26
とうとう賊は捕まらぬまま、その日は夜が明けた。
襲撃があろうがなかろうが、朝の務めは変わらない。黎珠は桶を手に、とぼとぼと井戸へ向かった。
結局、腕の傷は数針縫う程度で済んだ。幸い敵の刃に毒は塗られていなかったのだが、裏を返せば、毒から襲撃者の足取りはつかめない。黎珠のように毒物の知識があれば、ある程度材料は割り出せるので、それを警戒した可能性もある。
黙考しつつ水を汲む中、黎珠はふと手を止めた。
憶えのある人物の気配に、振り返ることなく声をかける。
「おはようございます、桃さん」
対する桃は一昨日と同様、やや平坦な口調で応えた。
「……おはよ、たま。今日は、気づかれた」
「今日は少し、雰囲気がささくれ立ってましたから」
振り返りながら黎珠が告げると、「そっか」と得心したように桃はぽつりと呟いた。
「ねえ、桃さん」
笑みとともに名を呼ぶ。
ごく静かに、ゆっくりと、黎珠は桃に訊ねた。
「桃さんの主は、どなたなのですか?」
「あのね……それは、ひみつ、なの」
「そうですか、秘密ですか。では──桃さんは、主の方がお好きですか?」
「うん! 好き」
珍しく、すぐに返事が返された。
それだけでなく、さらに続けて桃は言い連ねる。
「あのね、主様はね、桃のこと助けてくれた方なの。それで、おいしいごはん、いっぱいくれたの。主様は、この国の民に、ごはんをいっぱいあげるためにがんばってるんだよ」
熱を込めて語る桃に、黎珠は少し困りながらも笑みを返した。
彼女の言わんとすることは、よくわかる。しかしだからこそ、核心に迫る言葉を投げかけてみた。
「では、北嶽様のことはお嫌いですか?」
「きらいだよ」
そしてこれもまた、即答だった。
「だってあいつ、何もしないもん。主様が言ってたよ。あいつが北嶽のままだと、ただでさえ悪い玄州が、もっともっと悪くなるって」
そう言うと桃は黎珠に駆け寄り、怪我をしていない方の手を引いた。
「たまは、あいつが、いやじゃないの?」
「はい」
「……どうして?」
「嫌いになれないんです、どうしても」
「……ぶたれたり、殺されそうになったのに?」
「はい」
ひとしきり黎珠の答えを聞くと、桃は握っていた手を離した。いつもは水晶のように澄んだ瞳に、わずかな困惑が見て取れる。
その疑問はもっともだ、と黎珠は思った。以前の自分であれば、間違いなく桃の意見に同意している。
「……桃には……わかんないよ。たまのことが、わかんない……」
「気にかけてくれて、ありがとうございます。桃さんは優しいですね。以前のわたしなら、愚かだと切り捨てて終わりでした」
自分などより、よほど心根が美しい。
その貴重さが理解できるだけに、黎珠はそれ以上、桃にかける言葉を見つけられなかった。
そう、桃は正しい。その主張はきっと間違っていない。
だからこそ、説得も弁明も違うと思ったのだ。
「桃には……わかんない……」
もう一度繰り返すと、桃は足音も立てずに大きく後ろに跳び、塀の上に降り立った。晴れ渡った空を見上げ、ほうっと白い息を吐く。
「……さむいね、ここは」
小さな独白を残して、桃は器用に塀の上を駆け抜け、姿を消した。




