふいとそっぽを向くと、抑揚なく告げた。
「別に。気にしてない。どうせ、おれは嫌われ者だからな。殺したいほど憎んでる奴なんて、ごまんといる」
「そんな哀しいことをおっしゃらないでください。北嶽様を慕う者もおりますよ」
「おめでたい女だな。そんな物好きいやしねぇよ。どいつも心の中じゃ、おれを見下してんだ。所詮は州府の傀儡に過ぎない、お飾りの北嶽だってな。事実そうだ」
「わたしはそうは思いません! 北嶽様はまだお若いのです、これからではありませんか! 現に、わたしはお慕い申し上げておりますよ!」
両手に握り拳を作り、黎珠は力強く宣言する。
すると、北嶽は長椅子の上で大きく仰け反った。
「はあ? 何言ってんだ、お前。頭わいてんのか? ホレンノはしゃーねぇから許してやるが、本来は不敬だからな。お前なんか論外だ、論外」
「左様でございますか。ホレンノをお許しいただき、ありがとうございます」
ホレンノとはなんぞ? と心中疑問に思いながら黎珠は頭を下げた。
まあ、怒っていないので大したことではないだろう。
北嶽は上体を起こして長椅子に座りなおすと、頭を掻きながら黎珠に命を下した。
「じゃ、おれは着替えて出かけるから、お前は適当にやってろ。昼餉はいらねぇ。李に言っとけ」
「かしこまりました。お着換えのお手伝いは──」
「嫌だよ。どこ触られるかわかったもんじゃねぇ。外で着替えてくる。向こうにも衣装は置いてあるからな」
確かに、北嶽が拒否するのは当然だ。
西嶽が宝貝の能力で保証したとは言え、隙を見て黎珠が眼潰しや咽喉突きを繰り出す可能性はある。それは警戒もするだろう。
「これは出過ぎたことを。申し訳ありませんでした。行ってらっしゃいませ、北嶽様」
粗雑ながらも黒影を拾い、手に持ったことを確認して、黎珠は北嶽を見送った。よく北嶽はどこかへ出かけるので、今回もそこへ行くのだろう。後ろ姿が完全に見えなくなったところで頭を起こし、黎珠は立ち上がる。
すると、折よく入室してきた李とばったり出くわした。
「李君、ちょうど良かった。北嶽様は今日、昼餉は不要とのことです」
膝を曲げ、目線を李に合わせて伝える。
李は頷いて帳面に字を書き連ねると、黎珠に見せた。
『わかりました。昼餉がいらないのは大丈夫です。ただ、今日は白州とのシンボク会を、昼過ぎくらいに開くそうなんです。もとは夜に行われるはずだった酒宴を、昨日のことを受けて急きょお茶会にしたそうです』
李の話に、黎珠は頷き返した。
その対応はもっともだ。夜襲の翌日に酒宴を催すなど、正気の沙汰ではない。だが、遠路はるばる玄州にやってきた白州側の面子もある。色々な思惑が働き、昼の茶会という形で折り合いがついたのだろう。
『なので、北嶽さまにもご出席いただくよう、伝えてもらっていいですか?』
「それなら、わたしよりも李君からお伝えした方が良いのでは? わたしは北嶽様に信用されてませんし」
『でも、ぼくは耳が悪くてうまくしゃべれないから。聞く方は、とても聞きとりにくいんです』
「では、李くんは喋れるのですか?」
李を唖者だと思っていた黎珠は驚いた。
今まで、李が黎珠の言葉を取り違えたことはほぼない。咽喉の障害で喋れないものと思っていたが、実際は『耳』の障害だったのだ。李はいつも、黎珠の唇を読み取っていたのだと知る。
『はい。だから、しゃべるのは嫌なんです。ほんとに聞き苦しいので』
「聞き苦しいだなんて、そんなことは」
黎珠が否定すると、李はふわりと笑って袖から書状を取り出した。
『ありがとうございます、ぼくは大丈夫です。それよりも、北嶽さまに言伝を。誰かに問いただされたときのために、念のためこの書状も持っていってください。詳細が書かれています』
「わかりました、お預かりしますね。ちなみに、李君は北嶽様がどちらにいらっしゃるか、わかりますか?」
黎珠が問うと李は筆を置き、少し考え込む仕草を見せた。
心当たりはないのかもしれない、と思った黎珠に示された文は、なんとも的を得ない内容だった。
『わからないけど、わかります』
「ええと……」
黎珠が言葉を探していると、李はすぐに書き付けて帳面を見せた。
『小童は知らなくていいって言われるんです。成年した龍じゃなきゃだめって。だから、成年してる龍にきけば教えてもらえると思います。北嶽様が行くのは蓮池のむこうなので、蓮池の近くにいる龍なら知ってると思います』
「わかりました。ありがとうございます!」
蓮池の方角なら、うってつけの龍がいる。日に何度も手間をかけるのは心苦しいが、さほど時間に余裕もない。ここは甘えさせてもらう。
黎珠は再び、鳳炬の蓮池へと駆け出した。




