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その後、黎珠は薬壺を手に、西嶽の滞在する離れを訪れていた。
薬は鳳炬から薬草を分けてもらい、先ほど急いで煎じたものだ。幸い乳鉢や薬研などの道具も揃っていたので、すぐに持参することができた。
(どうにかして、薬壺を雲将軍に渡せればいいのですが……)
やや緊張しつつ、離宮に足を踏み入れる。
賊の探索に駆り出されているのか、門扉に兵はいないようだ。胸を撫で下ろして門をくぐり抜ける。だが、その敷地を一望したところで黎珠は立ち往生した。
──思った以上に、離宮が広い。どうしたものか。
この宮の兵や官吏に訊ねたところで、即刻摘み出されるのは眼に見えている。かと言って、このまま戻る諦めもまだつかない。
悩んでいると、背後から軽やかな足音が耳に届いた。
「おんや、龍討師の娘じゃないか。お前ってつくづく運がいいねぇ。それとも狙ってるのかな? この僕が単身、歩いているところを」
「いえ、滅相もございません!」
声をかけられ、すぐさま黎珠はその場で叩頭した。拝顔するまでもなく、声の主が誰かわかったからだ。
「ほう、白か。それにずいぶんと礼儀を憶えたもんだ。感心感心。まあ、離宮の門番は感心せんがね。持ち場を離れるとは、さすが玄州兵といったところか。あるいは、賊の探索で兵の補充が間に合ってないのかねぇ」
「いずれにしても、お褒めにあずかり光栄に存じます、西嶽様」
黎珠は地面と向き合ったまま、さらに頭を下げて伝える。
すると、頭上で西嶽の笑う気配がした。
「面を上げよ。して娘、何しにここへ来た? 気が変わって、僕や雲翔の頸が欲しくなったかい?」
「いいえ」
顔を上げると、西嶽は欄干にもたれかかるように、肘をついて立っていた。ちょうど黎珠の斜め上のあたり──地面から高さを上げて造られた、宮の外廊下だ。恐らく散歩か何かで黎珠を見つけたのだろう。
黎珠の回答に対し、西嶽は満足げな笑みを返して身を起こした。
良かった、きちんと『白かった』ようだ。
「では、何用でここへ来た?」
「はい。この薬を雲将軍へお届けできればと」
黎珠が差し出した小さな壺を、西嶽は受け取ることなく半眼で見下ろした。
「なんだ、その薬壺は?」
「雲将軍におかれましては、龍脈を傷付けてしまいましたので。僭越ながら薬草を煎じ、治療薬をお持ちしました」
黎珠が告げると、西嶽は興味を失ったように身を起こした。
顎をしゃくるように、すげなく壺を突き返す。
「いらんよ。お前が煎じる薬などより、よほど上等なものを、あいつには与えている」
「そのお薬には、龍気を養う効果も?」
「龍気を養うだと?」
「はい。傷薬も効果はありますが、龍脈を傷付けた場合は、合わせて龍気も治療した方が、はるかに治りが早くなります」
この知識については、さしもの西嶽も知らなかったようだ。
討師は龍殺の法と合わせて、龍の治療術も学ぶ。それは龍の拷問の際、龍脈に損傷を与えながら生かし続けるためなのだが……違う目的で役に立ったので、今回は良しとしよう。
「お前の薬にはそんな効果があるのか。ふむ、今の言葉に偽りはないな?」
「はい」
「ふうん。じゃ、もらっとくよ。本当に効くんだろうな? まさか毒なぞ入ってないだろうね?」
「はい。偽りございません」
存外、念を押すものだ。
欄干から手を伸ばして薬壺を受け取ると、西嶽はそれを袖の中にしまった。
「では、お前を信じてやろう」
「ありがとうございます。この薬は劣化しますので、可能な限り本日中にお飲みください。量を三回分に分け、食前または食間に服用いただければ」
「わかったよ。さあ、もう用は済んだろ? 見つかる前に疾く去ね──ッ」
言いかけた西嶽の顔が、苦虫を噛み潰したような表情に変わる。
何事かと思い黎珠が西嶽の視線を追うと、必死の形相の雲翔がこちらに向かって来るのが見えた。やや足取りが重いのは、まだ傷が完治していないせいだろう。
「西嶽公ぉぉぉ────ッ!!」
凄まじい剣幕で叫び、迫る雲翔に西嶽は天を仰ぐ。
雲翔はようやく西嶽の前に辿り着くと、無言ですうっと大きく息を吸い込んだ。
さっと西嶽が両耳を塞ぐ。
何事かと黎珠が訝しんだ矢先、
「あなたという方はッ! いったいなんべん言えばご理解いただけるんですかぁ────ッ!」
大音響が離宮を轟かし、木の上から小鳥がばさばさと飛び立った。黎珠は塞ぎ損ねた耳を押さえ、頭痛をやり過ごす。
