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 とうとう賊は捕まらぬまま、その日は夜が明けた。

 襲撃があろうがなかろうが、朝の務めは変わらない。黎珠は桶を手に、とぼとぼと井戸へ向かった。


 結局、腕の傷は数針縫う程度で済んだ。幸い敵の刃に毒は塗られていなかったのだが、裏を返せば、毒から襲撃者の足取りはつかめない。黎珠のように毒物の知識があれば、ある程度材料は割り出せるので、それを警戒した可能性もある。


 黙考しつつ水を汲む中、黎珠はふと手を止めた。

 憶えのある人物の気配に、振り返ることなく声をかける。


「おはようございます、モモさん」


 対する桃は一昨日と同様、やや平坦な口調でこたえた。


「……おはよ、たま。今日は、気づかれた」

「今日は少し、雰囲気がささくれ立ってましたから」


 振り返りながら黎珠が告げると、「そっか」と得心したように桃はぽつりと呟いた。


「ねえ、桃さん」


 笑みとともに名を呼ぶ。

 ごく静かに、ゆっくりと、黎珠は桃にたずねた。


「桃さんのあるじは、どなたなのですか?」

「あのね……それは、ひみつ、なの」

「そうですか、秘密ですか。では──桃さんは、主の方がお好きですか?」

「うん! 好き」


 珍しく、すぐに返事が返された。

 それだけでなく、さらに続けて桃は言い連ねる。


「あのね、主様はね、桃のこと助けてくれた方なの。それで、おいしいごはん、いっぱいくれたの。主様は、この国の民に、ごはんをいっぱいあげるためにがんばってるんだよ」


 熱を込めて語る桃に、黎珠は少し困りながらも笑みを返した。

 彼女の言わんとすることは、よくわかる。しかしだからこそ、核心に迫る言葉を投げかけてみた。


「では、北嶽様のことはお嫌いですか?」

「きらいだよ」


 そしてこれもまた、即答だった。


「だってあいつ、何もしないもん。主様が言ってたよ。あいつが北嶽のままだと、ただでさえ悪い玄州が、もっともっと悪くなるって」


 そう言うと桃は黎珠に駆け寄り、怪我をしていない方の手を引いた。


「たまは、あいつが、いやじゃないの?」

「はい」

「……どうして?」

「嫌いになれないんです、どうしても」

「……ぶたれたり、殺されそうになったのに?」

「はい」


 ひとしきり黎珠の答えを聞くと、桃は握っていた手を離した。いつもは水晶のように澄んだ瞳に、わずかな困惑が見て取れる。

 その疑問はもっともだ、と黎珠は思った。以前の自分であれば、間違いなく桃の意見に同意している。


「……桃には……わかんないよ。たまのことが、わかんない……」

「気にかけてくれて、ありがとうございます。桃さんは優しいですね。以前のわたしなら、愚かだと切り捨てて終わりでした」


 自分などより、よほど心根が美しい。

 その貴重さが理解できるだけに、黎珠はそれ以上、桃にかける言葉を見つけられなかった。


 そう、桃は正しい。その主張はきっと間違っていない。

 だからこそ、説得も弁明も違うと思ったのだ。


「桃には……わかんない……」


 もう一度繰り返すと、桃は足音も立てずに大きく後ろに跳び、塀の上に降り立った。晴れ渡った空を見上げ、ほうっと白い息を吐く。


「……さむいね、ここは」


 小さな独白を残して、桃は器用に塀の上を駆け抜け、姿を消した。


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