難を逃れた西嶽は雲翔に対し、柄にもなく声を張り上げて言い返した。
「ばっ、こら雲っ! 寝台に戻りなさい! お前はまだ安静の身──」
「毎度毎度毎度、口を酸っぱくして申し上げているはずです! 供も付けずに外をうろつくなと! 武に長けた北嶽公が出歩くのとはわけが違うのですよッ!? 現に昨日、北嶽公は夜襲を受けたばかりだというのに、あなたはッ!」
雲翔の怒りは凄まじく、西嶽の話がまるで耳に入っていない。
嵐のような小言が通り過ぎると、雲翔は顔を歪めてその場に膝をついた。
「ぐ……ッ!」
「あー、もうお前は! ああ悪かった、悪かったよ! 我が名において、僕が全面的に悪かった! だから寝台に戻ってくれ、雲翔」
「本当に、本当に……あなたという方は、いつもいつも──」
「おーい、僕の話も聞きなさい? 雲~、雲翔さん~?」
西嶽の声は、果たして雲翔には届かなかったようだ。
突然両眼をくわっと見開き、雲翔はこう言った。
「それともあれですか、少しばかり早い痴呆ですか!? なんなら今から医官を呼びましょうか!」
「む、その発言は聞き捨てならんぞっ! 実の父親を痴呆呼ばわりとは何事だ!」
さすがに頭にきたらしい西嶽が反論する。
それを耳にした黎珠は、拝礼も忘れて驚きの声を上げた。
「うえぇぇぇぇぇ──ッ!?」
人である黎珠から見れば、見事に外見が逆転している。
どう見ても雲翔が父親で、西嶽がその子だ。
しかし思い返せば、龍の成長速度には差があると以前、孝燕から聞いている。若くとも外見年齢が高い者もいれば、逆に老齢で低い者もおり、個々の外見がまちまちなのだ。
「雲は、妻の血筋に似てるんだよ。いや、僕の奥さんはめっちゃ可愛いんだけどね。向こうは武官の家系だから、強面が多いんだよねぇ。この子も図体ばかり大きくなって、最近ちっとも可愛くないんだ」
「この齢で可愛げがあってたまりますか!」
ぶすりとした顔の西嶽に、雲翔が突っ込みを入れる。
このやり取りを見ていると、確かに親子に見えなくもない。普段は、雲翔がわきまえているのだろう。
黎珠に親はいないが、こんな温かい関係は知っている。
夏楠と黒影、孝燕が話していた、あのときの空気に似ているのだ。
──良い父子だ、と思った。
「雲将軍は、お父様を慕ってらっしゃるのですね」
憧憬に近い思いで、黎珠はそう口にしていた。
捨て子の黎珠には、親に愛されている雲翔が少し、羨ましかった。
「きちんと周囲に愛されてお育ちになったことが、よくわかります。父子とは、こんな素敵なものなのですね……」
西嶽父子は呆気にとられたのか、そろってぽかんと立ち尽くし、黎珠を見た。それで、ようやく気付く。頭が高い。
北嶽にあれほど言い含められたというのに……学習しないのだから、無能呼ばわりされて当然だ。
黎珠は再度膝を折り、雲翔に叩頭した。
「雲将軍、先だってのご無礼、深く反省しております。誠に申し訳ございませんでした」
「驚いたな。父上、本当にこれがあの娘ですか?」
「そうだよ。だーいぶましになったでしょ?」
西嶽の言葉に、雲翔は落ち着きを取り戻した様子で口を開いた。
「そういえば、この娘は我が国の常識を知らぬまま育ったのでしたね。北嶽様はお赦しになったのですか?」
「ああ。今では北嶽の奴婢だ」
「なるほど、わかりました。……娘」
雲翔に話しかけられ、黎珠は地面を見つめたまま息を呑んだ。
街で大立ち回りを演じて以来の会話だった。
「昨夜、賊が入ったと聞いたが。北嶽公はご無事か?」
「はい、ご無事です。傷一つございません」
「ならば良い。顔を上げなさい。お前の非礼は、我が名において赦そう。此度の件は元を辿れば、私の驕りが招いた結果でもある。私も良い勉強になった」
「あ、ありがとうございます!」
雲翔を仰ぎ、声を上擦らせて感謝を告げる。
すると、得意満面の西嶽が横から口を挟んだ。
「温厚篤実、公明正大。どうだ、素晴らしい息子だろう?」
「それは母上のおかげですね。感謝せねば」
得意げに胸を張る西嶽に釘を刺し、雲翔は土下座する黎珠に視線を戻した。
何事かと周囲に集る人龍を一瞥し、
「さあ、もう帰りなさい。皆がこちらを見ている。あまりここに長居すると、いらぬ疑いをかけられかねん」
「はい。本当にありがとうございました、雲将軍」
「良く務めよ、人の娘」
誠実な心根が透けて見える微笑を浮かべ、雲翔は黎珠を送り出した。




